祭りのあとのかなしみと現代貨幣理論

 

 

京都市長選で、福山和人候補が負けてしまった。あんなにも盛り上がっていたのに、応援していた人たちはそうとうなショックだったにちがいなく、悶々として眠られぬ一夜になったことだろう。

今回は、権力者である現職の候補と反権力の市民派二人の三つ巴の選挙になったわけで、そうなったら市民派の票が割れて現職が勝つに決まっている。市民派二人の思想が右寄りか左よりかということは、あまり関係なかった。現職候補の票が21万で福山氏は16万、そして3番手である右寄りの市民派候補も10万票を集めてしまい、けっきょく市長候補の票が割れるということはあまりなかった。もしもこの3番手の人が立候補しなければ福山氏に圧倒的な反市長の票が集まったにちがいない。まったくおじゃま虫そのものだったわけだが、まだ若くて野心満々というか自己顕示欲旺盛の人だから、そんなことは知ったことではなく、4年後8年後12年後の地固めをしているつもりなのだろう。右傾化した時代に踊らされている若者たちから一定の票を集めたこの候補にこんなふうに引っ掻き回されているかぎり、とうぶんは京都で市民派の候補が勝つことはないにちがいない。

京都の「町衆」の文化は、いったいどこに行ってしまうのだろうか。

いや、時代の右傾化の傾向が後退してくれば、この目立ちたがり屋の3番手の候補の人気も、やがてはN国党のようにしぼんでゆくのかもしれない。

京都は伝統的に共産党が強い土地柄だが、今回の敗因にはその神通力にも陰りが見えてきたということもあるのだろうか。反市長の票を集めきれなくて、かなり3番手の候補に持っていかれてしまった。つまり共産党は、支持者の老齢化が進んで、若い層の支持があまり増えていない。とくに男は老人ばかりで、そんな人たちが街頭演説をする福山氏の横に並んでも、さっぱり見栄えがしない。女たちは若い層も頑張っているのだが、男の年寄りたちがそれを押しのけて前に出てこようとする。これは、左翼全体の傾向かもしれない。団塊世代を中心とするオールド左翼というのは、やっかいな人たちが多い。まあ右翼の年寄りだって同じだが、40代以下の若い主婦やOLや女子大生などがもっと目立たなければ「祭りの賑わい」は盛り上がらない。

では、今回自民党と手を組んで現市長を応援した立憲民主党や国民民主党は面目を保ったといえるだろうか。今回は全国的に注目された選挙である。そこで、党利党略のためには自民党とも手を組むという姑息な姿を日本中にさらしたわけで、なまじ勝ったからこそ、よけいに野党の支持者たちの幻滅は深い。あの連中はもういらない、と思った者たちがたくさんいる。党利党略がいちばんで「民衆の心の寄り添う」というのは二の次、政治家なんてそんな人種か、と思われてしまった。立憲民主党の支持者の4割くらいは福山氏に投票した、といわれている。そうして現市長の得票数は、投票率が5パーセント上がったにもかかわらず、前回よりも4万票くらい減らしている。

京都市民はもとより全国の人々だって、現在の市政はひどいもので現市長よりも福山氏のほうが圧倒的に人格も見識も優れている、と思っているのに、それでも既得権益者たちの組織票によって負けてしまった。

京都は終わった……日本の政治はすでに終わっている……という声が全国に広がっている。

僕も今度こそはおもしろいものが見られそうだと期待したが、そうはならず、大いにがっかりした。ほんとにもう、この国は二度と立ち上がれないのか、とも思った。

なぜ期待したのかといえば、「つなぐ京都2020」という女たちの市民グループが活発に動いていたからだが、いかんせん時間が足りなかった、ということだろうか。その2か月ちょっとの活動で前回35パーセントだった投票率を40パーセントに上げたのだからそれなりの成果はあったのだが、反市長の側が二つに分かれた三つ巴の戦いを制するためにはあと10パーセント上げる必要があり、そのためにはさらにもう半年くらい早く候補者を決めて運動をはじめていないと間に合わなかったのだろう。

彼女らは、くじけないでこの運動をつないでゆくことができるだろうか。そうでないと、ほんとうに京都もこの国も終わってしまう。

この国が「新しい時代」に分け入ってゆくためには、女たちの市民グループが組織されることこそ希望になる。運動には「華=祭りの賑わい」が必要だ。貧相なオールド左翼のじじいたちはあまりしゃしゃり出てきてほしくない。やつらを置き去りにして盛り上がっていってほしい。願わくば、ここから漕ぎ出していってほしい。

 

貨幣の話に戻ろう

MMTでよくいわれる「万年筆マネー」とは、「銀行が貸すお金はそこに万年筆で金額を記入することによって発生しているのであって、預金としてお客から集めたお金を貸しているのではない」というようなことらしい。そうして借りた者がそれを返せば、この世からその金額が消えてなくなる。このことは、太陽や月が現れて消えてゆくことや人の命が現れて消えてゆくことと、とてもよく似ている。貨幣とは、出現して消えてゆくものだ。出現して消えてゆくことはこの宇宙の摂理であり、人の命もそこから逃れられない。

起源としての貨幣が「きらきら光るもの」であったということは、それが「出現して消えてゆく宇宙の摂理」の形見として生まれてきたということを意味している。太陽や月がそうであるように、この世のすべての「きらきら光るもの」のその「輝き」は「出現して消えてゆくもの」にほかならない。

人の心は、「きらきら光るもの」にときめき感動する。それは、空の彼方の「異次元の世界」からやってきて、またそこに帰ってゆく。人の心の「きらきら光るもの」に対するときめきは、空の彼方の「異次元の世界」に対する遠いあこがれであり、またそこは、「今ここ」の裂け目の向こう側に横たわっている「死者」の行く世界でもある。

地上のこの世界において「きらきら光るもの」は、「死者の世界」から現れ出てきてまたそこに向かって消えてゆく。起源の「きらきら光るもの」としての貨幣は、「死者の世界」からの「贈り物」であると同時に、「死者」の世界に対する「捧げもの」でもあった。そしてその本質は、現在でも葬式のときの「香典」として残されている。

人類の「香典」は、2万年前の原始人が死者の棺におびただしい数のきらきら光るビーズの玉を捧げたところからはじまっている。

今どきは「香典なんか無駄な儀礼だ」という言説も飛び交っているらしいが、そうではない。それは、死者を失った「かなしみ」の形見であり、死者への「捧げもの」である。べつに、生き残った家族に差し出しているのではない。つまりそれは、人間存在の根源および貨幣の本質が現れて消えてゆくものであるということと深く通底している。

貨幣は、人間にとってもっとも大切なものであると同時に、それゆえにこそ必ず消えてゆくものでもある。

この命がそうであるように、人にとってもっとも大切なものは、消えてゆくものでもある。

自国通貨建ての国債は、必要とあればいつでも消してしまうことができる……というMMTの説明は、おそらく貨幣の本質にかなっている。

貨幣は本質において「消えてゆくもの」だから、作り続けねばならないのだ。国債は、発行し続けねばならないのだ。

現れて消えてゆくものであるという貨幣の本質が現在ほどダイナミックに機能している時代もないともいえる。おそらく貨幣は、人が存在するかぎり永遠に「現れて消えてゆくもの」であり続けることだろう。いつの時代も貨幣の意味と価値はそうした人間存在の普遍的な無意識の上に成り立っているのであり、知ったかぶりをして「貨幣の本質には意味も価値もない」というようなスノッブなことをいっていても、この社会のシステムを根本的に変えてゆく説得力にはならない。

 

僕は、現在の貨幣経済についての具体的なことなど何も知らないし、この先どうなってゆけばいいのかということもさらにわからない。知りたいのはあくまで「貨幣の起源と本質」についてであり、それはまた「人間とは何か」という問題でもある。

この世に流通している貨幣の本質は「人間とは何か」という問題の上に成り立っているわけで、「資本主義社会とは何か」という問題設定だけでは見誤ることもあるにちがいない。

とはいえ僕は、「資本主義社会とは何か」ということもよくわからない。まあ資本主義社会とはこの世界の政治経済の支配層によってつくられたシステムであり、民衆社会の伝統=本質の上に成り立っているのではない。この世界の片隅として民衆社会は、その「片隅」の度合いが濃くなればなるほど、権力社会とはまったく違う関係の集団性になってゆく。そこでは、「私有財産制の上に成り立った資本義的な契約関係の集団性」とは別の次元の、「他愛なくときめき合い助け合う原始共産制的な関係の集団性」が息づいており、それをどのように社会全体の動きに反映させてゆくことができるかというのが、人類の集団性の究極の課題であるのかもしれない。

まあいつの時代も人の世は「憂き世」であるわけで、だからこそ足の引っ張り合いも起きれば、他愛なくときめき合い助け合いもするし、権力社会の権力闘争のような足の引っ張り合いばかりの世の中になったら生きていられない。

この国の民衆は、つねに権力社会とは別の次元の集団性を持っている。この国の伝統においては、権力社会と民衆社会のあいだに「契約関係」がない。だから権力社会は好き勝手なことをするし、民衆社会は自分たちだけの集団性を大切に守り育ててきた。

日本人は普段の生活の場で政治の話をしないからダメだ、などとよくいわれるが、民衆社会の伝統においては「国の政治」の話をしないのがひとつの「美徳」であり、この習俗がそうかんたんに改まることはおそらくないだろう。それは民衆の、自分たちには自分たちの「政治=集団運営の流儀」があるというプライドのあらわれでもあり、民衆社会に「政治に対する意識」がないというのではない。

「日本人には公共心がない」などともいわれるが、それは国家レベルの「公共」に対する意識が薄いだけで、民衆社会のときめき合い助け合う「公共心」は豊かに持っている。だから、大震災のときなどは混乱することなく粛々と助け合うということをする。欧米社会などは国家と民衆社会に「契約関係」があるから革命も起こるが、それはまた、いったん無政府状態になったら大きく混乱してしまう、ということでもある。この国では、そういうことは起きない。それでも粛々と助け合う。そういう「公共心」の伝統がある。

集団性=公共心の二重構造……この国の民衆社会の集団性=公共心は、国の政治に依存していない。だから、国の政治についての話はしない。

この国の民衆社会の集団性=公共心における経済の基礎は、資本主義社会の貨幣流通の属性である「交換」や「契約」や「競争」の上にではなく、「一方的に<捧げもの>を差し出し合う関係」の上に成り立っている。貨幣は本質において「浄財」であるということ、すなわちそういう人類普遍の「原始共産制」を引き継いでいる。そうしてこの国の権力社会は、その「捧げもの」の心に付け込み、好き勝手な支配をしてくる。そうやって社会のシステムが、欧米以上に資本主義化してしまっている。

 

権力社会との「契約関係」がないこの国の民衆は、権力社会に対して抵抗したり交渉したりするというような「公共心」に欠けている。だから、国の政治の話をしない。

この国の民衆が国の政治を変える方法は、国に対して抵抗したり交渉したりするのではなく、国を置き去りにして民衆自身の「関係性=集団性=公共心」で盛り上がってゆき、国のほうがそれに合わせてくるように仕向けるしかない。

今や民衆どうしが足の引っ張り合いをしているような状況では、権力者の思うつぼであり、この停滞した状況は変わりそうもない。

この空気を一気に変えるカリスマのリーダーの登場が待ち望まれる。

みんながときめき合い助け合う関係になるためには、みんなで同じ対象を祀り上げてゆく盛り上がりが必要になる。その「祭りの賑わい」から「ときめき合い助け合う関係の集団性」が生まれてくる。まあそうやって起源としての天皇が生まれてきたのだし、みんなしてカリスマを祀り上げようとするのは、人間の集団性の本能のようなものだ。

貨幣だって、人間集団のカリスマとして生まれてきたのだし、現在でも本質的にはそのような「捧げもの」の形見として存在し機能している。

起源としての貨幣は人間集団の「祭りの賑わい」から生まれてきたのであって、「交換の道具」として生まれてきたのではない。その「祭りの賑わい」においては、みんなが「捧げ合って」いたのであって、「交換」していたのではない。

「捧げる」とは、大切なものを「喪失する」ことである。商品を買うことは、大切な貨幣を「捧げる=喪失する」ことだ。貨幣は「喪失感」の形見であり、「喪失感」こそ人にとってのもっとも深く豊かな「快楽」なのだ。そうやってセックスのときの女は身も世もなくあえぎつつ、オルガスムスにいたれば「死ぬう!」という。

セックスだろうとお祭りだろうと、「もう死んでもいい」という勢いでなされている。

商品を買うことは、「もう死んでもいい」という勢いで貨幣を差し出すことだ。

起源としての貨幣は、「喪失感」というカタルシスの形見として生まれてきた。そうやって2万年前のスンギール遺跡の原始人は死者の棺におびただしい数のきらきら光るビーズの玉を捧げたのだし、古代の中国の民衆もまたきらきら光る銅銭の束を惜しげもなく死者に捧げていった。

「喪失感」のカタルシスの形見である貨幣は、「大切なもの」であると同時に「消えてゆくもの」でもあらねばならない。現在でも貨幣の本質は「捧げるもの」であることの上に成り立っており、人の集団性の本質もまたそこにある。捧げ合い助け合う関係が盛り上がってこなければ、集団のダイナミズムも生まれてこない。新しい時代に分け入るエネルギーは生まれてこない。

貨幣は、人類の集団性の本質を担保する形見である。したがって「貨幣は本質において意味も価値もない」などとスノッブなことをいっていても、この世から貨幣がなくなることはない。なくなるものだから、たえず新しくつくられ続けてゆく。

貨幣が悪いのではない、貨幣を扱う人の心や社会の構造が歪んでいるのだ。貨幣は本質において「浄財」であるがゆえに、人の心や社会の構造を歪ませもする。そこがやっかいなところで、正直な民衆がバカを見る世の中になってしまう。だから正直な民衆の声を聞くために選挙制度が生まれてきたのだし、民主主義ということが叫ばれている。

 

「正直な民衆」とは、どういう人たちのことか。

人として正直であるとは、べつに嘘をつかないというようなことではなく、人間性の本質に沿って生きている、ということだ。

人間性の本質は、女のもとにもっとも深く豊かに宿っている。

ここでは「貨幣の本質は人間性の本質にかなっている」と書いてきたわけだが、それは、「もう死んでもいい」という勢いで「捧げもの」をし、その「喪失感」を抱きすくめてゆく「カタルシス=快楽」にある。そして女こそそういう「カタルシス=快楽」をもっとも深く豊かに汲み上げている者たちであり、とくに「処女=思春期の少女」は、その気配によってこの世でもっとも輝く存在たりえている。

なんのかのといっても「処女喪失」は「もう死んでもいい」という勢いで「捧げもの」をする体験であろうし、そうした「処女性」はすべての女の中に宿っている。いや、男の中にだって宿っているともいえるわけで、その「自己処罰」の衝動こそ人間性の本質であり、貨幣の本質的な存在理由なのだ。

人類にとって「自己処罰」はひとつの「聖性」であり、そこにこそ「処女=思春期の少女」の輝きがある。そうやって彼女らは、歴史的に人の世の「生贄」にされてきた。

「自己処罰する」とは「われを忘れる」ということ。そうやってこの国の民衆社会および普遍的な「原始共産制」の社会は、他愛なくときめき合い助け合ってゆく。われを忘れて何かにときめき熱中してゆくことは人間性の普遍的な自然であり、それによって人類史のさまざまなイノベーションが起きてきた。

貨幣もまた、自己処罰し消えてゆく。貨幣は人間性の自然の反映およびこの宇宙の摂理の形見として生まれてきて、数万年の歴史を存在し続け、これからもきっと人が人であるかぎり存在し続けてゆくにちがいない。

良くも悪くも貨幣は、人が人であるためのよりどころなのだ。心が歪んでいたって人であることには変わりないし、だれだって「人」であろうとする。人は、生きてあることの「よりどころ」を持たなければ生きていられない。この世に生まれ出てきてしまったことの「不幸」とどう和解すればいいのか。その「不幸」を抱きすくめて生きるしかない。

人は死んでゆくしかない存在だし、貨幣もまた「消えてゆくもの」としてこの世界に流通している。

人を支配したりだましたりして「利潤」を吸い上げるものも、支配されだまされている正直者も、等しく貨幣を人が人であるためのよりどころにしている。言い換えれば、貨幣こそが真の正直者だ、ともいえる。貨幣が貨幣であることの真実は、「意味も価値もないただの紙切れや数字にすぎない」というようなことにあるのではない。

だれだって、この世界に現れ出てこの世界から消え去ってゆくものであるという宿命を負って存在している。貨幣は、この世界は現れ出て消えてゆくものであるという宇宙=森羅万象の摂理の形見として存在している。

人が人であるかぎり、貨幣は永遠に存在し続ける。

 

人は、生きてあることのよりどころがないと生きていられない。それは、知能が発達して「死」について考える存在になってしまったということだろうが、とにかく考えたり感じたりすることが多様すぎて、さらには二本の足で立つというアクロバティックな姿勢を常態にしているために、心身ともにきわめて不安定な存在の仕方をしている。だからそれを支えるための「よりどころ」が必要になるし、その「よりどころ」はこの生の「外」にある。この生の「外」に対する視線というかあこがれを抱いてしまうほどにこの生は「不安定」なのだ。そしてその「視線=あこがれ」は、二本の足で立ち上がった原初の人類がその絶望とともに青い空を見上げたときからすでにはじまっている。青い空の向こうにはもうひとつの「異次元の世界」があり、青い空に浮かぶ太陽の輝きは、「異次元の世界」からやってきてまたそこに向かって消え去ってゆく。

原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、「異次元の世界」を発見する体験でもあった。もともと「きらきら光るもの」であった貨幣の歴史はすでにそこからはじまっているともいえる。その太陽の輝きが生まれてくる場所としての「異次元の世界」に対する遠いあこがれともに人類史のさまざまなイノベーションが起き、貨幣が生まれてきた。

「新しい時代」に漕ぎ出すことは「異次元の世界」に分け入ってゆくということでもあり、そうやって人の世の動きが活性化してゆく。

つまり原初の貨幣が「きらきら光るもの」であったということは、そういう「異次元の世界の超越性」の形見として生まれてきた、ということ意味する。

昔の中国の銅銭は、中央の四角い穴に紐を通した束にして持ち歩かれていた。

「月」という漢字は、その銅銭の束のかたちの形象文字だといわれている。古代の中国人にとっての月は「死者の世界」であり、その輝きには呪術的超越的な力が宿っていると信じられていた。中島敦の小説には、満月の夜に虎になってしまった男の中国の昔話がある。

古代の中国の銅銭は、月の輝きの呪術性超越性の形見として生まれてきたらしい。そうして中央の四角い穴は、現世=地上の世界をあらわしていたのだとか。

まあ現在でも「貨幣」は「呪術性=超越性」を持って流通しているわけで、文明国家が「神」という概念を発見したのも、「貨幣」の存在が契機になっているのかもしれない。

現在の貨幣は良くも悪くも「神」であり、そういう呪術的超越的な力を発揮して、この世界の経済を大いに混乱させている。「神の存在なんか信じない」といっても、人が人であるかぎり、超越的な「異次元の世界」に対する遠いあこがれはだれの心の中にも息づいている。だからお金が「浄財」になることもあればお金にしてやられてしまうこともあるし、お金のそうした力を利用して人を支配したりだましたりすることができている。その現実が、「お金には意味も価値もない」といっているだけで解決できると思うのか。気取ってそんなことをいっている当人たちだって、心の底では何かしら貨幣の「呪術性超越性」にとらわれている。ものを買うときにお金を払うという行為それ自体が、貨幣の「呪術性超越性」を信じていないと成り立たないのだ。「異次元の世界に対する遠いあこがれ」は、だれの中にもある。人がこの世に生まれ出てくることはひとつの「悲劇」であり、その想いからくる「異次元の世界に対する遠いあこがれ」を共有したところから貨幣が生まれてきた。

「悲劇」とは、「大切なものを失う」ということ、貨幣はその「悲劇性=喪失感」を抱きすくめてゆくカタルシスの形見であり、その機能の本質は「捧げもの=浄財」であることにある。意味も価値もある「大切なもの」であるからこそ「捧げる」甲斐もある。人がお金を失くしたときの喪失感やお金を払うという行為には、彼らが考えるよりももっと深く人間性の本質に根差している。

 

人類史における貨幣は、人が生きてあることのよりどころの形見として生まれ育ってきたわけで、そんなものがないと生きていられないのが人の性(さが)であり、そうやって「アイドル」とか「カリスマ」とか「神」とかをみんなして祀り上げてゆく。そういう何ものかを祀り上げ「捧げもの」をせずにいられない人間的な集団性の根底に、「貨幣」という存在が横たわっている。現在のような貨幣が存在していない原始時代においても人は、起源としての貨幣である貝殻や石粒などの「きらきら光るもの」を深く愛し、それを「捧げもの」の形見にしていた。

生きてあることは「悲劇」なのだ。人は根源においてそういうかなしみといたたまれなさを抱えているからこそ、われを忘れてより深く豊かにときめいてゆく存在にもなりえているのだし、その「悲劇性=喪失感」を抱きすくめるようにして「捧げもの」を差し出してゆく。「利他性」というのか、現在はそういう「正直者」がバカを見る世の中になっているのだが「正直者」が存在する世の中だからこそ、そこに付け込んで「利潤」をむさぼる者たちがあらわれてくる。彼らは自分が大事の損得勘定(コスパ主義)で生きようとし、だまされる方だってバカを見るから自分も損得勘定(コスパ主義)になってゆく。まあなんともややこしい世の中のありさまだが、けっきょく人間性の本質・自然が「捧げもの」をせずにいられないことにあるから、そういう事態になってしまう。

だます者は、だまされる者がいなければ生きられない。だれもがだます者になれば、だまし合いばかりの世の中になるのだろうが、それが成り立つということ自体、人の心の根源には「捧げものの衝動=利他性」がはたらいていることを意味する。また、だますものばかりの世の中になれば、だれもがそうかんたんにはだまされなくなるし、だまされるものを助けようとする動きも起きてくる。おそらくそうやって「弁護士」という職業が成り立っているのだろうし、現在は、だますものばかりの世の中であると同時に、だまされる正直者ばかりの世の中でもある。

「男に騙されてはいけない」などと、したり顔していう。そこでわれわれはこう問う。「じゃあお前は、かんたんに騙される純粋無垢な女と、けっしてだまされないすれっからしの女とどちらが好きなのか?」と。

人の世は、かんたんに騙される純粋無垢な女を祀り上げてゆく。それが「処女=思春期の少女」であり、そういう「処女性」はすべての女の中に宿っている。

権力者は、あの手この手で民衆をだましにかかる。そして日本列島の民衆は、かんたんにだまされてしまう「処女性」を伝統文化として持っている。

われわれは、「処女性」を祀り上げるこの伝統文化によって「新しい時代」を切りひらくことができるだろうか。それは、人類史がこの世に「貨幣」というものを生み出した問題であると同時に、この国に処女のように純粋無垢な「天皇」というカリスマが存在することの由縁でもある。

古代以前の日本列島の民衆は、正直者が生きられる世の中でありたいという願いとともに「起源としての天皇」を祀り上げていったし、それこそがもっとも集団の活性化生む原動力だったから、やがて奈良盆地が日本列島の中心になっていった。

何はともあれこの国においては、天皇こそが真の「正直者」なのだ。

正直者が生きられる世の中でありたいというのは人類普遍の願いであり、もとはといえば「貨幣=きらきら光るもの」だってその願いの形見として生まれ、その願いを託された「貨幣=きらきら光るもの」とともに人類の集団が活性化していった。そうして猿のレベルを超えて大きく膨らんでゆき、やがては現在の「国家」という無限に膨らんだ因果でややこしい集団が生まれてきた。

まあこの世に貨幣を搾取・収奪する者たちがいるということは、搾取・収奪される「正直者」がたくさんいるということの証拠でもある。だから、希望がないわけでもない。

 

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蛇足の宣伝です

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。