共鳴現象・「時代は変わる」1


これはボブ・ディランの歌のタイトルだが、戦後日本は、ずっとこのような議論をし続けてきて、今なお盛んである。「時代を読む」というようなテーマの本は次々に出版されているし、まあテレビや新聞は、そういう情報を提供する媒体なのだろう。
人々は、時代が変わってほしいという願いがあると同時に、変わることに取り残されたくないという心配もある。また、そのサイクルがどんどん短くなってきている。
現代人は、「時代は変わる」言葉を胸の奥に抱えて生きている。
時代はこれからどのように変わってゆくのか、ということを強迫観念的に知りたがっている人たちがたくさんいて、時代の変化を得意満面に吹聴する人がいる。
それだけ人がかんたんに時代に踊らされてしまう世の中になった、ということだろうか。
それでも変わらない「普遍」というのはあるのだが、因果なことにその「普遍」のイメージが時代によって変わったりする。
人々は、時代に踊らされ時代のことを気にしつつ、もちろん「普遍」こそが生きることの基本だという意識もある。「普遍」をわきまえていることこそ人間であることのたしなみであり、そこにおいて人格や知性や感性の差があらわれる、とも思っている。
そうして多くの人が、とくにひとまず社会的に成功した人はたいてい「自分だけは変わらない普遍を知っている」というつもりでいるのだが、ほんとにそれは「普遍」だろうか?と疑いたくなることはいくらでもある。
現代では、「普遍」のイメージそのものが時代に踊らされている。
いったい何を信じていいのか?
いや、その信じようとする心が時代に踊らされる。
現代社会においては、「時代は変わる」ということと同じくらい「どうしてかんたんに時代に踊らされてしまうのか」という問題もある。
「自分だけは不変の普遍を知っている」といっても駄目なのだ。その「普遍」そのものが時代に踊らされている。



人が過去の時代を回顧するとき、その時代においてはそれが真実であり美であり正義であり普遍だった、と思うのだろうか。そうやって時代を信じ時代に踊らされていた自分を懐かしんでいる。
われわれ団塊世代は、いろんな時代を通過してきて、そのつど時代に踊らされてきた。であれば、それらの時代を懐かしむことは、踊らされていた自分を正当化している心の手続きでもある。
団塊世代は、あまり「いやな時代だった」というような回顧の仕方はしない。それは、日本経済が右肩上がりで成長してきた時代とともに生きてきたからだろうか。そうやって時代に踊らされて生きてきた。彼らは、ひとつの時代が終わるとき、その真実や美や正義や普遍の耐用年数が切れてきたと総括しているだけで、否定はしない。時代に踊らされて生きてきた自分たちを相対化するということはしないし、できない。そしてそれは、時代を相対化していないのと同じである。
時代の外側に立って、はじめて相対化して眺めることができる。団塊世代には、そのような視線がない。つねに時代に埋没し、時代に踊らされて生きてきた。だから、時代のことがとても気になる。
あとになって過去の時代を分析することは、そうむずかしいことではないだろう。ただ団塊世代は、それらをいつも懐かしみいとおしむようにして語りたがる。「三丁目の夕日」の時代からはじまって、全共闘時代もバブルの時代も、ぜんぶ懐かしがって語る。「平凡パンチ」も「ビートルズ」も「吉本隆明」も「ニューアカデミズム」も、ぜんぶ懐かしがって語る。
だから、あとの世代のものたちが、そのフェティッシュでナルシスティックな語り口にいら立つ。
「自分たちは時代からたくさんのものを学んで生きてきた」というのは、「自分たちはやすやすと時代に踊らされて生きてきた」といっているのと同じなのだ。
べつに何かを学んだというより、一緒になって踊って(踊らされて)きただけある。



団塊世代はなぜ一緒になって踊らされてしまうのだろう。
もともと時代を相対化して眺める視線を持っていないから、かんたんに踊らされてしまう。そうしてかんたんに「みんな一緒」になってしまう。そういう世代なのだ。まあそれが彼らのバイタリティであり、はた迷惑なところでもある。
「みんな一緒」になってしまえるというのは、どういうことだろうか。
誰もが他者を模倣し合っている。団塊世代は、模倣してすぐコピペしてゆく。模倣してコピペするのが彼らの本能であり、人にも時代にもすぐ影響されるし、あんがいいつまでも影響され続ける。これは、細部だけを見て、全体の構造や本質に気づいてゆく能力がないからである。
と同時に、全共闘運動に象徴されるように、気に入らないものを排除しようとする意欲も旺盛である。きっと両者の心の動きはセットになっているのだろう。
現在のこの国の若者たちが「かわいい」とか「ジャパンクール」という世界をリードするような文化を発信できる能力を持っているとしたら、団塊世代にはそういう先進性はまるでなかった。全共闘運動だってまあフランスをはじめとするヨーロッパの学生運動の模倣であり、模倣してコピペしてゆく能力しかなかった彼らはもう、根っからの「時代に踊らされる」若者たちだった。あのころ、彼らの誰もが「自分たちは時代をリードしている」と合唱していたが、じつは時代に踊らされていただけだった。
時代に踊らされている者が時代をリードできるはずがない。
たとえば60年代後半は世界中の若者がビートルズに席巻されていったが、それでもイギリス本国では、ビートルズに対抗するロックグループが次々に現れてきて、日本ほどビートルズ一色にはならなかった。だから、その後のイギリスは、ビートルズ解散以後もしばらく世界のロックシーンをリードし続けていった。
そのときイギリスの若者は、日本の若者ほど時代に踊らされていなかった。彼らには時代に染まらない嘆きと主体性があった。それが新しいロックシーンを次々に生み出してゆくエネルギーになっていった。つまり彼らは、時代を相対化して眺める視線を持っていた。新しい時代はその視線から生まれてくるのであって、時代に踊らされている者たちの空騒ぎから生まれてくるのではない。
なんのかのといっても、この国の今どきのあっけらかんとしたギャルたちだって時代を相対化する視線を持っている。彼女らは大人や世間に対する疎外感があって、そこから「かわいい=ジャパンクール」の文化が生まれてきた。彼女らにも時代に対する嘆きがある。
それに対して団塊世代は、ほんとに嘆く能力がない。かんたんに時代に踊らされて生きてきた。
その、かんたんに「みんな一緒」になってしまう模倣性はなんなのだろう。模倣性が骨身にしみついている。時代を模倣するだけでなく、おたがいがおたがいを模倣し合っている。みんなが同じことを考え同じことをするという習性。おそらくそれが経済成長の原動力になり、バブルの繁栄にまでたどり着いていったのだろうが、戦後の日本人がそうした病的な習性になっていったことよって失ったものもあるのだろう。
たしかにそれは病的だ。みんな一緒になって踊っていたが、人と人が「共感」し合っていたのではない。ただもうカラスが一緒になってカアカアと鳴くように「共鳴」し合っていただけで、彼らには「共感する」という能力はない。



心が通い合う「共感」の能力ではなく、その手続きを省略して反射的に「共鳴」してゆく能力において団塊世代は圧倒的にまさっている。そんなふうにして全共闘運動が盛り上がっていったのだし、その後の企業戦士としての活躍にもなっていった。
模倣しコピペする。それが彼らの行動習性であり、学習能力だった。
彼らのような人種は支配しやすいし、彼ら自身が被支配の中にもぐりこんでゆこうとする習性を持っている。またそれは、そのぶん自分が人を支配しようとする意欲も旺盛だということでもある。それが、彼らのイメージする人と人の関係である。そういう人と人関係しかイメージできない、というか。
彼らは、じつにかんたんに「共鳴」してゆく。
「共鳴」をもとにした動物の集団行動と「共感」の能力の上に成り立つ人間的な連係行動とはちょっと違うし、現代社会はこの二つを組み合わせてより大きな集団のダイナミズムを生み出そうとしているのだろうか。
とりあえず動物的な「共鳴」のダイナミズムが組織できるのなら、それがいちばん手っ取り早いのだろう。ナチスのドイツもバブルの日本も、これを組織した。まあ戦争というのは、いつでもどこにおいても、集団の共鳴現象が盛り上がることによって起きるのだろうか。
とはいえ、ナチスドイツも日本のバブル経済も、けっきょくは欧米人による連係プレーによって息の根を止められたのだろうし、人間の社会はきっと動物的な「共鳴」のダイナミズムだけでは限界があるのだろう。
というわけで現在は、人間的な「共感」の上に組織される連係プレーが模索されているのかもしれない。
戦争がない時代は、動物的な共鳴現象が盛り上がらない。しかし戦後のこの国は、平和の中で共鳴現象が盛り上がっていった。
全共闘運動のことを「階級闘争」などという人もいるらしいが、先進国の中ではもっとも階級社会であるイギリスで盛り上がらずに、もっともフラットな社会になった戦後の日本でいちばん盛り上がったのだから、なんだか皮肉である。けっきょくそんなこととは関係なく、もっとも共鳴現象を起こしやすい若者たちだったから盛り上がったのだろう。
団塊世代に「共感」する能力などほとんどない。そのような手続きなしに、かんたんに共鳴現象を起こして、同じ考え同じ行動になってゆくだけである。そして彼らはそういう共鳴現象を起こす社会を理想の社会として夢想してきたのだが、バブル経済の破綻によって挫折した。それはたぶん、全共闘運動の挫折よりももっと大きな挫折だったはずである。彼らは、全共闘運動の挫折を経済活動にすり替えてさらにダイナミックな共鳴現象を起こしてゆき、それはひとまず成功した。
しかし今やもう、そのような共鳴現象が起きにくい社会になっている。
まあ今のところはまだまだ団塊世代オピニオンリーダーは数多く生き残っていてあれこれ扇動しているのだろうが、もうそんな時代ではないし、多くの団塊世代が現在の若者たちの思考や感性にとまどっている。



「共感する」とか「人の心に寄り添う」ということは、みんなが同じように考え同じように行動することではない。同じになることなんかできないし、同じになれと説得・支配することもできない。
いいかえれば、共感できなくても、同じ行動をし、同じ価値観を持ったりすることはできる。
誰だって他者との関係を生きている。人は、他者との関係を体験しながら成長してゆく。その体験とともに、知性や感性がはぐくまれてゆく。
戦後の日本は、ひとまずみんなが同じ価値観で同じ行動をするかたちでスタートしたのだろう。そんな状況で団塊世代が育っていったのだ。そうして、たやすく共鳴現象を起こしてしまう集団をつくっていった。
1945年に日本人は、歴史上はじめて国としての「敗戦」を体験し、そのことを誰もが骨身にしみて実感した。まあ、茫然自失というか、迷子の子供みたいに共鳴現象を起こしやすい時代状況だったのかもしれない。
団塊世代の幼児期は、国が進駐軍に支配され、その支配に従順だった大人たちに自立心がなかった。ただでさえ支配に従順な国民が歴史上はじめての敗戦を体験して自分(自立心)を失い、心がもろくなっていた。
大人たちがすでに、安易な共鳴現象の関係で成り立っている社会だったのかもしれない。人と人が信じ合っていたのではない。共感し合えるような自立心などなかった。ただもうかんたんに共鳴してしまうような脆弱な関係だったし、同時にそれは集団の結束のダイナミズムでもあった。
終戦直後の日本は、戦時中よりももっと共鳴現象を起こしやすい状況だったのかもしれない。まあ、大人たちがすでに共感の能力を失っていたのだ。とくに食料の確保という基盤が脆弱な都市部の方が顕著だったのだろう。信じ合っているわけではないのに共鳴現象を起こしやすかった。その脆弱さとダイナミズムが共存していた。そういう状況で団塊世代は育っていった。
どの世代よりもつるむことが好きな彼らは、自分たちにはじゅうぶん「共感」の能力がそなわっていると思っているし、自分たちこそ人間のスタンダードだという思い込みも強い。
しかし外部の者たちから見れば、ずいぶん奇異なメンタリティのはた迷惑な世代なのだ。
おそらく、時代と親がそういう育て方をしてしまったのだろう。



団塊世代ほど「共感」の能力の希薄な世代もなければ、共鳴現象を起こしやすいダイナミズムを持った世代もいない。妙にアクティブで騒々しい世代である。
彼らは、ほんとに共感して寄り添ってゆくという能力がない。他人の気持ちを想像する能力がなくて、誰もが勝手な共鳴現象起こす「自分の感情」をまさぐっているだけなのだ。他人の気持ちがわからないからこそ、ダイナミックに結束することができる。自分の感情をまさぐっているだけのくせに、他人になれなれしく、他人にかまわれたがる「かまってちゃん」が多い。これは、バブルの繁栄に踊らされて青春時代を送った40代の世代の傾向でもあるのだろうか。
人間は、避けがたく人との関係を生きようとする。「共感」の能力を持たないものたちが人との関係を結んで生きてゆこうとすれば、みんなが同じように考え同じように行動する「共鳴現象」で結束してゆくしかないし、ひとまずそういう現象のダイナミズムがある。
「共感する」ということができない彼らは、共鳴現象で結束してゆくことが理想だと夢想している。まあ、バブルの時代までの日本人はそのように結束してきたし、そこから現在の社会的な病理の多くが生まれている。。
団塊世代は、頭でっかちで妙にアクティブで騒々しく、戦後日本の病理の核になっている世代である。
しかし人類の伝統としての人と人の連携は、あくまで共感し寄り添ってゆくことにあるのであって、団塊世代のような共鳴現象を起こして結束してゆくことではない。彼らがどれほどそんな共鳴現象の結束を夢想し組織しても、最終的にはつねに「共感する」ことの上に成り立った連係にとって代わられることは歴史の必然である。なぜならそれが人間の普遍的な生態だからだ。
ほんとに「共感する」ということができない世代なのだ。
人間は、他者に対して「私はあなたのために何ができるか?」と問うている存在である。その手続きを省略してやすやすと説得し説得されながら共鳴現象を起こしてゆこうとしても、つねに限界がある。そんな安直で気味悪い結束は、団塊世代にしかできない。戦時下ならともかく、平和な世の中でそんな安直な結束ができるのは団塊世代くらいのものである。戦後からバブルの時代までは可能だったのかもしれないが、もうそんなことを夢想していられる時代ではない。
そんな共鳴現象の結束を押し付けられても、はた迷惑なだけである。
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