「あいまい」の伝統・神道と天皇(143)

どんな生きものだろうと、生きられなさを生きようとするところでこそ生のいとなみが活性化する。
この生を超えてゆくことがこの生になる。生きることよりも「神聖なもの」はもっと大事だ。生きることなんか忘れて「神聖なもの」にわが身を捧げてゆく……鳥や魚やウミガメやミツバチだって、そういうかたちでそれぞれの生態をつくっている。
「神聖なもの=自然の摂理」はこの生やこの世界の外にあり、この生やこの世界を創造したのが神であるのなら、それは「神=宗教」の外にある、ということになる。
「神=宗教」は人の心をこの生やこの世界に閉じ込めてしまう装置であり、だから宗教者の考えることは俗っぽく、何かと人の暮らしや政治のことに口を出したがる。
原始人は、宗教者よりももっと深く切実に「神聖なもの」を祀り上げていたのであり、その伝統は今なお人類の心の底に受け継がれている。だから人は、見上げる空の青さが目に胸にしみるのだ。それは、宗教よりももっと宗教的な心であり、宗教の外で息づいている心なのだ。
神道は、「宗教の外」を夢見ながら生まれてきた。
古代以前の奈良盆地が日本列島でもっとも大きな都市集落へと発展していったのは、支配者の政治や呪術によるのでも農業をしようという経済目的でもなく、ただもうみんなして「神聖なもの」を祀り上げていったからだ。人間的な「連携」のダイナミズムの根幹はそこにこそあるわけで、政治や呪術(=宗教)や農業(=経済)のことは、大きな都市集落になったことの「結果」として生まれてきたにすぎない。
まあ、日本人は宗教心が薄いといっても、そのぶん現実的で打算的だということもないだろう。むしろ、そういうことに疎い傾向があるくらいで、神との関係(=神の裁き)を持っていないから、心はいつもあいまいな世界を漂っている。しかし、そこでこそ人は「神聖なもの」を祀り上げる。祀り上げていなければ、あいまいな世界を漂っていられない。あいまいな世界を漂っていることの心もとなさが、「神聖なもの」を見つけ出す。
「神聖なもの」に対する遠い憧れから、人や世界を裁かないという日本的な「あいまい」の文化が生まれてきた。

日本的な「あいまい」の文化は、おおむねネガティブに評価されることが多いのだが、「神の裁き」の上に何もかも善悪や規範がが決定されている外国人からすると、何か新鮮に映ったりすることもあるらしい。
この世の中には、「善悪なんか決められない」ということはいくらでもある。というか、すべてのことにおいて決められない、ともいえる。
「神聖なもの」は、俗世間の基準であるところの善悪を超えたところにある。この世の中の善悪なんか決められない。この世の中は仮の棲み家にすぎない……そういう思いは、たんなる日本的な無常感というよりも、じつは世界中の誰の中にもある。そういう思いがあるから、森羅万象の「不思議」に驚きときめく。「なんだろう」と思う。「わからない」と思う。
そういう「不思議」をわかったことにしてしまうのが宗教でありオカルトだ。つまり、擬人化するとか、俗世間の基準に当てはめてわかったことにしてしまう。何もかもこの世の中に流通する「言葉」で説明してしまう。宗教やオカルトほど俗っぽいものもない。彼らには「言葉にできないもの」を前にして途方に暮れるということがない。
「探究」とは、「言葉にできないもの」を思うことだ。すなわち、この世の「外(=異次元の世界)」を思うこと。そうやって心は、「異次元の世界」の超出してゆく勢いで、「世界の輝き(=不思議)」に驚きときめいている。
心が「異次元の世界=神聖なもの」に向いているからこの世のことがあいまいに見えてしまうし、森羅万象の存在そのものに対しても「異次元性=不思議」を見出し、驚きときめく。
「神聖なもの」を思うことは「不思議」を思うことだ。
説明できるのなら、不思議でもなんでもない。この世界やこの生が神や霊魂によって決定されてあるものなら、不思議でもなんでもない。
この世界やこの生、すなわち「存在」は、不思議でなやましく狂おしいものだ……そういう感慨から「あいまい」の文化が生まれてくる。

日本人は幽霊を見る。
日本列島ではなぜ生と死の境界があいまいかといえば、基本的には天国とか極楽浄土とか生まれ変わりというようなことを信じていないからであり、死んでもまだこの世のどこかにいるような気がする。それはつまり、人と人の心のつながりとしての関係が信じられている社会だからだろう。心と心のつながりは、肉体の死と同じには考えられない。肉体は死んでも、心と心のつながりは残る……という思いがある。心をこの世に残したまま死ねば、いぜんとして心はこの世のどこかにとどまっている。
心という「非存在」のものを、この世界の現象として認識する。死者の幽霊があらわれてくる現象は「非存在」であっても、この世界にないものではない。この世界の向こうに「非存在」の世界がある。その世界が、この世界にあらわれてくる。その「非存在の世界」を「神聖なもの」として祀り上げる。それは、たんなる想像力の問題であっても、そうやって日本人は幽霊を見てしまう。
日本人は、この世界の向こうに「非存在の世界」があると思っている。そしてその「非存在の世界」と「実在のこの世界」はつながっていて、その前者の世界がこの世界にあらわれてくる。幽霊だけでなく、「光」もまた、この世界にあらわれては「非存在の世界」に向かって消えてゆくものである。日本人はそういうふうに感じているのであり、そういうふうに幽霊を見てしまう、ということだ。
宗教者にとって世界は「実在」であり、神(ゴッド)もまた「実在」である。彼らは、「実在」の外の「非存在の世界」は思わない。
したがって「実在」の外の「非存在の世界」を思っている日本人は、必然的に非宗教的な心根になるほかない。そしてそれはもう縄文時代以来の日本列島の伝統であり、そういう「非存在の世界」を「神聖なもの」として祀り上げながら、仏教に対するカウンターカルチャーとして神道が生まれてきたのだ
神道の「かみ」は「非存在」の対象であり、だから「隠れている」ということになっている。
神(ゴッド)が存在していようといまいと、日本人は、存在よりも「非存在」を祀り上げて歴史を歩んできた。
われわれ日本人が非宗教的だからといって、「神聖なもの」を「祀り上げる」心において、宗教者よりも劣っているわけでも不埒であるのでもない。
少なくとも仏教伝来のときの民衆は、「存在」というような俗っぽいものを祀り上げる気にはならなかった。
宗教者であれ、人格者であれ、右翼や左翼の政治オタクであれ、善悪を決定したがるものほど通俗的で、いざとなると「善=正義」を振りかざして戦争や人殺しなどのどんな凶悪なことも平気でするようになる。古代の大和朝廷もまた、善悪で民衆を裁き支配するための装置として、法制度とともに仏教を差し出してきた。

古代の仏教は、民衆の現実生活における思考や行動を裁いたり救済したりする装置として差し出されてきたのだが、民衆にとっての「神聖なもの」はあくまでこの生の「外」にあったわけで、彼らが解釈した「仏」という概念も、けっしてもとの漢字の字義通りではなかった。
彼らはそれを、「ほとけ」というやまとことばに直して読むようになっていった。
「ほと」とは、「ほとほと」とか「ほとんど」といったり、女性器のことを「ほと」といったりするように、「中心的」とか「最終的」というような意味。そして「け」は、「蹴る」「消す」の「け」で、「分裂」とか「別世界」とか「異次元性」というようなニュアンスがある。であれば「仏」とは「異次元の世界の中心的な存在」、すなわち「神聖なもの」ということになる。
「け」とは「異次元性」のこと、「ほとけ」の「け」と「もののけ」の「け」は同じなのだ。
そのとき民衆は、仏教の「戒律」を無視して、「仏(ほとけ)」を、善悪を超えた異次元的な「神聖なもの」として解釈した。日本列島における「仏心」とは「すべてを許している心」のことであって、「よい心」のことをいうのでも「善悪が分かっている心」のことをいうのでもない。
その解釈は、民衆の良心であると同時に、仏教が押し付けてくる「戒律」に対する無意識的な抵抗でもあった。
人はもともと「神聖なもの」を祀り上げている存在であるから、「宗教」を差し出されると、ついたぶらかされてしまう。しかし同時に、「神聖なもの」を祀り上げている存在だからこそ、宗教に抵抗する気持ちも世界中の誰の中にもある。
文明社会の歴史は、宗教に洗脳されつつ、宗教に抵抗してきた歴史でもあった。
キリスト教は、まずユダヤ教としてはじまり、それに対抗してカソリックが生まれ、さらにはプロテスタントという対抗勢力が起きてきた。また、現在のキリスト教は無数の宗派に分かれており、宗教の世界では、つねにそれを否定し対抗する勢力が生まれてくる。つまり、宗教を否定するのが宗教なのだ。宗教は、つねに否定される宿命にある。なぜなら、人類にとってのもっとも「神聖なもの」は宗教の外にあるからだ。人類の無意識は、つねにその「神聖なもの」を思っている。「神聖なもの」によって宗教が否定される。
そしてその「神聖なもの」けっして「絶対的なもの」ではない。それは、あらわれて消えてゆくところの「非存在」の「光」であり「輝き」なのだもの、きわめて「あいまい」で「移ろいゆくもの」でしかない。「絶対的なものなどない」ということこそ、「神聖なもの」であることの証明にほかならない。
「絶対的なもの」は存在するかどうかと問うてもしょうがない。人は先験的に「絶対的なものなどない」という思いを持ってしまっている。だから、「絶対的なもの」はつねに否定される。

人類がもっとも愛着し執着しているのは「金」とか「火」とか「星」とか「太陽」とか「水」とかの「光=輝き」であり、たとえば「貨幣=金」に対する執着・愛着の前では平気で神の教えや掟を破ってしまうのが人のつねではないか。そうやって宗教が否定され、乗り超えられてゆく。
「貨幣」は、絶対的な価値の基準であると同時に、永遠に移ろい流れてゆく価値でもある。
「絶対的なもの」などないということ、すなわち永遠に移ろい流れてゆくものこそ、もっとも「神聖なもの」なのだ。
「絶対的なもの」は、「絶対的である」ということそれ自体においてすでに「限定」されており、「永遠」ではない。どこまでも移ろい流れてゆき続けることによって、はじめて「永遠」になる。
人類は、心のどこかしらで神の「絶対性」を疑っているし、「絶対」であるがゆえに「永遠」ではない、と気づいている。
人は、神を裏切り、宗教に抵抗する。
すべてのものは移ろい流れてゆく、確かなものなどないもない……日本列島の「あいまい」の文化は、そういう感慨の上に成り立っている。だから日本人は、宗教心が薄い。それはもう縄文時代以来の伝統であり、そこから仏教に対するカウンターカルチャーとしての「神道」が生まれてきた。
日本人は、つねに宗教の外にある「かみ=神聖なもの」を祀り上げてきた。それはまあ、この宇宙の外は何もない「黄泉の国」が広がっている、という世界観で、そういう「非存在の世界」を想定しなければ「永遠=無限」というイメージを手繰り寄せることはできない。
人類は、二本の足で立ち上がって青い空を見上げて以来、ずっと「永遠=無限」を思ってきた。現代人が何はさておいても「金=貨幣」という「きらきら光るもの」に執着するのも、それが「永遠=無限」を象徴するものだからだ。
現代人は、けっきょくのところ神(ゴッド)よりも「金=貨幣」のほうが大事で、それで動いている世の中ではないか。「金=貨幣」なんかどうしようもなく現世的で俗っぽいものだけれど、それがなぜ人類社会の中心的なものになってきたのかといえば、やっぱりそこに人間性の自然がはたらいているからで、つまりそれは、人の心は根源において「きらきら光るもの」を「永遠=無限」を象徴する「神聖なもの」として祀り上げているということであり、それが原初以来の人類史の伝統なのだ。
人の心は、「神(ゴッド)」よりももっと「神聖なもの」を祀り上げている。
この世の中が人の心で動いているものであるのなら、さしあたって科学的な真実が宗教を否定するもっとも有効なものだとはいえない。科学的な真実によって宗教が否定されているのではなく、人の心の自然そのものにおいて宗教を超える世界を夢見ているのであり、宗教に対する拒否反応がじつは誰の心の底にも息づいているのだ。
宗教を否定するのに、べつに科学的な真実にたよる必要もない。人の心のはたらきそのものに、宗教に対する拒否反応があるのだ。