やまとことばという日本語・「あいさつ」は社会のルールか

「おはよう」とか「こんにちわ」とか「さようなら」とか「ごめんください」とか「いらっしゃい」とか「ごちそうさま」とか「ありがとう」とか「ごめんなさい」とか、人と人が挨拶をすることは、社会のルールですか。
あたりまえのようにそういう言い方をする愚劣な大人が、この社会にはうんざりするくらいたくさんいる。
社会の秩序とか社会を住みよいものにするために「挨拶」があるのですか。
社会がどうなろうと、知ったことじゃないでしょう。
人は、社会のために存在しているのではない。
人が生きて暮らしている「結果」として社会があるだけだ。
この世に社会が存在することは、受け入れるほかないわれわれの「運命」であって、しかしせつなる「願い」ではない。
そこのところをはきちがえているあほな大人たちがうようよいて、のさばっている。
「挨拶しなさい」と教える必要なんか何もない。挨拶したくなるような心になれば、挨拶せずにいられなくなる。
挨拶とは、そういうものだ。
社会のルールなんかではない。
人は、挨拶したくなる生きものなのだ。
「あいつはろくに挨拶しない」と文句いうひまがあったら、挨拶してもらえない自分の人格を恥じたらどうなのだ。
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「あいさつ」の「あい」は、「逢う」。そして人と人の関係の「さ=裂く=すきま」と「つ=くっつく=まとわりつくこと」との悲喜こもごも。挨拶によって、くっつきすぎた関係がちょうどよいものに戻るときもあれば、離れすぎた関係をくっつけるときもある。
挨拶は、くっつくためのものであると同時に、離れるためのものでもある。
古代人は、われわれよりずっと人と人が「出会う」ということに対する深く繊細な感慨を持っていた。そういう歴史の水脈から、やがて「あいさつ」ということばが生まれてきた。
社会がどうなろうと知ったことではないが、人と人が出会うことには「ときめき」がある。
「おはよう」と、人より先に挨拶するよろこびがあれば、先に挨拶されるよろこびもある。
挨拶することは、「出会いのときめき」の表現であって、社会の「ルール」なんかではない。
だからこそ、ときには、挨拶をためらう憂鬱もあるし、困惑もある。そうして、この社会に息が詰まるくらいたくさんの人間がいることに対して、いつもそんなふうに戸惑いおびえている繊細な人もいる。
しかし、もしかしたら、そんな繊細な人のほうが、われわれよりずっと深い挨拶のよろこびを知っているのかもしれない。そんな人の挨拶は、たからものだ。