けがれとみそぎ・ネアンデルタール人と日本人・59


腹の中の人間に対する恨みや怒りを隠して生きることはできる。その人の外見や財力や社会的地位で隠すことができる。
しかし、隠さないでも最初からそんなものを持っていない人はもっと魅力的だろう。
人間は胸の奥に怒りや憎しみや恐怖を持っている、それが人間の本質であり原始性である……などという人がいる。彼は、自分がそうだから、人間はみんなそうだと思っている。自分という物差しでしか人間を考えることができない。そのようなどろどろした感情を理性で隠しながら生きるのが人間としてのたしなみであり人格である、と彼はいう。
しかし、人格というのなら、そのような感情を隠し持っていることがあなたの人格ではないのか。
怒りや憎しみや恐怖があるのなら、それを外にさらけ出してしまえばいいではないか。さらけ出す人の方がよほど安心して付き合える。さらけ出さない人は、怖いし気味悪い。
「腹に一物(いちもつ)」などという。日本列島の文化は、こういう人格を嫌う。
腹に一物などないことのすがすがしさがある。それを隠してうわべの体裁を整えることを「文化」というのではない。そういうことは「ビジネス」という。
腹に一物を隠し持たないで丸ごとの心をさらけ出して関係をつくってゆくことを「文化」といい、さらけ出しても人を不快にさせない人格を「文化的」という。
誰だってさらけ出し合える関係になりたいし、丸ごとさらけ出すことのできる心でいたいと思う。
隠し持っている人だって、丸ごとさらけ出しているふりをする。
「心をこめる」とは、腹の中のものを丸ごと差し出す、ということだろう。
原初の言葉は、腹の中の感慨を吐き出すようにして生まれてきた。腹の中のものを隠しながら「意味」だけを伝達する道具として生まれてきたのではない。
まあ「文化」とは、そういう腹の中のどろどろしたものを洗い流す装置だといえるのかもしれない。
腹の中に人間に対する怒りや憎しみや恐怖があれば、心から寄り添い合うという関係なんかつくれない。洗い流して、はじめて人と人が心から寄り添い合う関係になれる。隠すことは文化とはいわない。洗い流す装置として文化がある。
人間は心を持っているから、「かたちだけ」というわけにいかない。
ほんとうに知的な人や文化的な人は、すでに洗い流している。心に洗い流す装置を持っている。隠しているのは二流の知識人や文化人と詐欺師である。



神道は、「けがれ」を洗い流す装置である。それを「みそぎ」という。
洗い流して他者に寄り添ってゆく。
神道にとっての神はこれこれこういうものであるとかなんとか、研究者はいろいろ解説してくれるが、基本的に神道の歴史は、腹の中にたまったどろどろしたもの(けがれ)をさっぱり洗い流して他者との心から寄り添い合う関係になれる装置として機能してきたのだ。それが人間の原始性であり、神を信じることが原始性であるのではない。
神道は、その成り立ちの根源において、神などというものを信じていない。キリスト教ユダヤ教イスラム教の「神を信じる」ということと、神道の「神を迎える」という作法とはまた別なのである。神を信じていないから「神を迎える」ということをするのだ。そこのところはまあ、外国人にはなかなかわかってもらえない。
神などどのようなものでもいい、ひとまず自分を無化する消失感覚の体験として、神に手を合わせるということをする。
日本列島の人と人の関係があんがい他愛なくて権謀術数の文化が発達していないのは、神道というみそぎの装置が機能してきたからだろう。
日本列島は、心の奥のどろどろしたものを隠す文化ではない。洗い流す文化なのだ。
柏手を打って「神を迎える」、それは「そこに神が存在する」と思うのではない。神を迎えてそこに神がやってきていると思うのではない。神はいるのかもしれないし、いないのかもしれない。だから、神がやってくるなどとは誰も思っていない。ひたすら「迎えている」だけなのだ。ひとまず神がいるとかいないとかということは忘れて、ひたすら「お迎えする」ことによって、自分に張り付いた鬱陶しい心がはがれてゆく、洗い流されてゆく。
日本人は、神が存在するかどうかということなど議論しない。ただもうひたすら「神を思う」ことによって、「みそぎ」が果される。
したがって、日本列島の神は、何もしてくれないし、何もお願いしない。ただもうひたすら「神を思う」心をはたらかせてゆく。日本列島の住民が「神を思う」ことにとって、神が存在するかどうかということはどうでもいいことなのだ。
ただもう、柏手を打って、ひたすら神を思い、神をお迎えする。
神を知らない歴史を歩んできた民族が神との関係を持つにはもう、そういうかたちしかなかった。
神を思う習俗が縄文時代からあったのではない。神を知らない民族だったからこそ、ひたすら「神を思う」作法をつくり上げながら、その神という概念の大陸文化を受け入れていった。
日本列島の住民は、大陸文化を受け入れるというかたちで神という概念を知った。われわれは、神が存在すると当然のように信じているのでもなければ、西洋人のように神の存在証明を飽きることなく繰り返してきたのでもない。「神を思う」ことは「神が存在する」ということはまったくべつのことなのだ。
日本列島の住民にとっての神は、意識を身体=自分から引きはがす装置であり、その消失感覚とともに「神を思う」という作法が確立されていった。
それは、あくまで「作法」であって「神の存在を信じる」ということではない。



まあ神道とは、「信仰」ではなく「作法」なのだ。
神を信じる信仰ではなく、神を思う作法。神を知らない民族は、そのようにして大陸文化を受け入れていった。異民族の文化を受け入れることは、そういう作法を持たないといけないほど厳しいことなのだ。ただ丸ごとそのまま受け入れるというようなことはできない。日本列島では、そういう厳しいことを仏教伝来以来ずっと繰り返してきたのだ。
神道では、山や岩は神が下りてくる依り代であるという。それは、そこに神が宿っている、ということではない。あくまでも、神が下りてくる山だ(岩だ)、と思うことができるだけである。そこに神が存在することを感じることなんかできない。まあ、神が下りてくるほどのその山(岩)のありがたさがあるだけである。「神が下りてくる」なんてたんなる言葉だけのことだともいえる。しかしその「ありがたい」と思う気持ちはそれなりに経験できる。日本人は神を知らないからこそ、山そのもの姿に深く感じ入ることができる。
それは、「偶像崇拝アニミズム」というのとはちょっと違う。神なんか感じていない。神が下りてくるほどの姿のありがたさに感じ入っているだけである。その姿のありがたさの比喩として「神が下りてくる」といっているだけなのだ。
神なんか知らないけど、「ありがたい」と思う気持ちはある。宗教としてではなく、人間の普遍的な感情として「ありがたい」と思うことは日本人にだってできる。まあ神に向いていないぶんだけ、より純粋に深く原始的に感じ入ることができる。
自分のことを忘れて「ありがたい」と思ってしまう。
神の存在を信じることは、自分の存在を信じることである。異民族に対する怒りや憎しみや恐怖を持つことは、それだけ自分の存在の正当性と確かさを強く思ってゆく体験でもあり、その正当性と確かさを保証する存在として神が見出されていった。
日本列島でそんな状況が本格的に生まれてきたのは古墳時代以降のことだろうが、しかしそれだって支配階級だけのことで、庶民はもう、明治になるまでずっとそのような異民族を意識した世界観とは無縁だった。
まあ時代が進むにつれていろいろ紛争は起きてきただろうが、すでに自分の消失感覚(=みそぎ)の文化を基礎として持っていた。
神の存在を信じることが自分の存在を信じることだとすれば、自分の消失感覚(みそぎ)の文化を持つことは神の存在を知らないということになる。神によって保証されているはずの自分を洗い流すことを「みそぎ」という。
ただもう言葉として神を思い、思うことによって自分を洗い流す。
縄文人は、純粋に山の姿のありがたさを感じながら自分を洗い流していた。そして仏教伝来以後の神道は、そのありがたさに「神が下りてくる」という言葉を付与して教義にしていっただけである。「自分を洗い流す=みそぎ」というコンセプトは、おそらく縄文以来のものだろう。
「自分を洗い流す=みそぎ」は、「神を信じる」ということと矛盾する。その矛盾を「神を迎える=神を思う」というかたちで収拾していった。日本人は新し物好きの軽薄な民族だといわれているが、外来文化を受け入れることはとても厳しい体験なのだ。何はともあれそれは、伝統文化の危機である。しかし、自分を捨ててその危機に飛び込んでゆくのがこの国の伝統であり、「神を迎える」という作法なのだ。
自分という存在の消失感覚のカタルシス、日本人の新し物好きの伝統はその上に成り立っている。それは、火とともに培われてきた原始的な感性である。原始人はみな新し物好きだったのであり、それによって地球の隅々まで拡散していった。



自分という存在の消失感覚のカタルシスを知っているものは、したがって「腹に一物」というありようとは無縁である。誰にだって「腹に一物」はある。しかしそんな自分をすっかり忘れて世界や他者にときめいてゆけば、自分の中の「腹に一物」を意識することなんかない。人間は心の奥に怒りや憎しみや恐怖を持っている存在であるといいたがるのは、自分という存在の消失感覚のカタルシス(=みそぎ)を知らないもののセリフなのだ。
そんな心が原始人の心だったのではない。そんな心が消えてゆくタッチを持っていたのが原始人の心だったのだ。
そういう消失感覚を持たなければ、世界や他者に深く気づいてゆくことができない。そしてこれは、身近な日常茶飯事の問題であると同時に、高度な学問や芸術の問題でもある。何事にも、わかる人間にはかんたんにわかることがわからない人間はどんなにがんばってもわからない、ということがある。
たとえば、誰だって何かのはずみで「おはようございます」ということが突然できなくなってしまうことがある。道を歩いていて知り合いを見つけ、出会いがしらにあいさつを交わせばいいだけなのに、それができそうもなくてこそこそ隠れてしまったりすることがある。べつに憎いわけでも憎まれているわけでもないはずなのに、なんだか知らないができなくなってしまう。
それは、自分に張り付いている意識を引きはがせなくなっている状態である。人は、自分に張り付いている意識を引きはがして「おはようございます」という。
自分に張り付いている意識を引きはがして世界や他者に気づいてゆく。そういうタッチが希薄で、つねに自分を意識ながら「人間の本性は怒りや憎しみや恐怖にある」などと思っている人間は、あんがいかんたんな世界や他者のありさまがわかっていなかったりする。
自意識過剰な人間ほど自分はなんでもわかっていると思いたがるが、普通の人間にはじつにかんたんなことが何もわかっていなかったりする。
内田樹上野千鶴子や伊勢白山道や江原啓之は、自分はなんでもわかっているという意識がひといちばい強いが、彼らに高度な学問や芸術を理解できる知性や感性があるとも思えない。彼らには、自分という意識を引きはがして世界や他者に気づいてゆくというタッチが希薄である。当人はひといちばいなんでもわかっているつもりでいるが、第三者からみれば「なんでそれくらいのことがわからないのか」という部分をいっぱい抱えている。
人間は、世界や他者のことを知ろうとして知るのではない。知らされてしまうのだ。自分を忘れてしまうという消失感覚を持っているから、それによってときめき知らされてしまうのだ。彼らには、そういうときめきがない。私はなんでも知っている、という自分に執着した言い方や思い込みはひといちばいだけどさ。
人間の知性や感性は、自分という意識の消失感覚とともに豊かにはたらいている。
そして世の中には、そういうことをうまくできない人がたくさんいる。この社会の制度性は、それをさせない。この社会の制度を信じてそれに従ってゆく。その目の前にかたちとしてあるわけではない制度を「ある」と信じ込むことは、そのまま神の存在や神の規範を信じ込むことでもある。そういう「ない」ものを「ある」と信じ込む観念のはたらきに浸されてしまえばもう、世界や他者のありのままに気づいてゆく知性や感性は鈍磨してゆくしかない。
仏教伝来のときの日本列島には、そういう「ない」ものを「ある」と信じてゆく観念性=宗教性がなかったから、仏教を国の宗教として輸入していった。支配者がそういう観念性=宗教性を民衆に持たせなければいけないと発想してゆくことはもう、彼らの本能である。まあ、彼ら自身がそういう観念性=宗教性の持ち主だったわけで。
そして民衆は、世界や他者をありのままに気づいてゆく知性や感性を守ろうとして、ただのお祭りの行事だった神道を宗教らしくしていった。
神を知らない民族が神を知らない心を残しながら神信じてゆくという、このアクロバティックな作法として神道が生まれ、古事記の物語が語り合われていった。
なんにせよそのとき民衆は、腹の中の一物すなわち怒りや憎しみや恐怖を人間の本性であると意識しながら安心立命をうちたててゆく仏教だけではすままなくて、自分を忘れた腹に一物がない心でときめき寄り添い合ってゆく人と人の関係の作法を捨てるわけにはいかなかったのだ。
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