民衆は洗脳されない、民衆が権力者を洗脳する・神道と天皇(150)

高級官僚の仕事だろうと下層の庶民のとるに足らない仕事だろうと、ひとまず公の仕事は文明国家のルールの上に成り立っている。しかし民衆社会のプライベートな人付き合いはまた別の関係性がはたらいており、そこでは社会的なルールよりも人情の機微が優先される。たとえば人妻が亭主以外の男に惚れることがないとはいえないし、夫であれ妻であれ、浮気が許されることも多い。
民衆社会の基礎は、人情の交わりにある。公の社会では人は裁かれるが、民衆社会では許すことが美徳になっていたりもする。
この国ではとくに、国家権力によってコントロールされている社会と民衆社会の集団性の文化との乖離が大きい。だから世界中どこでも先進国の国家権力はつねに民衆の意識の動向を気にしているし、とくにこの国の民衆は、たとえ国家支配に従順でも、けっして洗脳されはしない。
たとえば、この国ほど無防備に外来語を受け入れている国もないだろうが、そっくりそのまま受け入れるのではなく、平気で和製英語をつくってしまう。漢字だって、勝手な自分たち流の漢字熟語をいくらでもつくってきたし、「仏(ブツ)」を「ほとけ」と読んだり「神(ジン)」を「かみ」と読んだりするのも、まるごと洗脳されていないからできることだろう。
「マイペース」は和製英語だが、この意味は「わがまま」というのとはちょっと違う。「かんたんには洗脳されない」ということだ。日本列島では、たがいの「マイペース」を守りながら「連携」してゆく。「マイペース」のタッチを持っていないから集団幻想に洗脳されて「集団暴動」を起こしてしまう。革命というのはそういうもので、「マイペース」のタッチを持っている日本列島では起きにくい。
明治以来の帝国主義のもとでは集団ヒステリーとしての暴動や戦争がよく起きたが、現在の国家制度のもとでは起きにくい。
西郷どん西南戦争だってひとつの暴動であり、あのころは全国で大小のそうした暴動が頻発していた。
全共闘運動は西南戦争のようなことを起こしたかったのだろうが、けっきょく起きなかった。ほとんどの民衆は、革命なんか信じていなかった。
明治維新から敗戦までは、日本列島の歴史においては特殊な時代だったのかもしれない。
日本列島の民衆は、伝統的に「マイペース」のタッチをを持っている。仏教伝来のとき以来、権力社会はつねに民衆を洗脳しようとするが、そうかんたんには洗脳されない。
ただ現在は、ネトウヨをはじめとして、かんたんに洗脳されてしまうオカルト的な右翼も増えてきている。

このところ安倍政権の不始末がたくさん噴出してきて反対の市民運動も盛んになってきているが、それでも選挙をすれば自民党が勝ってしまうらしい。
だからといって民衆が保守化右傾化しているというわけでもなく、大多数は国の政治なんか右でも左でもどちらでもいいという気分がある。ほんとうはそれではいけないのだろうが、そういう精神風土の伝統なのだから仕方がない。
どこの国でも民衆というのは権力に対して無防備なところがあるわけで、そうやって明治以来の帝国主義に染められた歴史を歩んできてしまった。
関東大震災のときに民衆が暴動を起こしてたくさんの在日朝鮮人を虐殺してしまった。こんなことが日本列島の民衆の集団性の伝統だろうか。そうではあるまい。無主・無縁で他愛なくときめき合う神道の集団性は、いったいどこに行ってしまったのか。そのあげくに、太平洋戦争の最後のころには、英語の使用を廃止するというようなわけのわからない事態にもなっていった。慰安婦問題にしろ、まあ戦前回帰が大事だというのなら、これらのことををぜんぶ肯定してみせなければならないし、右傾化が進めばきっと肯定されるのだろう。彼らは、他者を裁いて憎めと扇動してくる。であれば、慰安婦問題はなかった、などといういじましいことはいうな。ぜんぶ肯定してみせろ。そして、それでもそれは正しかったのだと居直ってみせろ。そうやってみずからの差別を正当化してゆくのが、あなたたちの思考ではないか。
ともあれ現在のこの国には外来語が氾濫し、和製英語も次々生まれてきているし、日本人を好きになる外国人も増えてきている。
日本列島の民衆の集団性の伝統というかダイナミズムは、無主・無縁で他愛なくときめき合う人情の交わりを基礎にして成り立っている。その伝統は、現在の大人たちよりも若者たちに色濃くあらわれている。
誰だって人情の交わりが豊かな社会であることを願っている。というか、そういう人の方が多いのが人の世のつねというものだろう。たとえ何千年何万年かかろうと、人類の歴史はけっきょくそういう方向に向かって動いてゆくのではないだろうか。

世界中どこにでも権力社会と別の民衆だけの集団性の文化がある。その乖離を埋めるものとして宗教が機能しているわけだが、日本列島の民衆の宗教意識は薄い。だから日本列島の民衆はそうかんたんに権力社会から洗脳されない。大人と若者や子供という世代間でも、洗脳されない関係性を持っている。
日本列島は、民衆が民衆だけの集団性や美意識の文化守るための、そして若者や子供が若者や子供だけの文化を守るための世界のトップランナーになりえている。日本列島を訪れた多くの観光客がそれに気づくし、「かわいい」の文化が世界中の若者や子供を魅了している。
文明制度というか権力社会に洗脳されなければ、世界中どこでも、人を裁くのではなく「無主・無縁」の他愛なくときめき合う民衆だけの関係性・集団性の文化を心の底に持っているのだし、しかし現在のこの国の右翼とはそういう文化を共有することができない。
彼らは、何を気取って、正義・正論を振り回して人や世の中を裁くことばかりしているのだろう。彼らもまた、けっきょくは全共闘運動と同じように、民衆の支持は得られないのではないだろうか。
左翼であれ右翼であれ、政治オタクの正義・正論が民衆に支持されることはない。
民衆社会は、国家の制度を支えている正義・正論ではなく、もっとやわらかくあいまいな人情の機微で動いている。昔も今も、権力社会ではいつだってそのことを気にし、おそれている、
だから今どきの右翼だって、慰安婦問題はなかった、というようないじましいことをいわねばならなくなる。あなたたちは、関東大震災のときに在日朝鮮人を大量虐殺した群衆の末裔ではないか。堂々と正当化してみせろ。
ともあれ、日本列島の民衆であるかぎり、そんなことはできない。それはもう、歴史の運命として、深く嘆きかなしむ以外にすべはない。

西部邁氏は、「自分の人生は自分で始末をつける(=自裁する)のが人としての誇りと自由だ」というようなことを語っていたが、「誇り」などという言葉を持ち出してくること自体がおおいにうさんくさい。彼の思想は大衆批判の上に成り立っていたわけで、それはつまり権力社会の文化に毒されていたことを意味する。自裁することは、自分で自分を裁くことだ。つまり、そうやって自分の中に「神との関係」を持っていたということだ。誇りとか正義・正論を振りかざすのは、ひとつの宗教にほかならない。
自分を忘れて世界の輝きにときめいていれば、自分で自分を裁く(=自裁する)というような自己撞着の発想は生まれてこない。カッコつけて死んでいった西部氏も三島由紀夫も、「ときめく」ということを知らなすぎる。
民衆にとっての死は、誇りや自由のもとにあるのではなく、自分ではどうにもならないひとつの「運命」なのだ。
現在のこの国の医療は、生きる能力を失った老人をいつまでもぐずぐず生かしておいて、死を選ぶ権利とか自由というようなことが一般化していない。それは、死んでゆくものと生き残るものとのただの「未練」というようなことではなく、死には自由も権利もないという生命観であり、そうやってひたすら自己を放下して「運命」を受け入れてゆこうとすることこそこの国の「伝統」なのだ。この生命観は、西部氏や三島由紀夫のそれとはみごとに逆立している。
現在の日本列島の民衆は、けっして右翼に洗脳されていない。
仏教には最後の修業としてみずから死んでゆく「即身仏」というような習わしがあったりするが、民衆の精神風土としての神道にそういう作為はないし、きわめて日本的な仏教である浄土真宗では、「死んだら極楽浄土に行けるなどということは思うな、そんなことはすべて阿弥陀如来におまかせせよ」というような教えになっている。
絶対的な受動性……そんな、民衆社会における命に対する深い洞察があったから仏教に対するカウンターカルチャーとしての神道が生まれてきたのであり、そうやって宗教意識が薄い歴史を歩んできたのだ。ただ意味もなく神道が生まれてきたということなどありえない。その自覚は、西部氏や三島由紀夫の自己撞着の思想よりもはるかに深く高い次元の生命観の上に成り立っている。彼らのええかっこしいで短絡的な生命観は、ほんとに幼稚だ。
「終活」がどうとかといろいろいわれているが、死ぬことには自由も権利もないという生命観にこそ日本人の死に対する親密な感慨が宿っている。まあ自殺してもかまわないのだけれど、いつも「死にたい、死にたい」といいながら生きている人もいるわけで、そこにこそ日本列島の伝統がある。

死にたいけど、それでも世界は輝いている、ということ。そして、死にそうな人こそこの世でもっとも輝いている、という視線の文化が日本列島にはあるのだし、じつは原初以来の人類の歴史そのものがそうやって介護の技術を進化発展させてきたのだ。
日本列島では、自分で生きることができなくなったら自殺する、というような伝統はない。それでも世界は輝いているのだし、そのときにこそ世界はもっとも輝いて立ちあらわれてくる。
民衆から搾取することの上に成り立った文明国家は、たとえば古代の専制国家のように、死者も自分で生きることができないものもひとつの「けがれ」としてさっさと始末してしまうのが基本的な思想であるのだが、それでも人類の歴史は社会保障の制度を少しずつでも発展させてきた。それは、権力社会が民衆文化にじわじわ侵食されてきた、ということを意味している。
今どきの右翼の思想は、はたして民衆文化の伝統を反映しているだろうか。それができない政治思想に未来はないし、右翼こそ伝統のなんたるかをわかっていない。そしてそれは天皇がいけないということではない。ここでは、彼らこそ天皇という存在のなんたるかをわかっていないということを考えたいのだ。
あえていってしまうなら、僕はこの国の伝統も天皇も否定ないが、今どきの右翼のいうことやすることはどうしてあんなにも愚劣なのだろうという思いがある。
また、左翼が衰退していったのは、伝統を否定しながら西洋近代思想にかぶれていったところから戦後の歴史を歩みはじめたからにちがいない。ともあれそれはひとまず成功し、その潮流はバブル経済真っ盛りのころの「ニュー・アカ・ブーム」で極まり、バブル崩壊とともに衰退がはじまった。そうしてそれと入れ替わるように、伝統回帰や戦前回帰を旗印にした右翼勢力が台頭してきて現在にいたっている。
伝統回帰はたぶん若者全体の気分で、それとともに「かわいい」の文化が盛り上がってきたのだろうが、いい年した大人たちから安っぽい戦前回帰のようなことをいわれると、その自意識過剰の浅はかさに対してどうしても違和感が募る。
西部邁三島由紀夫のいうことだって、ぜんぜん底が浅い。
何が「日本人としての誇り」か、何が「ますらおぶり」か、何が「武士道」か。日本列島の歴史をはじまりのところまで遡って考えれば、そういうことはどうでもいいのだ。
とはいえこんなところで日本人はなぜ神社が好きで天皇を祀り上げるのかということをほそぼそと考えていても世の中のなんの役にも立たないのだろうが、やっぱりどうしても気になる。