国家なんか知らない・神道と天皇(146)

このシリーズは神道天皇の起源について考えることがテーマなのだが、隔靴掻痒というか、何か枝葉のことばかりつついているような気がしないでもない。
結論はもう、とっくに出ている。しかし、古代以前の日本列島に宗教なんかなかったとか、起源としての天皇は支配者でもなんでもなく神社の「巫女」だった、といってもただのトンデモ説だと思われるに決まっているわけで、それを証明するためにはどうすればいいのかと途方に暮れるばかりだ。
僕は日本人だから、政治も宗教も信じない。神道天皇の起源はそういう問題ではないのだし、そういうアプローチでしか歴史を考えられないのは思考や想像力の限界だ。人間の歴史というのはそういうものではないだろう。今ここに生きてあるものとして、そう思う。
日本人に、ナショナリズムの伝統も宗教心の伝統もない。戦後の歴史は、そこに還ってゆく歩みとしてはじまり、還りきれない混乱を抱えたまま現在にいたっている。
ナショナリズムも宗教心もないということは、それだけ不埒で愚かだということではない。ナショナリズムや宗教心こそ不埒で通俗的な停滞した思考であり、原始人はもっと「神聖なもの」を祀り上げる歴史を歩んできたし、日本列島ではその原始性を洗練発達させてきた。
日本人の「神聖なもの」に対する遠い憧れが、政治や宗教に対する関心を薄くさせている。
古代人が仏教伝来に際して神道を生み出し天皇を祀り上げていったことは、宗教や政治なんかよりももっと本質的で純粋な契機がある。そもそも奈良盆地が大きな都市集落になっていった過程そのものが政治とか宗教とか経済とかの通俗的な問題では語れないのであり、ただもうそこで人と人が他愛なくときめき合ってゆくムーブメントが豊かに起きたわけで、それは、宗教や政治よりももっと「神聖なもの」を祀り上げようとする思いが共有されていたということだ。
現代の文明社会が政治や経済や宗教で動いているからといって、それをそのまま古代や先史時代に当てはめることはできない。

「神聖なもの」とは、この世界の輝きのこと。この世界が「神聖」だというのではない。「輝き」が「神聖」なのだ。そして「輝き」とは、この世界として存在するのではなく「異次元の世界」からやってきて去ってゆく現象のことをいう。つまり、あらわれて消えてゆくこと。人の心の底にはそうした「異次元の世界」に対する「遠い憧れ」が息づいており、そうやって「輝き」という「神聖なもの」を祀り上げている。
現代社会において「お金」という「金=貨幣=きらきら輝くもの」がなんだか「神」であるかのように機能しているのも、それはそれで人間性の基礎に根差した歴史の必然的ななりゆきだともいえる。おそらくそれは、原始時代に「火」という「きらきら輝くもの」を親密さとともに祀り上げていったところからはじまっている。そうして、貝殻やビーズの玉や宝石等の「きらきら光るもの」が「貨幣」のような機能を持つようになっていった。まあ原始時代のその段階における「貨幣=きらきら光るもの」は「交換・交易」のためのものではなく、あくまで「神聖なもの」として、ただもう一方的に死者や他者に「捧げる=贈与する」ものだった。
とくに「死者」は、「異次元の世界」の存在であり、人はもう祀り上げずにいられなかった。そうやって「埋葬」という行為がはじまったわけで、べつに「天国」とか「生まれ変わり」等の宗教心に目覚めたからではない。もっと純粋に切実に祀り上げずにいられない心映えがあったのだ。
「祀り上げる」とは「祝福する」ということ。
原始人は、死者の異次元性を、この生を超えていったものとして祝福せずにいられなかった。だからそのときの副葬品としての「きらきら光るもの」は、死者を祝福するために死者に捧げたものだったのであって、死者の所有物でも死者に必要なものでもなかった。
同様に、原初の「貨幣」としての「きらきら光るもの」は、たがいに相手を祝福し捧げるものだったのであって、本質的には「交換」ではなかった。というか、「交換」の本質はそういうところにある、ということだろうか。
人が「神聖なもの」を祀り上げるのは他者を祝福している存在だからであり、それに対して政治や宗教は他者を裁く装置として機能している。彼らが祝福しているのは、国家や神だけなのだ。
というわけで、日本列島の住民は、伝統的に国家も神も信じてこなかった。ただもう、人と人が他愛なくときめき合い祝福し合う文化を育ててきた。それはつまり、国家や神や仏よりももっと「神聖なもの」を祀り上げて歴史を歩んできた、ということだ。

人の心は「きらきら輝くもの」を祀り上げる。太陽や月や星や火や水や木漏れ日や宝石や貝殻等々。その志向性が「貨幣」として現代社会の中心になってきた。その「輝き」はつまり異次元性=超越性の象徴であり、それに対する遠い憧れは、現実のこの生やこの世界を支配する政治や宗教に対する執着よりももっと深く人間性の自然・本質に根差しているともいえる。
人の心は、この生やこの世界の秩序以上にこの生やこの世界を超えた世界(=神聖なもの)を思っているのであり、それによって知能が進化発展してきたのだし、現代社会に「貨幣=金」という「きらきら輝くもの」が流通するようになっている。
人の身体でもただのコップでもビルディングでも山や海でもいいのだけれど、何かが「存在する」ということはそのまわり(=外部)に「非存在」の「空間」があるということであり、「存在」はその「外部」としての「空間=非存在」によって成り立っている。
神が存在するということは、神の外部に「非存在の空間」があるということだ。したがって「神は存在する」といってしまったその瞬間から、すでに神の絶対性とか永遠性が成り立たなくなってしまっている。宗教者は、このことに見て見ぬふりしているのだろうか。
どんなに神の絶対性や永遠性を説いても、それでも人の心からその「外部」の「非存在の空間」を思うことを消し去ることはできない。
だから、神道を生み出した古代の日本列島の住民は、「かみ」は「隠れている」といった。「隠れている」すなわち「非存在」というそのことが「神」であることの証しなのだ。
「光=輝き」もまた、現れて消えてゆく「非存在」の象徴にほかならない。
人類が共有している「悲劇」に対する愛着、すなわち「滅びの美学」は、「非存在」という「超越性」を「神聖なもの」として祀り上げる心映えにほかならない。
「神(ゴッド)」という「存在」は、「存在」であるがゆえに、「超越的」でも「絶対」でも「永遠」でも「神聖なもの」でもありえない。

人類の歴史は「超越的なもの=神聖なもの」に対する遠い憧れとともに動いてきた。そしてそれは、「神(ゴッド)」を思って歴史を歩んできたということではけっしてない。たとえば木漏れ日の輝きは、「神(コッド)」よりももっと「超越的」で「神聖」なのだ。
少なくとも原始神道においては、その木漏れ日の「輝き」の中に「かみ」が宿っているといっても、「かみは存在する」とはいわなかった。そういう「超越性」に対する遠い憧れが原初以来の人類史を動かしてきたのであって、あくまで現世的な「政治」や「宗教」や「経済」を目的にしてきたではない。つまり、「もう死んでもいい」という勢いとともに進化発展してきた、ということ。原始人といえども、そうやって「超越的なもの=神聖なもの」を祀りげて歴史を歩んできた。
火のゆらめきや木漏れ日の輝きにときめくことくらい原始人だって体験していただろうし、そのことのほうが政治的経済的宗教的な動機よりもずっと大きな歴史を動かす体験になってきたのだ。
人類は生きようとしてきたのではない、生きることを超えようとしてきたのだ。まあ、ただ食いたいというより「うまいものが食いたい」ということだって、そういうことだ。
生きてあることは、いたたまれない。だから、生きてあることから逃れたい。生きてあることを超えてゆきたい。
生きてあることを超える体験が、人類に進化発展をもたらした。
生きるための政治や経済や宗教は、人類の生きるいとなみに必然的についてまわるものだとしても、それが目的になっているのではない。
人類にとって生きることは「目的」ではなく「結果」にすぎない。「目的」なんか何もないが、ただもう「超越的なもの=神聖なもの」に引き寄せられて生きている。すなわち、この世界の「輝き」が人を生かしている。
人を恨んでばかりいたら、心を病んでしまう。
まあ、歴史について考えることは、健康で自然な心とは何かと問うことだ。だからわれわれの思考と想像力は、文明国家の発祥以前の時代までさかのぼってゆく必要があるし、さかのぼることができないものたちにわかったようなことをいわれても「なんだかなあ」と思ってしまう。