都市の起源(その四十三)・ネアンデルタール人論194

その四十三・好きにならずにいられない

人類史の発展の果てに「都市」が生まれてきたのではない。
直立二足歩行を起源とする人類史は、本質的には最初から都市的な性格の集団だったのだ。
都市生活における人と人の関係の作法の基礎は、たがいに「避けがたく支配されてしまう無防備な心」を共有しながら向き合いときめき合ってゆくことにあり、そうやって原初の人類は二本の足で立ち上がっていった。
人が、「世界の輝き」にときめいてゆくとき、「避けがたく支配されてしまう無防備な心」になっている。都市とは見知らぬ人どうしが集まっている場であり、そういう無防備な心にならなければ、見知らぬ人と向き合って立つことはできない。そして、ときめいていなければ、無防備にはなれない。ときめいていなければ、都市では生きられない。その「無防備なときめき」こそが、都市的な知性や感性、すなわち都市的な「エスプリ(機知)」になってゆく。
都市住民はもう、無意識のうちにたがいの「避けがたく支配されてしまう無防備な心」という「エスプリ(機知)」を問い合い試し合っている。
都市においては、自分のまわりの世界を警戒し緊張ばかりしているものは嫌われる。あの人はまじめすぎる……などという。警戒し緊張ばかりしているから「くそまじめ」になってしまうし、ふだんはくだけた遊び人ぶっていても、いざとなるとそういう「くそまじめ」の正体をあらわしてしまったりする。世間的なうわべだけの付き合いならそつなくこなしていても、親密な関係になると、どんどん「くそまじめ」の正体をあらわしてくる。「自分のまわりの世界を警戒し緊張ばかりしている」ということは、「自分」のことばかり意識してまわりの世界に何も「反応」していないということであり、向き合っている相手を含めたまわりの世界を「吟味し裁く」ことばかりしている、ということだ。相手を「吟味し裁く」とは、相手を「支配する」という態度であり、いちいち吟味し裁くことばかりしてくる相手と向き合っていることなんかできない。「反応する」タッチを持っていない相手となんか、一緒にいられない。
「反応する」ということは、「避けがたく支配されてしまう無防備な心」によって育ってゆく。
エスプリ(機知)」とは、ようするに「反応する」センスのこと。
どんなに世界や他者を「吟味し裁く」能力をひけらかしても、豊かな「エスプリ(機知)」を持っていることの証明にはならない。

もっとも今どきは、「吟味し裁く」能力に憧れている都市住民も少なくない世の中であるらしく、「反応する」ことよりも「自分を見せびらかす」ことのほうが大事なんだってさ。つまり、「支配する能力=権力」に憧れている、ということだろうか。彼らは、わかったようなことばかりいいたがり、「問う」という態度を失っている。
問わなければわからないし、問えば、果てしなく問いが生まれてきて、果てしなく問い続けてゆくしかない。まあ、そうやって人類の知能は進化発展してきた。人間とは問い続ける存在であり、生きることは問い続けることだ。
「何だろう?」という問いとして「意識」が発生する。これが、人の心の動きの基本なのだ。意識が自分のまわりの世界と向き合った瞬間、世界はぼやけて見えている。そこから一点に焦点が結ばれてゆくのは、世界に対して無防備になっているからであり、世界に対して警戒し緊張していれば、まわりのすべてを等価に見ていなければならない。そうやって、一点に焦点を結んでときめいてゆくという心を失ってゆく。
「何だろう?」と問いながら一点に焦点を結んでゆくのだ。
人と人が向き合うことは、問い合うことであって、無作法に相手の人格を吟味し裁き合うことではない。そんなことはあたりまえであり、これが、知らないものどうしが集まっている都市における人と人の関係の基本的な作法になっている。そして、つねに「問う」という無防備な心を持っている都市住民は、その人が無作法に相手の人格を吟味し裁いていることは、口に出していわなくてもその表情や言葉の端々でわかってしまう。「支配されてしまう無防備な心」だからこそ、敏感に気づいてしまう。相手の人格を吟味し裁きながら自分では「人を見る目がある」いっぱしの人間通を気取っても、そのうぬぼれが嫌われる。またそうやってうぬぼれている人間ほど、嫌われていることをはじめとして自分が人にどう思われているかということに鈍感で、もう勝手に尊敬されているつもりになっていたりする。
まあ、そうやって勝手にうぬぼれていても、いつの間にか人が離れていったりして、嫌われていたことを思い知らされるのが都市生活で、だから嫌われ者ほど、そういう心配のない予定調和の「ネットワーク」の関係に潜り込もうとする。そうやってエリートどうしのネットワークをつくったり、嫌われ者ばかりが集まる下層社会に流れていったりする。まあその中間の市民社会にだって、「類は友を呼ぶ」とか「朱に交われば赤くなる」とかという傾向はとうぜんある。
しかし基本的には、裸一貫の存在として見知らぬ人と向き合い語り合うことができなければ、都市生活は成り立たない。「避けがたく支配されてしまう無防備な心」で「問い」合い「反応」し合ってゆくのが都市における人と人の関係の基本であり、そこにこそ都市の「エスプリ(機知)」がはたらいている。相手の人格を吟味し裁き合っていたら、都市生活はしんどいばかりだ。そんなことがしたいのなら、勝手に予定調和の村社会的「ネットワーク」に潜り込んでじゃれ合っていればいいし、こっちはもう、そこからはぐれてわびしくみすぼらしく生きるしかない。それでけっこう。それでも、世界は輝いているし、そこでしか見つけられない真実もある。
「老後の人生の支えとして何か学問や芸術がしたい」と思っているプチインテリの中高年は多いらしいが、けっきょくは中途半端なことしかできないとか途中で息切れしてしまうのが関の山らしい。彼らはいう、何か打ち込むものを持っていないとときめく心がどんどんなくなってゆく、と。
笑ってしまう。
学問や芸術をすればときめく心が持てるのか?そうではあるまい。ときめく心が学問や芸術に向かわせるのであり、そんなことをしたければまずはそういう心を持ってからにしろ、という話だ。学問や芸術がときめく心を豊かにしてくれるのではない。学問や芸術なんか、やろうと思えば誰だってできる。しかしときめく心が貧しければ、それなりのレベルの達成しかない。この世のもっとも本格的な学者や芸術家の世界だって、そこのところで差がついている。
それもまたつまり、都市的な「エスプリ(機知)」の問題だろうか。
「避けがたく支配されてしまう無防備な心」で「問う」ということができなければ、何をしたって中途半端さ。自分で自分を支配する「しなければならない」という「目的意識」でどんなに頑張っても、「せずにいられない」という自分を忘れた無防備な心で夢中になっているものにはかなわない。学問や芸術だけではない。もともと人と人は、ときめき合わずにいられないような「避けがたく支配されてしまう無防備な心」で向き合っている存在なのだ。いいかえれば、そういう心を共有していなければときめき合うことなんかできない。
そういえば、「好きにならずにいられない」という歌があったなあ。でも、ブサイクな人間にかぎって自分は誰よりも魅力的だというぬぼれが強いんだよね。好きになってもらえないから、そういううぬぼれを持っていないと生きられない、という場合もあるんだろうね。彼らは、「好きになってもらう」ことばかり願って生きている。そうやって、内田樹みたいにあさましく「自分」を見せびらかしてばかりいる。
ときめかずにいられないものにとっては、相手が自分のことを好きかどうかなんて、問うほどの問題ではない。
まあ世の中は、いろんな人間がいる。そして「好きにならずにいられない」ような「あなた」なんかめったにいないし、この世のどこかに必ずいる。だって、誰だって心の中にそういう「あなた」を持っているのだもの
人の心の中にいるのは、「自分」ではなく、「あなた」なのだ。
「自分」なんか、いつの間にか忘れてしまっている。