都市の起源(その二)・ネアンデルタール人論153

考古学の発掘証拠によれば、1万年くらい前のトルコ南東部(チグリス・ユーフラテス川の上流域)には、すでに数千人から1万人近い規模の大きな集落がいくつかあったらしい。これがまあ、本格的な「都市の起源」だろうか。
その中のひとつであるギョベクリ・テペの遺跡には、高さ5メートル前後の石柱を丸く並べた神殿のような建造物があり、「宗教」によって成り立った集団だったともいわれている。
しかし人類の歴史は宗教を知らない段階があったわけで、そのときはただもう人が集まってきてお祭り騒ぎをしていただけだった。はじめに「祭り」があった。そこから宗教が生まれてきたとしても、宗教が祭りを生み出したのではない。
そこは、この国の纏向遺跡と同じように住居跡がほとんど見つかっていない。つまり、周囲の集落からそこに人が集まってきていたのだ。
神に祈るためか?
そうじゃないかもしれない。最初はお祭り騒ぎをやらかすためだけの場所だったのかもしれない。
その石柱には動物や鳥などのレリーフが施されているのだが、狩りの獲物である草食動物ではなく、ほとんどがライオンとかヘビとか鳥とかの「非日常」的な対象になっている。そういう生きものを「神」としたのか?まあそれらに対する畏れや憧れはあっただろうが、文明人が考えるような「神」あるいは「神の使い」だと決めつけることはできない。
祭りの「非日常性」は、宗教以前の問題なのだ。この生のいたたまれなさから解き放たれて「非日常」の世界に超出してゆく……人の心はそうやって華やぎときめいてゆくのであり、そういうカタルシス(浄化作用)の体験のよりどころとしてそのような非日常的な生きものがレリーフのモチーフになっていたのかもしれない。それはもう、宗教や呪術などという「観念」の問題ではなく、人間性の自然としての「無意識」の問題なのだ。
宗教や呪術とは無縁のただの祭り……祭りこそ人間的な生態の基礎であり、原初の人類が二本の足で立ち上がったことも、そのあと地球の隅々まで拡散していったことも、ひとつの「祭り」だったのだ。


原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって猿よりも弱い猿になった。それは、とても不安定なうえに、胸・腹・性器等の急所を外にさらして、攻撃されたらひとたまりもない姿勢だった。それでも立ち上がったのは、密集した群れの中で行動するときにたがいの身体をぶつけ合わないですむためにはそうするしかなかったし、気がついたらいつの間にか誰もが二本の足で立ち上がっていた。そこはライバルのいないサバンナの中の孤立した森だったから、まあそれでもよかった。そうやって「生きられない猿」として生きはじめたわけだが、それは、この生の外の「非日常」の世界に超出してゆく体験だった。つまり彼らにとって二本の足で立ち上がることは、そういう「お祭り」だった。
人類の歴史は、「お祭り」としてはじまった。
「祭り」の醍醐味の本質は、この生の外の「非日常」の世界に超出してゆくことのカタルシス(浄化作用)にある。
人は、人間性の基礎として、この生の外の「非日常」の世界に対する「遠い憧れ」を抱いている。その「遠い憧れ」とともに地球の隅々まで拡散していった。それは、食料獲得のためとか住みよい土地を求めてとか、そんな生き延びるための歴史だったのではない。「もう死んでもいい」という勢いでお祭り騒ぎを繰り返していっただけなのだ。
つまりその石柱のレリーフは、おそらく、彼らの無意識としての「非日常の世界に対する遠い憧れ」が反映されているのだ。
起源としての「祭り」のコンセプトは、生き延びるための「実利」を求めることにあったのではない、「もう死んでもいい」という勢いでこの生の外の「非日常」の世界に超出してゆくカタルシス(浄化作用)を体験することにあった。そうして文化の発展の歴史とともに、やがてその体験のよりどころになるモニュメントをつくろうとしたり場所を選んだりするようになっていった。
こんなことをいっても世の歴史家がうなずくはずはないのだが、おそらくその遺跡の人々は、宗教や呪術など知らなかった。知らなくても、「祭り」というカタルシス(浄化作用)の体験のよりどころとして「聖なるモニュメント」や「聖なる場所」は必要としたのだ。彼らは彼らなりに生きてあることに対する切実な思いはあったはずだし、生き延びたくても生き延びることができない生を生きていたのであれば、ある意味でわれわれ文明人よりももっと純粋で切実な思いがあったのだ。
まあ現在の祭りだって、もっとも純粋で本質的な部分は、たとえば諏訪の「御柱祭」や岸和田の「だんじり祭り」のように「もう死んでもいい」という勢いでこの生の外の「非日常」の世界に超出してゆくカタルシス(浄化作用)にあるのであって、五穀豊穣とか国家安泰とかというような、この生やこの世界の秩序と安定を祈願するという宗教的呪術的なコンセプトなど二次的なことにすぎない。古代のローマ人は、祭りの見世物として屈強な奴隷とライオンを戦わせたりしていたそうだが、それだってそういう「もう死んでもいい」という勢いのカタルシス(浄化作用)をそこに仮託していたのだろう。
祭りにおける宗教的呪術的なコンセプトは、あとの時代になって二次的に生まれてきたにすぎないのであって、そこに祭りの本質や起源があるのではない。
とにかくその時代は、農業がまだ始まっていない歴史段階なのだから、とうぜん五穀豊穣を祈ったわけでもないし、狩りの収穫を祈ったのでもない。
そしてそこには墓石や埋葬地も見つかっていないのだから、「祖先崇拝」のための宗教施設だったという推測も成り立たない。
その石柱を丸く並べた祭殿というか神殿のような場所は、地表より一段低くなっており、もしかしたら古代ローマの円形劇場(コロッセオ)のようなものだったのかもしれない。祭りには見世物がつきものだ。
ともあれ先史時代は「宗教的な祈り」のためではなく「祭りの賑わい」に誘われて人が集まってきたのだし、昔も今も、人にとってはその方がずっと切実な生きてあることを支える体験になっている。
この史跡を発見した研究者は、当然のように「宗教的な場所だった」と考えているらしいのだが、そうやって安直に「はじめに宗教(アニミズム)ありき」で片付けられては困る。
祭りの本質は、この生やこの世界の安定と秩序を願うことにあるのではない。人の世は、そんなことを願って人が集まってくるのではない。この生のいたたまれなさすなわち「けがれ」がそそがれる「みそぎ=カタルシス(浄化作用)」の体験に引き寄せられて集まってくるのだ。


つまり、なぜ都市に人が集まってくるかといえば、都市とは本質において、「混沌」の場所であり、「非日常」の場所であり、より豊かに「祭り」が生成している場所だからだ。
人は、根源・自然において、「生きられなさ」という「混沌」を生きようとする。心はそこから華やぎときめいてゆく。不安定な心だから、「動き」という「華やぎ」が起きる。そうやって原初の人類は二本の足で立ち上がり、地球の隅々まで拡散していった。そうやって安定と秩序に倦んだ村人は、都市の混沌を目指して旅立ってゆく。安定と秩序の中にいたら、心は停滞・衰弱してゆくだけだ。
都市は旅の終着点であり、そこにこの生の安定と秩序があるからではなく、「もう死んでもいい」という勢いで心が華やいでゆくカタルシス(浄化作用)があるからだ。
山のあなた」に「幸せ」なんかないのだ。しかし、その「幸せなんかない」というところで心は華やぎときめいてゆく。そうやって人類は、二本の足で立ち上がり、地球の隅々まで拡散していった。
都市住民は、生と死の狭間で生きている。二本の足で立っている存在であるわれわれ人間は、「もう死んでもいい」という勢いを持たなければ生きられない。心は、「もう死んでもいい」という勢いで「世界の輝き」にときめいてゆく。
宗教が「神」という概念とともにこの生やこの世界の安定と秩序を説くものであるのなら、宗教によって都市が生まれてきたということは論理的にありえない。たとえ都市の混沌が宗教を生み出したとしても、それは都市が生まれてきたことの「結果」であって「原因」ではない。
人は、「生きられなさ」の混沌を生きようとする。それがどれほど生きにくい生のかたちであるとしても、「安定と秩序」に転んでしまったらおしまいなのだ。心はそこから停滞・衰弱し、病んでゆく。
われわれは、病んでしまいそうな心を抱えながら、それでも「生きられなさ」という混沌を生きようとしている。