ルールの起源・「漂泊論B」29



それは、自由とは何か、と問うことでもある。
しかし人間は、もともとそれほど自由な存在ではない。
原初の人類が二本の足で立ち上がることは、とても不安定で不自由な姿勢であったはずである。動きは鈍く不自由になるし、胸・腹・性器等の急所を外にさらして自由に戦うこともできなくなった。
それは、攻撃されたらひとたまりもない無防備な姿勢なのである。そうやってひとまず誰もが他者よりも優位な立場を持つことができなくなった。その気になれば、メスがオスを倒すこともできた。
猿が二本の足で立ち上がるときは、少し前屈みになって、いつでも攻撃に移ったり防御の姿勢になったりすることができる用意をしている。つまり、身体に対する意識を残している。だからその姿勢の不自由さや危うさが気になって、いつまでも歩き続けることもその姿勢を常態化することもできない。
しかし人間の場合は、まっすぐに立っている。まさに「直立」である。その姿勢をとれば、かんたんにこけてしまうし、体がぐらぐらする。戦うどころではない。しかしその姿勢のまま歩いてゆけば、体の重心を前に倒すだけで自然に足が前に出てゆく。そうやって体=足のことを忘れてどこまでも歩き続けることができる。
それは、エネルギーの消費が少ない歩き方であるのではない。二本の足で全体重を支えているのだから、疲れないはずがない。しかし、疲れても体のことなんか忘れて歩き続けることができる。
体のことを忘れてしまえば、不安定であることも不自由であることもどうでもよかった。
どうやら自由とは、忘れてしまうことであるらしい。忘れてしまうこと以上の自由なんかない。
自由とは、不自由であることを忘れてしまうことらしい。
不自由だからこそ忘れようとする衝動が起きて、忘れてしまえば、これ以上の自由はない。
忘れてしまう、ということがともなわない自由などない。
快楽とは、身体のことを忘れてしまうカタルシス(浄化作用)のことだ。
人間は忘れようとする生き物であり、忘れてしまうことが自由=快楽である。それは、二本の足で立つことの不自由を引き受けている存在だからだ。
不自由の中に身を置かないと自由は体験できない。そのようにして人間社会の「ルール」が生まれてきた。
いろんなルールがある。社会制度としてのルール、宗教の戒律としてのルール、生活の作法としてのルール、スポーツのルール等々。



原初の人類による、その二本の足で立ち上がるという姿勢は、誰も他者を攻撃しようとしない、という合意の上に成り立っていた。
そういうルールを持ったのではない。身体のことを忘れているから、攻撃しようとする発想も攻撃されるかもしれないという心配も、猿ほどあからさまには持たなくなっていったのだ。ほとんどそういう意識が消えていたのかもしれない。
人類の歴史は、身体のことを忘れてしまう、という体験からはじまった。
ルールを持ったのではない。不自由の中に身を置くことを余儀なくされ、その不自由を忘れてしまうことによって克服していった。
そのとき彼らは、それによって自然界の生き物として何かのアドバンテージを持ったのではない。「忘れてしまう」快楽=カタルシスを発見したのだ。
いったん不自由の中に身を置かないと、「忘れてしまう」ということも起きない。
人間は、いったん不自由の中に身を置こうとする習性を持っている。そうやって住みにくいところ住みにくいところへと移動しながらとうとう地球の隅々まで拡散していったし、共同体の規範制度を持ったことも、戒律とともに宗教を育てていったことも、まあそういうことかもしれない。
しかしだからといって、原初の人類が不自由を引き受けたことと共同体の制度や宗教の戒律が同じかといえば、必ずしもそうとはいえない。
いろんな不自由があり、いろんな自由がある。



原初の人類は、他者を攻撃しようとしたり防御しようとすることを忘れていった。
彼らにとって「攻撃しない」ということは暗黙のルールだったが、誰もがルールそれ自体をすでに忘れていた。
自然としてのルールと制度としてのルール。生活の作法やスポーツのルールは前者で、社会の規範や宗教の戒律は後者の性格が濃い。一概にはいえないのだろうが。
自然としてのルールは、ルールであることを忘れてしまう。
制度としてのルールは、ルールであることを意識させることの上に成り立っている。
サッカーは手でボールを扱うことを禁じられたスポーツだが、サッカー選手は、誰も手でボールを扱おうとは思っていない。足だけで扱うというそのことによろこびを見出している。
人間は進んで不自由の中に身を置こうとする習性がある。そしてその不自由を忘れ、不自由それ自体に遊ぼうとする。サッカーはもっとも不自由なスポーツのひとつだが、不自由そのものに遊ぶことのカタルシスももっとも深いスポーツである。
イギリスのプロサッカー選手の99パーセントは労働者階級の出身である。それは、労働者階級しかしないのではなく、不自由を引き受けて生きている労働者階級の子弟の方が自然に圧倒的に上手くなってしまうスポーツだからだ。
したいことを我慢する自制心は、貴族階級の子供の方が持っている。だから、ラグビーには向いている。ラグビーは手にボールを運んでもいいが、じつはラグビーの方がずっと禁欲的なスポーツなのである。競技の性格そのものもそうだが、マナーだって「ノーサイド」などといって何かにつけて自制することを求めてくる。
その点サッカー選手の態度の方が、ずっと野放図であることが許されている。
サッカーのルールは自然としての性格が濃く、ラグビーはいくぶん制度的である。
とはいえスポーツの場合、基本的にはルールのことを忘れてプレーしていて、そのルールが選手を縛っているということはない。足でボールを扱わないと肝に銘じているのではなく、足でボールを扱いたがっている。
原初の人類だって、攻撃するのを自制し合っていたのではなく、攻撃する気がなくなっていた。そうして、それによって、猿の時代よりもより豊かに世界や他者にときめくようになっていった。



ルール(=不自由)の中に身を置くことによって自由になれる、ということがある。
それは、「忘れる」という人間の自然の上に成り立っている。
結婚という生活の作法だって、ルールという不自由の中に身を置くことである。そしてその不自由を忘れてしまわなければ結婚生活は成り立たない。
「おはよう」というあいさつは人間社会の一つのルールだが、誰もルールだなどと意識せず、むしろあいさつしたがっている。
原初的なルール(=不自由)は、忘れてしまうことのカタルシスをもたらす。不自由だからこそ忘れてしまいたくなるわけで、不自由の中に身を置かなければ、忘れてしまうことのカタルシスは生まれない。
この生の基礎は、身体の苦痛を忘れてしまうことにある。そうやってわれわれは、息をし、飯を食い、痒いところを掻いたりしている。その「身体が消えてゆく」心地を汲み上げるのが生きるいとなみである。
意識は、絶対的に身体の危機=苦痛を忌避する。それは、忘れようとする衝動である。
われわれは、生きてあることそれ自体を忘れたがっている。
人間にとっては生きてあることそれ自体がルールという不自由の中に身を置いているような事態だ。
べつに生まれてきたかったわけではないのに、生きるというルール=不自由を強いられている。息をしないといけないとか飯を食わないといけないとか、そういうさまざまなルールの中に置かれている。
ルールの起源、などというものはないのかもしれない。われわれは、存在そのものにおいて、すでにルールの中に投げ入れられてある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一日一回のクリック、どうかよろしくお願いします。
人気ブログランキングへ