原始的なインティメイト・ネアンデルタール人と日本人・58


やまとことばの語源をたどってゆくことによって日本文化の基礎のかたちが見えてくる。
何はともあれ、火が人類史に果たした役割は大きい。
火によって育てられてきた人間の心というのもある。
「火(ひ)」というやまとことばのことを考えてみたい。
「秘密」の「ひ」、「ひ」という音声は、歯が抜けているととても発声しにくい。上の歯と下の歯のあいだを狭くして息を口の中に残しながら音声だけを吐き出す。息を口の中に秘匿する発声である。だから「秘密」の「ひ」や「ひっそり」の「ひ」になる。
「屁をひる」などという。この場合の「ひる」も、音声だけを吐き出すからで、「息」も一緒に吐き出すと臭い。
「引く」の「ひ」も、息をひっこめている発声だからだろう。
「火(ひ)」も、「秘密」の「ひ」だろうか。火は、夜の闇に隠れていたものをあらわにしてくれる。しかし、人間の火に対する親しみはそれだけではない。
英語の「ファイア(fire)」というのも、まあ「ひ」と似たような音声で、もともとは「フィア」、あるいは「フィ( fi )」とだけいっていたのかもしれない。このほうが「ひ」というよりも唇を動かさなくてすむ。寒い地では、必然的にそういう発声になる。
人間の火に対する親しみは、死に対する親しみを呼び起こすことにある。そうやって心がしいんとしてくる。つまり、心が「ひそやか」になってくる。消失感覚、というのだろうか。人間として生きてあることのいたたまれなさを忘れ、自分という存在のことや生きてあること自体も忘れてゆく。火を眺めていると、そういう「ひっそり」とした感慨が胸に満ちてくる。そういう感慨の表出として、いつの間にか「火(ひ)」というようになっていったわけで、おそらくこの感慨は英語の「ファイア」の語源と同じなのだろう。
「火(ひ)」という言葉は、みんなで火を囲んで語り合っているところから生まれてきたのだろう。
語源においては、火がどのような形状のものかとか、生活にどのような機能を果たしていたかとか、そういう「意味」の説明よりもまず、人間が「今ここ」に生きてあるということから生まれてくる感慨の直截な表出だった。生活感覚よりも先に、まず実存感覚がある。それが、語源を探る手がかりになる。
語源においては、言葉はコミュニケーションなどという生活の道具だったのではない。生きてあることの感慨を表出する道具だった。原初の人類は、時代を経るにしたがって、そうした音声=言葉を発せずにいられない生きてあることのいたたまれなさを持つようになっていった。
おそらく「火(ひ)」は、人間存在の根源とかかわっている言葉なのだ。闇に隠れているものをあらわすとか、そういう実利的な機能の説明ではなく、むしろ逆の「消えてゆく」という実存的な感慨をあらわす言葉だった。そこに、人間の火に対する親しみがある。
「ひ」という音声=言葉は、消失感覚(カタルシス)の表出。ここから「あはれ」や「はかなし」の美意識が生まれてきた。そしてこの、火に対する親密さの上になりたった美意識は、ネアンデルタール人までさかのぼることができる。
現在の日本文化は世界的に見て特殊な位置にあるのかもしれないが、日本人が特異だというわけではない。世界中の誰の中にもある原始性を比較的色濃く残しているというだけのことなのだ。
ヨーロッパ人はこの原始性を無意識の中に潜めながら歴史を歩んできたが、日本人は表立った文化として育て洗練させてきた。まあ、そういう違いはあるのかもしれないのだが、日本文化の洗練はネアンデルタール人の末裔であるヨーロッパ人にもわかるらしい。



ここで「ネアンデルタール人と日本人(縄文人)」と並べているからといって、どうか唐突な思いつきだと決めつけないでいただきたい。本居宣長はすでに「やまとごころは普遍的な人間性である」というようなことをいっている。ここではその彼が、江戸時代という制限や彼の人生が時間切れになったりしたためにやり残してしまった問題にトライしているだけである。
やまとごころは普遍的だということは、何も日本人は優秀だということではない。世界中の人に対して、「あなたたちだって心の底では同じように思っているではないか」といいたいだけなのだ。
日本列島になぜそのような原始性が残ったかといえば、極東の絶海の孤島だったことに加えて、縄文人もまたネアンデルタール人と同様、「生きられない」生を抱えている人々だったことがある。だから、火に対する思いもひとしおのものがあった。
ともあれ消失感覚のカタルシスは、世界中の人間が体験している。
消失感覚は、「別れのかなしみ」である。「ひ」という音声を発すること自体に「別れのかなしみ」が滲んでいる。火は、その「別れのかなしみ」をカタルシスへと昇華させてくれる。この感覚を契機にして人と人が寄り添い合ってゆく。つまりそのようにして人は、火を囲んで語り合うということをしている。「火(ひ)」は、そのような場から生まれてきた言葉なのだ。
たとえば、戦場の兵士たちが夜中に火を囲んで休息しているとする。そのとき彼らは、敵の存在を忘れている。彼らはもう、まわりの人に対する親密な感情だけに浸されて、敵という憎むべき相手を思い浮かべることができなくなっている。すなわちそれは、みずからの身体の危機に対する意識が消失している、ということだ。それが「あはれ」や「はかなし」の感慨で、そういう身体の消失感覚は世界中の誰もが持っている。
火は身体の危機をもたらす対象であるがゆえに、身体の危機を忘れさせる対象でもある。人の心はそのような二律背反を生きるはたらきを持っており、それが人間の自然であり原始性である。
身体をよりどころにして生きるということは、身体を忘れて生きるということでもある。



日本列島の伝統的な美意識の基底には「別れのかなしみ」が潜んでいる。本居宣長はそれを「やまとごころ」といった。それは平安時代に生まれてきた言葉で、そのころ、仏教伝来以来の大陸文化(=からごころ)に染まり過ぎたことの反省として、この島国の原点に還ろうとするムーブメントが起きてきたのだろう。遣唐使を廃止したのも、そのひとつのあらわれだろうか。
「からごころ」を意識したから「やまとごころ」という言葉が生まれてきた。
そのころの「からごころ=大陸文化」のイメージは、共同体の制度と仏教文化にあった。
もともと日本列島の住民には、共同体の意識も宗教の意識も希薄だった。縄文人のほとんどは、10戸か20戸ていどの集落しかつくらなかった。そういう時代が1万年も続いたのが日本列島の伝統である。縄文時代の人々が「神」という意識を共有してつながっていたら、とっくに大きな共同体ができていたことだろう。
いいかえれば、共同体の結束を生む装置として神という概念が生まれてきた。世界中の古代文明の共同体はすべて、神という概念を共有してゆくことの上に成り立っていた。
しかし絶海の孤島であった日本列島においては、異民族に対抗するための共同体をつくる必要がなかったし、共同体をつくるための神という概念も1500年前の仏教伝来のときまで伝わってこなかった。
仏教伝来以前の日本列島は、あくまでも火に対する親しみとともに人と人が寄り添い合ってゆく原始的な心性の上に集団が成り立っていた。
神は人間をつくりたもうた。すなわちみずからの存在を確かに実感してゆくことが、その創造主である神の存在を止揚し崇めることでもある。とすればみずからの存在が消えてゆく心地にカタルシス(快楽)をおぼえることは、神に対するひとつの冒涜であり、神を知らない心のなせるわざだといえる。
神は天国や極楽浄土という死後の世界に連れていってくれるし、生まれ変わりをさせてもくれる。しかし古代以前の日本列島においては、「死んだら何もない黄泉の国に行く」という消失感覚の上に成り立つ世界観生命観だった。神仏のいる天国や極楽浄土に行くことや生まれ変わることよりも、火を眺めながら体験される消失感覚の方がずっと大切だった。これが、やまとごころである。
たがいに自分の命や実在感を止揚しながら共同体の結束をつくってゆくのが「からごころ」だとすれば、自分が消えてゆく心地とともに他者に寄り添ってゆくのが「やまとごころ」だった。「やまとごころ」が、その消失感覚とは矛盾した神や霊魂という概念を発想することは論理的にありえない。
また、そのような神や霊魂を知らないところから体験される消失感覚は、世界中の人間が一方に持っている。
デカルトは、神の実在を証明するために「われ思うゆえにわれ在り」という定理を導き出した。「われ」の実在こそ神の実在である、ということだ。これが「からごころ」であり、「やまとごころ」においては、この生=実在を「あはれ」とも「はかなし」と嘆きながら消えてゆくカタルシスが大切だった。
古代以前の日本列島の住民は、神を知らない民族だった。神を知っている民族が「黄泉の国」などとはいわない。
人類史における原始的な心性は、火に対する親しみとともにある消失感覚の上に成り立っていた。神や霊魂を無邪気に信じるアニミズムを原始性というのではない。原始人は神も霊魂も知らなかったのであり、その心を洗練させていったところに「やまとごころ」があった。



「やまとごころ」という言葉が生まれてきた平安時代は、神道が仏教に対抗するもうひとつの宗教として確立されていった時代でもあった。いいかえれば、もともとの神道は宗教でもなんでもなかったということだ。
神道に宗教としての機能が希薄だったから、大和朝廷の支配を強化するための装置として仏教が輸入された。
どこが宗教としての機能が希薄だったかといえば、何よりも共同体の結束のシンボルとしての神や仏という創造主を持っていなかった。そしてそういう目の前に「ない」ものを「ある」とする観念を持たなければ、支配制度がうまく機能しないし、異民族の脅威を意識することもできない。
日本人は、異民族の脅威をクリアに自覚することが下手な民族である。そういう社会の構造が明治になるまで続いた。
日本列島の神は、仏教伝来以後の飛鳥時代になって盛んに語り合われるようになってきた。そうして古事記の話が生まれてきたわけだが、神道を宗教にしようとする動きはそのころからはじまっていたともいえる。
この動きには、大和朝廷の権力者と民衆のあいだに微妙な駆け引きのあやがあったのだろう。
権力者は、何としても仏教を定着させたかった。しかし日本列島には、権力者の上に天皇という祭りのシンボルがいた。そのとき民衆における集団の結束は祭りの賑わいの上につくられていたわけで、自分たちの固有の祭りとそのシンボルである天皇を手放したくはなかった。仏教の行事や祭りだけでは生活の張り合いがなかった。天皇と自分たちの祭りの賑わいを守るためには、どうしてもそれをもうひとつの宗教のかたちにしてゆく必要があった。
とはいえ、天皇を仏にするわけにはいかない。それでは仏教に対して失礼である。仏教の神は、仏のひとつ下の位である。だからまずその「神」というものを自分たちの固有のかたちで生み出し、天皇をその末裔ということにしていった。
とにかく、まず神がいてこの国をつくったということにしよう、と語り合った。いったいどんな神がいてどんなふうにしてこの国をつくっていったのだろう、と考えることはとても楽しく、みんなで大いに語り合った。そのようにして古事記の神が次々に生み出されていった。そうして、それぞれの祭りの場にそれぞれ好みの神を祭神として祀り上げていった。
神道の神のほとんどは古事記に由来しており、古事記のあとに神道の祭神というシステムが生まれてきた。
もともとの神道に神などいなかった。祭りのシンボルとしての天皇や踊りの名手としての坐女がいただけである。天皇だって、起源においては、踊りの名手である「坐女(みこ)」という若い娘だった。それがやがて、坐女を引退したひとりが各地域の坐女を統合する「きみ」というシンボル的存在になっていった。もしかした「みこ」を統合するという意味で「きみこ」といっていたのかもしれない。それを中国の役人が聞きちがえて「卑弥呼(ひみこ)」と書いたのだろうか。



したがって起源としての神社の建物は、神がおはしますところでもなんでもなく、たんなる踊りの名手の舞台であり、みんながそこで語り合う集会所のようなところだった。
神がおはしますところになったのは古事記以後のことだし、古事記の神ばかりである。
古事記の神は、日本列島で遠い昔から伝えられてきた神ではなく、古墳時代飛鳥時代奈良盆地の人々がみんなで語り合いながら生み出していった神にすぎない。しかし奈良盆地には列島中から人が集まってきており、列島中のことが語り合われていた。
神社神道の発生は、仏教の「からごころ」に対して「やまとごころ」を神道として守ってゆこうとする動きだったわけで、そのためにはどうしても神を持つ必要があった。
基本的には神が必要だったのではなく、「やまとごころ」が必要だった。
神なんか、なんでもよかった。だから、あのようなあり得ないかたちの神が、語り合いのなりゆきまかせで想像されていった。それらの神は、長い歴史の時間に洗われて形を整えてきたという姿ではない。それらの神に地域を支配する力などまるでないし、人々もそんなことは何も当てにしていない。ただもう地域のシンボルとしておもしろおかしくイメージできればそれでよかった。祭りの賑わいを盛り上げる効果になっていればそれでよかった。
神道の基本は、神に祈って神との関係を構築することではなく、ただもう自分のことを忘れて無邪気に神のことだけを思ってゆくことにある。しかしそれは、それほどに神が大切な存在だということではなく、自分を忘れてしまうことができるのなら神がどんな存在かということはなんでもよかった、ということだ。つまり古事記においては、自分を忘れて関心を引き寄せられてゆくかたちで神を造形していったのだ。
その消失感覚に身を浸すことを「みそぎ」という。まあ「みそぎ」とは「みをそぐ」ということだろうが、その「み」には、身体だけでなく自分という意識も含まれている。「中身」の「み」、中身が空っぽになる、その消失感覚を「みそぎ」という。
古事記の神などほんとにとんちんかんなしろものばかりだが、それは、それほどにその当時の民衆の消失感覚に身を浸そうとする願いは切実だったということを意味する。
仏との関係を結んで死後の世界や生まれ変わりを信じてしまったらもう、我が身が消えてゆく契機などどこにもない。その、我が身が消えてゆく契機を守るために神道が宗教のかたちになっていったのだ。
そういう原始性を残していないと日本人は生きられなかった。
そのとき民衆の集団性は祭りの賑わいにあったのであって、共同体の制度や仏を信じてゆくことあったのではなかった。
この生の永遠を信じることではなく、「今ここ」に消えてゆく心地のカタルシスをみんなで共有しながら集団をいとなんでいた。
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