生きられない・ネアンデルタール人論237

文明人は、生きてあることというか、生きてある自分に執着して、自分=観念が生き延びる先の「天国」や「極楽浄土」や「生まれ変わり」といった概念を生み出してきた。それはまあ人類が、「万物の霊長」として、地球上の生態系の頂点に立ったからだろうか。明日も来年も生きてあるという前提=信憑の延長上に、それらの概念がある。
しかし原始人の段階では、まだそういう意識はなかった。ライオンやウシやウマやシカや鳥などのほうが自然と調和してもっと上手に生きている、と思っていた。そのとき人類はまだまだ四苦八苦して生きていたし、氷河期の北ヨーロッパネアンデルタール人にいたっては、明日も生きてあるという前提=信憑を持てなかった。おそらく彼らの生態や死生観はその艱難辛苦の生に閉じ込められてあることのいたたまれなさから生まれてきたのだろうし、人類の知能(=知性や感性)はまあ、そうした生の不可能性とともにというか、そうやって生と死のはざまに立って生きることによって進化発展してきた。
現在だって、心ある人は、人間のことを「万物の霊長」だとは思っていない。人の心も命のはたらきも、生と死のはざまに立って活性化するのであり、そういう生きられない心細さとともに活性化してゆくのだ。
人間は脳(知能)が発達しているそのぶんだけ、ほかの動物よりももっと生きられない心細さや、この生に閉じ込められてあるいたたまれなさを抱えて生きている。
文明社会は、明日も来年も生きてあるという前提=信憑が合意されていることの上に成り立っており、それは共同体の制度的な観念(=共同幻想)にほかならないわけで、そこからはぐれてこの生の不可能性に立てば、ひとりぼっちで取り残されているような心地になる。つまりネアンデルタール人は、誰もがそうしたひとりぼっちの途方に暮れた心地を抱えて生きていたということだ。だからこそ、誰もが他愛なくときめき合ってフリーセックスの社会をつくっていた。
50万年前に彼らの祖先が氷河期の北ヨーロッパにたどり着いたとき、集団で移住していったのではおそらくない。なぜなら、そんな住みにくい土地への移住を集団が選択するはずがない。老人や女子供はそんなところで生きられるはずもないのだから、選択するわけがない。集団からはぐれた一部の若い男や女が、気がついたらそんなところにさまよい出てしまっただけだろうが、ほかの集団からも同じような男女が集まってきていて、そこに新しい集団が生まれていった。その、集団からはぐれてしまった「ひとりぼっち」の心地を共有しながら、そこに人と人が他愛なくときめき合う「祭りの賑わい」が生まれていった。
それは、どこからともなく人が集まってきてできた見知らぬものどうしの集団だった。そうしてその極寒の地は、大勢で寄り集まっていないと生きられなかった。
誰もが、集団からはぐれた「ひとりぼっち」の心地を抱えていた。人と人のときめき合う関係は、そのような途方に暮れた心地から生まれてくる。人間なら、誰の中にもそうした心地は息づいている。人類は、そのようなときめき合う関係の歴史を歩みながら、やがて無際限に人口がふくらんでゆく「都市」という集団を生み出していったわけで、ネアンデルタール人の社会はすでに都市的な性格を持っていたともいえる。人類史における「都市の発生」の基礎は、ネアンデルタール人がつくった。
「都市」とは、どこからともなく集まってきた人々が他愛なくときめき合う「祭りの賑わい」を生み出してゆく場所のこと。まあ、古代以前の祭りは、フリーセックスの場だった。
一年中発情している猿になった人類は、フリーセックスの場を生み出しながら地球の隅々まで拡散していった。他愛なくときめき合う「祭りの賑わい」こそ、人類の集団性の基礎=本質にほかならない。生きられない弱い存在として生と死のはざまに立っているから、そういう関係になることができる。
人類史は、そういう生のかたちの極限を、ネアンデルタール人の時代に体験した。もともと生きられなさを生きるというかたちで二本の足で立ち上がっていったのだから、そこまでいってしまうのは必然的なことだった。
男であれ女であれ、セックスアピールは、生と死のはざまに立っている気配にある。女は、死に誘われるようにしてオルガスムスに堕ちてゆく。人類は、生と死のはざまに立って歴史を歩み、文化を進化発展させてきた。
人類にとってのセックスは、その根源・本質において死に誘われる体験であって、子孫を残し種族を維持してゆくためとか、そんな目的でなされてきたのではない。死に誘われるようにして、二本の足で立ち上がり、一年中発情している猿になり、地球の隅々まで拡散していったのだ。
人間であれ他の動物であれ、セックスは相手にセックスアピールを感じることの上に成り立っているのであって、種族維持の本能などというものがはたらいているのではない。猿だってそうやってセックスをしているし、死に気づいてしまった存在である人類の男と女の関係においては、その契機がもっと豊かにはたらいている。
猿が異性にセックスアピールを感じる機会は一年に一度か二度しかないが、人類はもう、それを一年中感じている。
つまりネアンデルタール人がフリーセックスの社会をつくることができたのは、誰もが生と死のはざまに立ち、誰もが相手にセックスアピールを感じていたからであって、べつに猿のように知能が低くけものじみていたからではない。生きられなさのさなかに置かれていた彼らは、平和で豊かな社会で暮らすわれわれ現代人よりも、もっと豊かなときめきを生きていた。