生きることは空しいか・「漂泊論B」30



<承前>
何をしても空しい、という人がいる。
とくに、歳をとって世の中の動きからリタイアした人に多い。
そりゃあそうだろう、この世に「しなければならない」ことなど何もない。
「しなければならない」ことをして生きてきた人がそのことに気づいてしまえば、何をしても空しくなってしまう。
自分のすることに「しなければならない」という意識がともなっているということは、ひとつの強迫観念であると同時に、それによって自分のすることにお墨付きを得ているということでもある。
何がお墨付きを与えているかといえば、社会の制度性とか世間の常識とか、まあそのような義務感とか価値観だろうか。
好きな小説家がそういっていたしそのように生きていた、ということでもいい。何かにつけて「価値」というお墨付きを欲しがり、お墨付きがなければ何もできないという人がいる。
彼らは、生きてあることにも「価値」を欲しがる。よしてくれよ、という話だけれど、けっきょくそのことにしっぺ返しを食らって「何をしても空しい」ということになってしまう。
会社の休みの日にやることがないということだって、お墨付きのないことはできない、ということだろう。
彼らは、世間的な「価値」をコピペして思考したがり行動したがる。
まあ現代人は、誰もが多かれ少なかれそのような部分を抱えてしまっている。
歳をとってもボランティアなどの仕事を持っていた方がよい、ということだって、ようするにお墨付きがなければ何もできないということだろう。それでいいのか?
それは、その人を縛るものであると同時に、その人を行動に駆り立てるものでもある。
そうやって現代人は、社会的な制度や価値意識の上に成り立った「ルール」の中に潜り込んでゆこうとする。
人間は、「命の尊厳」というお墨付きがなければ生きられない存在なのか。
そうじゃないだろう、それでも人間は生きてしまう。少なくとも原始人には、そんなお墨付きも価値意識もなかった。それでも彼らは生きた。ろくな文明を持たない身で、氷河期の極北の地にすら住み着いていた。
彼らは、その住みにくいところに住み着いてゆくという「ルール」をあえて受け入れていた。
人間は、ルールという不自由をあえて受け入れてしまう存在であるが、それによってルール=不自由を忘れてしまうカタルシスを汲み上げてゆくからであって、現代人のようにルールに縛られルールにしがみついていることとは少し違う。
ネアンデルタールの「人間の自然としてのルール」と、現代人の「制度としてのルール」。
「ルールは破るためにある」などという。制度としてのルールはそのようにして人間を縛るものとして機能しているが、自然としてのルールは、「忘れる」ためにある。
この違いは確かにあるわけで、同じ次元で考えるわけにはいかない。しかしまったく別のものでもなかろうし、まあちょいとややこしい。



いろんな意味で、人間は自由な存在ではない。
人間は、不自由を受け入れてしまう存在である。
自由などない、というか、不自由でないと自由になれない。
だから、「ルール」が生まれてしまう。
この生は奴隷状態だ。われわれは、奴隷として、この世界に放り出されてきた。
そして、誰もが「奴隷でけっこう」というかたちで、その生きてあることの不自由を受け入れながら暮らしている。
「命の尊厳」というお墨付きに縛られしがみつきながら生きているなんて、まったく、とんだお笑い草だ。奴隷状態そのものではないか。
かつて奴隷制度が存在してそれなりに機能していたということは、人間は不自由を受け入れ不自由の中で生きる存在だということを意味しているのかもしれない。
現代人が会社勤めをすることも、共同体(国家)の制度を受け入れて生きていることも、奴隷になっているのと同じでないとはいえない。
人間社会の奴隷制度はなくなったのではなく、高度に巧妙に整えられ、当たり前すぎてわかりにくくなってきただけかもしれない。
みんなが奴隷になれば、誰も奴隷であるとも思わない。
われわれはみな、金の奴隷になってしまっている。
この世の中は、金がないとものが手に入らないという不自由の上に成り立っている。
権力者のなすべきことは、人々を解き放つことではなく、受け入れることのできる不自由を与えることなのだろうか。ヒットラーはたぶん、そういうことをよく心得ていた。
太平洋戦争中の日本の軍隊は、ものすごく不自由なところだったらしい。その不自由を忘れる行為として、彼らは勇猛果敢に戦ったのだろうか。
この国では、「自由をわれらに!」と叫ぶ運動は、あまり盛り上がらない。それは、人間の本性としての「不自由を受け入れる文化」の伝統があるからかもしれない。
その不自由が、自由のダイナミズムを生む。



自由に何もかもできることが人間の望むことかどうかはわからない。人間ひとりのできることなどたかが知れているわけで、それは、たくさんの実現不可能なことを抱え込むことでもある。自由であることほど不自由なこともない。
親の仕事を継ぐのがあたりまえだと思っていることと、イチローにもアインシュタインにもなれなかったと悔やむこととどちらがいいのか。
意識は「過去のデータ」で補完してこの世界の現実のさまを類推している。われわれは「過去のデータ」に当てはまらないものと出会うと、一瞬頭の中が真っ白になってしまう。われわれの意識は、そういう「自由」を生きるようにはできていない。
穏やかな人だと思っている相手がいきなり激しく怒りだせば、誰だって戸惑うだろう。
意識は、「過去のデータ」が当てはまる限定した世界を生きようとする。
会社勤めをすることも、ひとりの女(男)を選んで結婚することも、限定した世界を生きることだ。
保守的、というのではない。不自由の中に身を置いて不自由を忘れてしまうことにカタルシスがある。べつに、その限定されてあることがいいというのではない。
ネアンデルタールは、寒さに閉じ込められて暮らしていることをよろこんでいたわけでもあるまい。それでもその暮らしを受け入れていったのは、そんなことを忘れてしまうカタルシスがあったからにちがいない。
それはまあ、野球選手にも科学者にも政治家にもなろうとは思わず、当たり前のように八百屋のあとをついでいる人の生き方と別のものだとはいえない。
人間は「過去のデータ」を当てはめて世界を解釈しながら生きている存在だから、選択肢がないことを受け入れることができる。
ルールとは選択肢を奪うことであり、われわれは選択肢を奪われてこの世に生まれ出てきた。人間は、先験的に選択肢を奪われて存在している。
ゴキブリに生まれてきたこともライオンとして生まれてきたのも、選択肢のないことだった。
じつは、選択肢を奪われてあることが、この生の与件であるのかもしれない。選択肢のないところでこそ命はいきいきとはたらく。
息苦しさは、息をすることでしか解消されない。このことに選択肢はない。
息をすることは、この生のルールだ。
そして息をすることは、「しなければないこと」以前に「せずにいられないこと」だ。息をしなければならないと思って息をしている人間などいない。原初的な「自然としてのルール」においては、ルールを忘れている。



生きることは、選択することか。
現代人は、それが人間の幸せであり能力だと思っている。
たとえば、ひとつの望ましい生き方として「趣味を持つ」とか「家族の絆を確かめる」などといっても、それを「価値」として選択している。
家族の絆なんか忘れてしまうのが家族の絆であるのかもしれないというのに。
家族の絆という「価値」を確かめ、それに執着してゆくのは、「制度としてのルール」である。
「自然としてのルール」においては、家族の絆なんか忘れてしまうというかたちで家族の絆が成り立っている。
人が「せずにいられないこと」に熱中することは、「しなければならないこと」を捨てた(忘れた)ところで起きている。
「何をしても空しい」などという泣き言は、「せずにいられないこと」ことに熱中する体験をしてこなかった人間のセリフだ。
「しなければならないこと」という制度や価値観に執着して生きていれば、「せずにいられないこと」を見失ってしまう。
「しなければならないこと」を上手に選択して生きていれば、自分じゃあ賢明であるつもりかもしれないが、選択の余地のない「せずにいられないこと」のダイナミズムをついに体験することがない。
歳をとったら「せずにいられないこと」しか残されていないのである。それが見つけられないのなら、うだうだと空しく無気力な老後を送るしかない。
いやこれは、老人だけの問題ではない。
選択肢のない「せずにいられないこと」に身をまかせるダイナミズムは、どんな努力もかなわない。人間には、それこそ寝食を忘れて「せずにいられないこと」にのめり込むことができる可能性がそなわっている。
これをしないと死ねないし、これをすれば死んでもいいということ。子供が遊び呆けてしまうことだって、まあそのような行為なのだ。そのようにして子供は、いつ死んでもいい生を生きている。しかしその人間の本性であるはずのものを、「しなければならないこと」という社会の制度や世間ずれした大人たちの価値意識が容赦なく奪ってしまう。



「何をしても空しい」といっている老人に、「じゃあ、あなたはいつ死んでもいいのか」と聞いてみる。
「そうだ、俺の命なんかあと二、三年のものだと思っている」と答える。
何いってやがる、あなたは十年前からそういっていたし、これからもずっとそういい続けるのだろう。
誰の命でも、そんな猶予期間などないのだ。
だから人は、未来に向かう「しなければならないこと」などほったらかしにして、「いまここ」の「せずにいられないこと」にのめり込む。
そりゃあ、生きていればお金を稼がないといけないとか親戚の法事に行かないといけないとか、いろいろ「しなければならないこと」は付きまとう。
しかし、それすらも「そんなことは知ったこっちゃない」という人もいる。そういう人もいるのが人間社会なのだ。なぜなら、ほんとうは誰の命も猶予期間などないのだから、それはもうしょうがないことだ。
正義ぶって「しなければならないことをせよ」ということなど、僕はよういわない。
生きていれば、誰もが、そのときそのときで「せずにいられないこと」や「するしかないこと」がある。
「せずにいられないこと」は、選択肢のないことである。
だから、「するな」といわれても困る。
この生に「未来」という選択肢などないのだ。
選択肢がないことが、この生の与件である。
なのに選択することばかりにうつつを抜かして生きている人がいる。
そうやって生きてきて、いまさら「何をするのも空しい」と嘆いたって、誰が同情してやるものか。
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