戦後処理・「時代は変わる」2


僕は社会学者ではないから、「時代はこんなふうに変わってゆきますよ」と予言する能力なんかない。
人はどんなふうに時代とかかわってゆくのだろう?という問いがあるだけだ。
なんのかのといっても、誰もが時代とかかわって生きている。
社会学者が、冷静に時代を分析し時代をリードしているような顔をし、次の時代を予言するようなことをいっていても、「あなただって時代に踊らされているだけじゃないか」といいたいときはある。
時代は、誰かにリードされて変わってゆくのでも、みんなが変えようとして変わるのでもない。
時代が変わってゆく「なりゆき」というものがあるだけだろう。
あなたひとりや、あなたたちが望むようには変わってゆかない。あなたひとりやあなたたちの都合のいいようには変わってゆかない。
人間の歴史は、直立二足歩行の開始以来、人間の望むように変わってきたためしなどない。
変わるような「なりゆき」があっただけだ。
「なりゆき」が時代を変える。
誰もが、時代に踊らされ、時代の中を上手に泳ぎ、時代を嘆き、時代に取り残されて途方に暮れたりしながら生きている。時代をつくっている人間なんかいない。
この世の中は、時代に踊らされている人間がいて、上手に泳いでいる人間がいて、嘆いている人間がいて、取り残されて途方に暮れている人間がいる。ともあれ誰もがそのようなかたちで時代とかかわりながら生きているわけで、それらすべての人間のかかわり方の総体のあやが「なりゆき」となって時代が変わってゆく。
まあ、誰の中にも、時代に踊らされている部分もあれば、上手に泳いでいる部分も、嘆いている部分も、取り残されて途方に暮れている部分もある。ひとりのなかに、変わってほしい部分も変わってほしくない部分もある。
ゆえに、人間が思うように時代を変えることは不可能だし、人間の総体のあやが「なりゆき」となって時代が変わってゆく。
人間社会の欲望や意図が時代を変えるのではなく、人間社会の「なりゆき」が時代を変える。



おそらく、時代が変わる第一の契機は、人間の欲望や計画にあるのではない。
内田樹先生、時代はあなたの都合のいいように変わるわけではないし、都合のいいように変えることもできない。
時代とともに、人の心や、人と人の関係が変わってゆく。そういう人間の総体とともに時代が変わってゆく。
共同体の発生以降の歴史は何か人間の欲望や計画が変えてきたように解釈されがちだが、人類の起源のところから考えればそのような因果関係は成り立たないし、共同体の発生以降でも、人間の計画が変えたのは部分であって全体ではない。
20世紀が戦争の世紀になったのは、べつに人間が計画したわけではあるまい。そういう歴史=時代の「なりゆき」があった。ロシアに革命が起きたことだって、そういう歴史=時代の「なりゆき」があったこと抜きには語れないだろう。
そもそも人間に革命を計画させるような歴史=時代の「なりゆき」があったのであり、計画すること自体が歴史=時代の「なりゆき」だったのだ。
人間は時代とかかわって生きているのであって、時代をつくっているのではない。
織田信長が歴史=時代をつくったのではなく、歴史=時代が織田信長を登場させたのだ。
歴史=時代は、誰がつくったのでもない。人間の総体とともに動いてきたのだ。
人間の意図の範囲にあることなんか、歴史=時代の全体ではなく部分にすぎない。そういう部分=細部をあげつらって人間が計画してつくったと解釈してしまうわけにはいかない。
われわれが歴史=時代を解釈するとき、部分=細部をあげつらって全体の本質だと決めつけてしまう思考になりがちだが、これは大いに問題がある。
人間の欲望=計画が歴史=時代をつくってきたという前提で考えるから、そういう間違いをする。
直立二足歩行の起源は、立ち上がろうとか、手を自由に使おうとか、遠くまで歩いてゆこうというような欲望=計画があったのではない。立ち上がった結果として、そのようなことが起きてきたにすぎない。
「立ち上がってしまった」だけなのだ。原初の人類を立ち上がらせてしまうような「状況」があったのだ。このことの詳細にはいまは触れないが、とにかく歴史=時代が変わる契機は、人間の欲望=計画にあるのではない。



誰もが時代とかかわって生きているが、誰かが時代をつくるのではない。
これは考え方の基礎の問題であるのだが、つまるところ「生き物は生きようとする本能を持っている」という前提で考えるのかどうかということとかかわっているのだろう。そういう本能があるのなら、それとともに人間の欲望=計画が歴史をつくっている、というふうに考えてゆくことになる。
しかし、生きようとする欲望=本能で、ほんとうに息ができるのか。息をしようとするから息ができるのだろう。息をしないと苦しくてもがく。その「もがく」という命のはたらきが、結果的に「息をする」という行為になっているのだろう。そういう命のはたらきのシステムの問題であって、べつに「生きようとする本能」の問題でもあるまい。内臓も含めて「体が動く」とは、「もがく」という現象だろう。
生き物は、生きるような体のシステムを持っているのであって、「生きようとする本能がある」というような問題ではあるまい。そんなことをいったら、アメーバや草や木にも「生きようとする本能がある」ということになってしまうのだが、実際そう言い張る人も多いからやっかいだ。
まあ、草や木が光合成をするとかの発展形としてわれわれの「息をする」という体のはたらきが起きているのだろう。
意識を失った植物状態の人だって息をしているのだし、それは、体のシステムの問題だ。
で、人間社会に新しい時代がやってくることだって、新しい時代をつくろうとする欲望や計画でどうこうなるものではなく、みんなが右往左往して生きていることの「結果」として気がついたら新しい時代になっているだけだろう。
人間社会は、新しい時代が生まれてくるようなシステムになっている。
「俺が新しい時代をつくる」とか「われわれで新しい時代をつくろう」などといわれると、うんざりする。彼らは、生き物は生きようとする本能で生きている、と信じているのだろう。
そんな人間の目論見通りに新しい時代がやってくるのではない。



人間を動かしているもっとも基本的でもっとも大きな契機はどこにあるかといえば、金のためとか愛のためとか幸せのためとか、そんな欲望=計画を並べてもしょうがない。そういうことは人さまざまで、生きようとする本能すら基本(普遍)的な契機にはなりえない。
人それぞれいろんな欲望=計画で動いていて、そういう「動いている」ということの総体の本質はどこにあるのかと問われなければならない。それは、「何かのため」というようなことではなく、みんなして動いてしまっているというその現象の総体が何を生み出すのかという問題なのだ。その「現象の総体」そのものに「目的」はない。
生きるなどということは体が勝手にしてくれている。われわれは、「すでに」生きてしまっている。生きることは、生きようとすることではなく、すでに生きてある事態にどう始末をつけてゆくかということにある。
そのように二重の意味でこの社会は、新しい時代をつくろうとする欲望=計画などはなく、すでに目の前に存在する時代にどう反応するかとして動いているだけなのだ。人間がこの社会に生きてあることは、みんなして右往左往して動いているということであって、何かの「目的」を共有しているということではない。
原発反対とか、新しい時代をつくろうとするムーブメントがあるにせよ、それは部分=細部のことであって、この社会の動きの総体でも本質でもない。総体としての本質は、あくまでそのような「目的」など存在しないことにある。
たとえみんなして反対したとしても、それは新しい時代をつくろうとしているのではなく、すでにそういう時代になっていることの「結果」として起きていることである。
この身体とそれを取り巻く環境世界は、意識に先行してすでに存在している。意識は、そうした「生きてある状況」を追いかけるようにして発生する。
生きてある状況から意識が発生する。したがって、意識が生きることを支配しコントロールすることは原理的に不可能である。
意識の根源的なはたらきは、生きてある状況を追いかけることにある。つまり、この身体と世界との関係に異変が起きて、「なんだろう?」と問うかたちで意識が発生する。たとえばこの身体とこの世界との関係において「息苦しい」という異変が起きれば、身体=細胞で「もがく」という現象が起きる。その「もがく」という現象から意識が発生する。「もがく」という現象が意識を生む。
この身体と世界との関係に先行した意識のはたらきなどというものはない。それはつまり、原理的に人間は時代をつくろうとする衝動などは持っていない、ということだ。
時代との関係で右往左往しているのが人間の生きてあるかたちなのだ。その右往左往している「もがき」から新しい時代が生まれてくる。
原発反対といっても、身体が「もがく」ということが起きていなければその運動は盛り上がってこない。意識だけが先走ってもがいて「原発反対」と叫んでも駄目なのだ。意識が勝手に原発反対の時代をつくることはできない。原発反対の時代がすでに存在していることによって、はじめてその運動は盛り上がる。
時代が人間をつくるのであって、人間が時代をつくるのではない。



団塊世代が「頭でっかちで妙にアクティブで騒々しい」のは、意識が先走って「人間(の欲望や計画)が時代をつくる」と思っているからだろう。まあ団塊世代でなくてもこの世の中にはそういう傾向の人間がたくさんいて、40代のバブル世代にも多いし、全体的にいまどきの知能のレベル高い人間はこのような傾向になりやすいともいえる。これは、「戦後」という時代が生み出した人間の傾向のひとつであるのかもしれない。
この国の戦後は、「みんなで新しい時代をつくってゆこう」というスローガンではじまり、いまだにこのスローガンで頭の中が凝り固まっている人間がたくさんいる。彼らは「頭でっかちで妙にアクティブで騒々しい」から、そうやって時代をつくろうとし、平気で他人を説得・支配しようとする。説得・支配し合って「共鳴現象」を起こすのが人間社会の普遍的なかたち(構造)だと思っている。
まあ戦後は、そうやって全共闘運動とかバブルとか、そこそこの「共鳴現象」が起きて推移してきたのだが、そういう空騒ぎが終わった今となっては、そうかんたんには集団的な「共鳴現象」は起きないし、そんな「頭でっかちで妙にアクティブで騒々しい」人間はまわりの空気から浮いてしまって嫌われたり無視されたりするようになってきている。
今やもう「人間の欲望や計画が新しい時代をつくる」というようなことが信じられる時代ではないのだ。
だから「頭でっかちで妙にアクティブで騒々しい」人間たちが主導した原発反対運動は、いつの間にかしぼんでいった。
原発反対は、細部においては正しい。しかし、まだまだそう叫ぶだけではすまないたくさんのわからない問題を含んでいるらしい。
「頭でっかちで妙にアクティブで騒々しい」人間たちは、細部にこだわり、細部だけで全体の構造や本質を決めつけてしまう傾向がある。そのようにして原発反対の論理がつくられているのだろう。
細部だけて見ていても、全体の構造や本質はわからない。それには、全体を一挙に把握してしまう知性や感性が必要である。あの銀杏の木と近くのビルとどちらが高いかは、離れて比べてみることによって一挙に把握される。ゾウの背中を這いまわっているアリにはゾウの全体の姿は見えていない。
われわれの視覚は、細部に焦点を合わせると、全体が見えにくくなってしまう。しかし焦点が合っていれば、それだけ信憑心が強くなる。そういう「信憑心」が人と人のあいだで共鳴現象を引き起こすのだろう。細部に焦点を合わせて語った方が相手を説得しやすいし、そういうふうに語られると説得されやすいのだろう。
心と心が通い合って「共感」し合うことと、説得し説得されて共鳴現象を起こすことは違うのだ。それは、全体を一挙に把握することと、細部に焦点を合わせて全体が見えなくなってしまうことくらいに違う。
戦後の日本社会は、細部に焦点を合わせてゆくとろからスタートしたのだろうか。その生態をいまだに引きずって、「頭でっかちで妙にアクティブで騒々しい」人間があちこちで空騒ぎを起こしている。
「戦後」は、まだ清算されていない。終戦前後を知っている人間がまだまだたくさん生き残ってあれこれ空騒ぎを起こしているのだから、まあ当然かもしれない。現在の若い世代が、そういう人たちに引導を渡して死の世界に見送ってやることはひとつの「戦後処理」であるにちがいなく、その作業はまだ終わっていない。
今はまだ、若者や子供たちの中にも「頭でっかちで妙にアクティブで騒々しい」人間はいくらでもいるし、ただの「共鳴現象」を愛だの理想だの人間の普遍(自然)だの希望だのと語りたがる言説はあとを絶たない。
むしろ今こそ「戦後社会の病理が露出してきている」といえるのかもしれない。とにかくバブルの時代までは、そうした「共鳴現象」こそがもっとも健康で健全な傾向だと合意されていたわけで、時代=社会とマッチしていれば「病理」になることはない。時代=社会にそぐわなくなってきて、はじめて病理のかたちになってあらわれてくる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一日一回のクリック、どうかよろしくお願いします。
人気ブログランキングへ