霊魂は存在するか?・「漂泊論B」31



「ルール」という言葉につまずいてしまった。
もう少しこのことにこだわってみたい。
ルールとは、選択肢を奪われて不自由な状況に立たされる装置のこと。
しかし命は、その不自由の中でこそいきいきとはたらく。
この生は、先験的に不自由の中に投げ入れられてある。だからこそ「生きる」といういとなみが起こる。
まあ、そのようなことをここまで書いてきた。
しかし、すべてのルールが同じ性格だともいえない
自然=身体としてのルール=不自由、制度=観念としてのルール=不自由。
病気などで身体が危機的状態に陥るのは、もっとも根源的な身体の不自由だろう。
そして共同体の制度や宗教の戒律に縛られるのは、観念としての不自由だといえる。
では観念と身体はべつべつにはたらいているのかといえば、そうともいえない。人間の場合は、とくに両者の相互作用が起きやすい。
なぜならわれわれの五感は、意識のはたらきによって補完されながら成り立っているからだ。りんごがりんごとして見えることは、目の網膜だけの問題ではなく、そう見えるように意識が補完している。
観念が縛られているから身体の動きもままならなってしまう、ということもよくある。
運動神経が鈍いということは、観念が縛られているということでもある場合が多い。
人間が他の動物よりも五感や身体能力が劣っているのは、意識あるいは観念によってそれを補完し、両者の相互作用をよりあからさまにそなえている存在だからであろう。
人間の身体は、意識あるいは観念の影響を受けやすい。
人間は、精神的なストレスで肩が凝ったり胃潰瘍になったりする生き物なのだ。
観念が縛られて不自由になっていれば、身体も縛られて不自由になる。



たとえば、病気で熱にうなされたりして前後不覚になり身体が極限状態に陥ったときに「幽体離脱」という心的現象を起こすことは、まさに「不自由の中に身を置くと身体を忘れてしまって自由になる」という典型的なサンプルかもしれない。
意識が身体から離れて、天井からベッドに寝ている自分の身体を眺めている……そのようにして、身体を忘れてしまって自由になっている状態。まあ、究極の自由といえばいえるのかもしれない。
人間は、ルールをつくってしまうよう存在の仕方をしている。ルール=不自由こそが命のはたらきをうながし、生きることを可能にしている。
この幽体離脱を特別な超常現象と解釈するべきではない。それはひとつの極端な心的現象ではあるが、それが起きる基礎的な意識のはたらきがあり、そこにいたるまでのグラデーションがあるはずだ。
不自由の極限で自由の極限が発生する。
身体が疲れることも、ひとつの不自由な状態だろう。そうなると、意識がそれを補おうとする。意識によって疲れが回復するわけもないが、身体のことを忘れてしまえば、疲れを意識することなく体を動かし続けられる。
身体が疲れてくれば、意識は身体のことを忘れようとする。そうして疲れが極限に達したとき、意識はすっかり身体のことを忘れてしまう。それが、幽体離脱だろう。
体がとても疲れてくると、ふっと体が軽く感じられる瞬間がある。スポーツの練習を長時間続けて疲れきっているとき、ふっと体が軽くなって最後の最後にナイスプレーが生まれることがある。そうして、ああこのように動けばいいのかとコツを会得したりする。
その「体が軽くなる」という感覚も、一種の幽体離脱である。幽体離脱しそうになっている状態、というのか。
二本の足で立っている人間の身体はほかの動物以上に「無力性」と「受苦性」を負っており、先験的に身体を忘れたがっている。おそらくこれが、幽体離脱の基礎的な意識のはたらきであろう。
つまり、「無力性」と「受苦性」という「ルール=不自由」の中に置かれてあるということ。
そしてそこから歩いてゆくとき、人間は身体のことを忘れて景色を眺めたり考えごとをしたりしている。これだって、幽体離脱である。身体の「無力性」と「受苦性」を負っているからこそ、よりダイナミックに身体のことを忘れて景色を眺めたり考えごとをしたりすることができる。
人間は、存在そのものにおいて、すでに幽体離脱している。
われわれが「もうひとりの自分=自我」と「自分=身体」という二つの自分を持って考えたり思ったりしていることだって、まあそういうことだろう。
幽体離脱なんか、おまえらが自慢するほど特別なことでもなんでもないのだ。



幽体離脱は極端な心的現象ではあるが、「特別」であるのではない。
僕は、幽体離脱が「霊魂」の存在証明のように語る言説が気に食わない。
「霊魂」などというものはない。
「霊魂はない」と証明することは不可能だが、「霊魂はない」と思っている。
そして、原始人の社会にも、「霊魂」という概念などなかった。
この世の中には、「霊魂」という概念にしがみついて「命」や「自分=自我」を正当化しようとしている人間がごまんといるが、「霊魂」という概念に悩まされている人も同じくらいたくさんいる。
この世界は、「霊魂」という概念にしがみついているおまえたちのものか。この「社会」はおまえたちのものであっても、この「世界」は誰のものでもない。
「霊魂」という概念にしがみついているおまえたちの「命」や「自分=自我」が正当化されればそれでいいのか。
みんなが「霊魂」という概念を信じればそれでいいのか。
信じたばかりにそれに悩まねばならない人たちは、おまえたちよりも愚かな存在なのか。
「霊魂は存在する」なんて、ただの制度的思考だ。そう思いたがるこの社会の制度が、人々にそう思わせている。この社会の制度に踊らされているから、そういう思考に居座っているだけのことだ。
そりゃあ人間の観念は思いたいように思い込むことができるようにできているのだから、おまえたちは深く確信しているのだろうが、なんだか気味が悪い。
われわれは、ひとまず何も信じられないところから思考をはじめている。
まあ、そういいたいわけですよ。
幽体離脱なんか、「特別」なことでもなんでもない。悟りを開いた坊主が体験しようと、単細胞のギャルが体験しようと、病気の子供が体験しようと同じことさ。
人間ならみんな幽体離脱を体験している。
人間は、存在そのものにおいてすでに幽体離脱しているのだ。
そしてそれは、「霊魂」が存在することの証明ではなく、意識はいったん不自由な状況の中に身を置きながらその不自由を忘れてゆく運動性を持っている、ということを意味しているだけのこと。
意識は、「不自由」という状況から発生する。この世界や身体に対する「違和感」や「抵抗感」として意識が発生するのだ。身体の「苦痛」もしかり、それは、この生や意識のはたらきのもっとも根源的なかたちである。
この生や意識や脳の根源的基礎的なはたらきはあっても、「霊魂」のはたらきなどというものはない。
「霊魂」を信じて幸せになりましょう、てか?
よけいなお世話だ。
霊魂というルール、それは「制度としてのルール」であり、現代人はそのルールに縛られ、そしてそのルールにすがりついている。それは、金に縛られしがみついているのと同じなのだ。お金は、この社会の霊魂である。
原始時代には、そんな、人が縛られしがみついてゆくような「制度してのルール」はなかった。



現代人は、誰もが心のどこかしらで霊魂を信じている。
僕だって、たぶん信じている。しかしそれは、信じさせられてしまうような社会の構造の中に置かれて生まれ育ってきたからであって、それが霊魂が存在することの証明だとは思わない。信じている自分を、「もうひとりの自分」が幽体離脱して眺めている。
人間の心は、すでに幽体離脱している。幽体離脱なんか、誰だって体験しているのだ。
人間の心(意識)は、そういう体験をするようなしくみになっている。
それは「特別」な体験ではない。そういう心的現象の基礎的なはたらきから極端なはたらきまでのグラデーションがあるだけだ。
誰もが幽体離脱を体験しようと、それでもそれは霊魂が存在することの証明にはならないし、宗教者の悟りとしての幽体離脱と素人の錯乱にすぎない幽体離脱というような差別があるわけでもない。
僕は、たとえそれが人の心の病を救う役割を持っていようと、「悟り」とか「神を見た」とか「神を感じた」とか「霊魂」がどうのとか、そういう言葉を平気で振り回すのは大嫌いなのだ。
そして「原始人は霊魂の永遠を信じて生きていた」などということを、あたりまえのような顔で前提にして語りたがる歴史家も、みんなアホだと思う。
霊魂が存在しないことの証明など不可能だが、それでもここでの論考を先に進めるために、あえていってしまうことにする。霊魂などというものは存在しない、と。



霊魂という概念がこの社会に存在する、というだけのこと。それは、お金がこの世に存在するのと同じ次元のことで、それ以上でも以下でもない。この社会の制度が有効に機能するための基盤として、人間の観念がそういう概念をつくりだしただけのこと。
霊魂が幽体離脱等の入眠幻覚をもたらすのではない。人間がそういう心的現象を体験するのは意識のしくみの問題であって、霊魂のせいなんかではない。
霊魂などというものは存在しない。
われわれは、身体から離れた意識のはたらきを感じている。身体は疲れていても意識だけはかえっていきいきとしてくる、ということも体験している。そうして、命のはたらきの根源において、意識と身体の相互作用が起きている。われわれの五感は、意識のはたらきに補完されて成り立っている。
人間は、霊魂という概念を持ってしまうような存在の仕方をしている。
霊魂が存在するのではない。
何より「制度としてのルール」を持ってしまったことが、霊魂という概念が顕在化してきたことの発端になっているのだろう。
「自然としてのルール」はルールのことを忘れさせる。しかし「制度としてのルール」は、つねにルールを意識させる。
この身体や心を支配しているルールがあり、この身体や心はそのルールにすがっている。そういう「制度としてのルール」が、霊魂という概念になっている。
われわれ現代人は、何ものかに支配され何ものかにすがって生きている、という漠然とした気分を持っている。そこから「霊魂」という概念が生まれてくる。
霊魂という言葉を意識しなくても、何ものかに支配されすがっている。そしてその意識は、この生の問題は解決されてしかるべきであると思考する。なぜなら「ルール=霊魂」とはすでに解決しているものだからだ。
人間とは、解決したがっている存在であるのか。少なくとも現代人は、そういう存在であるらしい。
しかし人間は、解決することなんかほったらかしにして「問い」続けている存在でもある。



生きるとは、「この生とは何か?」と問い続けるいとなみであって、この生の問題を解決するいとなみであるのではない。
そしてこれが、原始人の生きてあるかたちだった。彼らは、ルールが解決してあることを忘れて問い続けた。この生の問題を解決するつもりなら、わざわざ住みにくい氷河期の極北の地になんか移住してゆかない。そんな地で四苦八苦して暮らすことは、「この生とは何か?」と問い続けることであったはずだ。問い続けることに、彼らの生のダイナミズムがあった。
しかし現代人は、解決することの安定にまどろもうとする。そういう制度=ルールや霊魂という概念を持ってしまっている。
霊魂という概念は、この生の謎であると同時に、この生の謎を解き明かしているものでもある。「謎である」と認識することが、すでに解き明かしているのと同じで、問うことを放棄していることでもある。
「何か?」と問うているわけではない。
原始人は、この生の謎を「霊魂」という概念に回収してしまうことなどしなかった。回収していたら、わざわざ氷河期の極北の地に住み着いたりはしない。
現代人は、生きてあることをすでに納得し、その解決に向かう。しかし原始人は、納得しないまま問い続けた。彼らにとって氷河期の極北の地は、納得できるような場所ではなかった。霊魂を当てにしてすがっても、生きることの足しにはならなかった。
食物とかの現実の物質がいちばんの助けになったというのではない。それがいちばん大切なことであるのなら、もっと暖かくて住みよい土地に移り住む。
彼らは、助けがないことそれ自体を生きた。そこから、悲しみやよろこびなどのたくさんの感慨がわいてきた。その感慨を共有してゆく他者との関係を生きた。
生きられない生を生きているから、他者との関係のダイナミズムが生まれてくる。
「この生とは何か?」と問い続けることは、生きられない生を生きることだ。そうやって彼らは、氷河期の極北の地に住み着いていった。それによって胸にあふれてくる感慨があった。それが彼らを生きさせていたし、生きられない環境を受け入れさせてもいた。
「生きられない生」とは、すなわち「霊魂」という概念を持たない生のことである。
それに対して霊魂は、人間=身体を生きさせる。「生きられる生」を生きているという前提の上に、霊魂という概念が生まれてくる。
「神を見た」だの「霊魂を感じた」だのという体験をすれば、この生の問題が解決されたような心地になれることだろう。しかしその「解決する」というそのことが人々を縛る現代社会の制度性であり、人間の自然を喪失させている元凶なのだ。そうやって人は、精神を病んだり死が怖くなったりしている。それは、解決できない病ではない、解決している病なのだ。
「命の尊厳」とか「幸せな人生」といえば、すでに「命とは何か?」とか「人生とは何か?」という問題を解決している前提に立っている。そうして、つねにそれらを「ルール」として意識している。そのルールから縛られ、そのルールにすがっている。これが、現代社会の「制度としてのルール」である。
それに対して「命とは何か?」とか「人生とは何か?」と問うてゆくとき、命や人生がどんなものであらねばならないかという「ルール」から解き放たれている。これが、原始人の「自然としてのルール」だった。
命は、解決できない問いの中に投げ入れられてあるとき、もっともいきいきとはたらく。これが、「ルール」の根源的な存在理由ではないだろうか。
病気や座禅などで身体が動かなくなったとき、意識は身体を離れて幽体離脱というダイナミズムが起きる。
幽体離脱とは、「神を見る」とか「霊的存在になる」とか、そういう問題ではない、「自然としてのルール」の本質と通じている、たんなるプリミティブな心的現象にすぎない。
「霊魂」という問題など存在しない。
霊魂という概念に収拾して問題を解決してしまおうなんて、ただの俗物のスケベ根性だ。
われわれは、解決できない問いの中を生きている。それが、自然としての人間の生きてあるかたちであり、そこでこそこの命はいきいきとはたらく。それが、ここでいう「自然としてのルール」である。
しかし共同体(国家)の「制度としてのルール」は、そうしたこの世界やこの生の問題をすでに解決しており、その解決してあることの根拠として「神(ゴッド)」や「霊魂」という概念が生まれてきた。
みなさん、ご立派なこった。僕なんか、わからないことだらけですよ。ここまで書いてきて、いまここで小便に行こうかどうかということすら迷っている。
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