都市の起源(その十三)・ネアンデルタール人論164

その十三・もう死んでもいい

人類史の「都市」は「祭りの賑わい」から生まれてきた。集団の中の日常生活の鬱陶しさから解き放たれる「非日常の賑わい」の中で「都市という集団」になっていった。
イタリアには「ナポリを見て死ね」などという諺があるらしいが、都市とは人が「終(つい)の棲家」としてたどり着いた土地のことであり、そうやって氷河期明けの1万年前ころから大集団の定住生活が本格化してきた。そうして、定住生活をすることによって、農業を覚えていった。
誰もが「終の棲家」と思い定めていったから、「都市」という大集団になったのだ。
そのとき人々は、「ここが終の棲家だ」と思い定めると同時に、大集団で定住生活をすることの鬱陶しさに耐えることもしなければならなかった。
原始時代の集団は、つねに離合集散を繰り返していた。まあ、そうやって人類は地球の隅々まで拡散していったのであり、彼らはみな旅人だった。であれば、その大集団での定住生活が鬱陶しくないはずがない。耐えることができたのは、その日常の鬱陶しさから解き放たれる「非日常」の「祭りの賑わい」が生成している場所でもあったからだ。
「祭りの賑わい」とともに人が集まってきて、「祭りの賑わい」とともにその大集団の定住生活が実現していった。
彼らは、「もう死んでもいい」という無意識の勢いで旅に出て、たどり着いたその場所では、ほんとに「ここでもう死んでもいい」という感慨に浸されていった。
「都市」での暮らしは、「もう死んでもいい」という勢いの「祭りの賑わい=ときめき」がなければ成り立たない。「祭り」の場所として都市が出来上がっていったのだ。
起源としての都市は、生活の場所だったのではない。あちこちから人が集まってきて生まれる「祭りの広場」にすぎなかったのであり、祭りが終われば、人々はまたもとのところに帰っていった。そんなことの繰り返しの果てに、都市という大集団の定住生活が生まれてきたのではないだろうか。
そこは、生き延びるための場所ではなかった。「もうここで死んでもいい」という感慨が共有されている場所だった。そこでは誰もが「生きられない弱いもの」になっており、誰もが「生きられない他者」を生かそうとしていた。そういう「連携」のダイナミズムを生み出しながら定住生活をしていった。
つまり、「離合集散」を繰り返しながら定住生活が生まれてきた、ということだ。そうやって帰ってゆくふだんの生活の場所がだんだん「祭りの広場」に近くなってきて、「祭りの広場」に出かける頻度が増え、人数も増えてゆけば、結果として「祭りの広場」の近くに大きな集落が生まれてくる。みんなが「祭りの広場」の近くに住み着いてゆく。
現在の一般的な歴史認識においては、都市は「衣食住」のことを目的にして生まれてきたということになっているのだが、そうではなく、「祭りの賑わい」に引き寄せられながら都市になっていったのではないだろうか。すなわちその現象は、「生き延びる」目的によってではなく、「もう死んでもいい」という勢いによって生まれてきたのだ。
戦後の東京が爆発的に人口を増やしていったことだって、ようするにそういうことだ。人との「出会いのときめき」がなければ都市が生まれてくるはずなんかないし、人は「もう死んでもいい」という勢いでときめいてゆくのだ。
生き延びようとする自意識によってではなく、自分を忘れてときめいてゆくということ。そこにこそ人間性の自然があるのではないだろうか。


人が集まってきて都市になる。起源としての都市は、祭りの広場だった。
原始時代の人類拡散は、新しい土地にどこからともなく人が集まってきてときめき合いながら「祭りの賑わい」が生まれ、そこに新しい集団が形成されてゆく、ということの果てしない繰り返しとして起こってきた。
この国で小さな集落ばかりだった縄文時代から弥生時代に移ってゆくことによってあちこちに大きな都市集落が生まれてきたのも、まあそうやってどこからともなく人が集まってきて「祭りの賑わい」がよりダイナミックに起きてきたからだ。
弥生時代はじめの奈良盆地はほとんどが湿地帯で、人口密度は極めて低かった。人々は、まわりの山間地で暮らしていた。それが、気候の寒冷乾燥化とともにしだいに水が干上がってくるとともに、山から下りてどんどん人が集まってきた。
そこは、きらきら光る水面が、たおやかな姿をした山なみに囲まれて広がっていた。そこにやってきた旅人は、その美しい景観をながめながら「ここでもう死んでもいい」という旅の終わりの感慨を抱いた。彼らは、その感慨を共有し他愛なくときめき合いながら、よりダイナミックな「祭りの賑わい」を生み出していった。
奈良盆地の古い集落は、小高い丘のような場所に身を寄せ合うように固まってつくられている。つまりそこは湿地帯の中の小さな浮島のような場所で、最初はそういう小集落があちこちに点在していたらしい。そうしてその小集落どうしが連携して干拓工事をしてゆくことによって、浮島と浮島がつながり、広い平地になっていった。
彼らは、小集落どうしの連携が生まれてくるような、「祭りの広場」を持っていた。というか、まずはじめにひとつの「祭りの広場」が生まれ、そのあとから近くの浮島に集落をつくるようになっていったのだ。
最初は、まわりの山間地からその「祭りの広場」に集まってきていた。なぜなら山間地には、狩りの獲物がいるし、主食である木の実も豊富に採集できた。それに対してその浮島には、そんな豊かな食料資源はなかった。それでも彼らは、毎日浮かれ騒いでいたくて、近くの浮島に住み着いていった。
衣食住のためなんかではない。都市は、そういういいかげんな契機から生まれてきたのだ。
その「祭りの広場」は、「市(いち)=市場」でもあった。そこには土器や装身具などの工房が並び、山の民が持ってきた食糧と交換したりしていた。そうしてその「祭りの賑わい」が盛り上がるにつれて、日本中から人を引き寄せるようになってゆき、いろんなものが持ち込まれるようになっていった。鉄器から噂話まで、それこそ日本中のいろんな目新しいものがそこに集まってきて、さらに「祭りの賑わい」が盛り上がっていった。
奈良盆地で湿地帯を平地に変えてしまうような干拓工事や水田農耕が発達したのは、早くから鉄器を使っていたことに負うところも大きいのだろうが、奈良盆地で製鉄をしていたという考古学の証拠はない。つまりそれらは、そのころ製鉄の中心地であった出雲などからやってきた旅人によって「持ち込まれていた」のだ。
弥生時代奈良盆地は、いわば「祭りの聖地」であり、日本中から人が集まってくる土地だった。そのころの奈良盆地の人々は、旅人からの情報として、日本中のことを知っていた。そういう伝統からその数百年後に「古事記」という日本中を舞台にした物語が生まれてきた。
邪馬台国の遺跡だろうといわれている奈良盆地纏向遺跡だって、集落跡は発見されていない。たんなる「祭りの広場だったのだ。それは弥生時代晩期のものだから、そのときはすでに多くの人が奈良盆地に住んでいたのだろうが、おそらく住居の集落は纏向遺跡のまわりにあった。
はじめに「祭りの広場」があった。「祭りの広場」が「都市」をつくった。「都市」が「祭りの広場」をつくったのではない。おそらくこれはもう、人類普遍の歴史なのだ。
西洋の都市は、必ず中心に「広場」がある。それは、まずはじめに「広場」に人が集まってくるということが起き、そのあとからまわりに住居がつくられていった、ということを意味する。都市ができてしまったあとから中心に「広場」をつくることなんか不可能だ。


直立二足歩行の開始以来の人類の歴史は「祭りの賑わい」とともに推移してきたのであって、戦争や権力争いの歴史だったのではない。人と人の関係の根源・自然は「他愛なくときめき合う」ことにあるのであって、憎んだり恨んだり支配し合ったりすることは文明の歴史とともに顕在化してきた関係にすぎない。
今どきは、人の心の底の恨みや憎しみのことを「原始的な感情」だと解釈されることも多いが、それは文明的な共同体の制度性から生まれてくる心の動きにすぎない。権力者たちに芽生えたそういう心の動きがしだいに民衆のところまで下りていったのが、現在に至る文明の歴史だった。そりゃあ民衆だって、支配されてばかりいたら、自分たちもまた支配し合って憎み合ったり恨み合ったりする関係になってゆく。まあ文明社会は、避けがたくそのような人と人の関係を生み出してしまう構造を持っている。
古代の権力者たちは、民衆の祭りの賑わいを眺めながら「あいつらはけものみたいに節操なく浮かれ騒いでばかりいやがる」と思っていて、そんな混沌とした心模様の民衆を支配するための「規範=制度」として仏教が輸入されていった。そして民衆は、権力者たちのことを「あの連中は恨んだり憎んだり殺し合ったりということばかりしている」と思いながら眺めていた。そういう状況から仏教に代わるものとして神道が生まれてきたのであり、それは、民衆社会の伝統である「祭りの賑わい」を守り育てるためのものだった。
今だってそうした「祭りの賑わい」としてコンサートやスポーツ観戦等の娯楽のイベントが催されているのであり、まあ学問や芸術や色恋だってひとつの「祭りの賑わい」なのだ。


「祭りの賑わい」に引き寄せられて人々が集まってきて都市になる。言い換えれば、「祭りの賑わい=ときめき」を体験できない都市住民の心はどんどん病んでゆく。集団の「安定と秩序」が大事だ、などといっていたら、心はどんどん病んでゆく。共同体という集団であれ、家族という集団であれ、「祭りの賑わい=ときめき」の上に成り立っているのであって、人の心は「安定と秩序」を求めた瞬間から痩せ細ってゆく。
「安定と秩序」のためには奴隷制度が必要なのだ。そういう鬱陶しい仕事は奴隷にやらせるしかない。そうやって現在の多くのサラリーマンが「社畜」にさせられている。「社畜」の心になってしまっている。
心が「安定と秩序」の奴隷になってしまっているから、家庭内暴力やセクハラやパワハラやいじめが起きる。「安定と秩序」を欲しがるなんて自閉症なのだ。心に「祭りの賑わい=ときめき」がないから「安定と秩序」を欲しがらないといけないのだし、「安定と秩序」がないと生きてゆけないから、「安定と秩序」という正義を振りかざして他人を奴隷にしようとする。権力者は国民を、上司は部下を、教師は生徒を、親は子供を、「安定と秩序」の奴隷にしようとする。マスコミお抱えの知識人たちだって、読者をそのように扇動しまくっている。
現在のこの社会は、人間をみな「安定と秩序」の奴隷にしてしまいそうな危うさを構造的に抱えてしまっている。そうやって心はどんどん「祭りの賑わい=ときめき」がなくなってゆく。彼らの心は、すでに「神」の奴隷になってしまっている。心の中に、この生やこの世界の安定と秩序をもたらす「神」を持ってしまっている。そうして平気で他人を奴隷にしかかる。おまえも「神の奴隷」になれと要求してくる。「安定と秩序」を求めることがコンセプトの共同体の制度性が、そういう人間をつくる、そんな人間が都市にはびこると、都市はますます生きにくい場所になってゆく。
ともあれ都市住民だろうと村人だろうと、人は「安定と秩序」から解き放たれる「祭りの賑わい=ときめき」を体験しないと生きられない。心が病んでゆく。
人類史の起源としての「都市」は、宗教から生まれてきたのではない。人と人が他愛なくときめき合う「祭りの賑わい」に引き寄せられて「都市」になっていっただけのこと。
都市は「祭りの賑わい」が生まれる「混沌」の場所であるが、その「混沌=生きられなさ」ゆえに「安定と秩序」を目指す思想がはびこる場所でもある。そうやって共同体(国家)が生まれ、宗教や呪術が生まれてきた。
現代社会にはびころスピリチュアルやカルト宗教のことを考えれば、現代人が宗教や呪術とは無縁だとどうしていえよう。その、この生やこの世界の「秩序と安定」に対する希求は、原始時代のものではなく、現代社会においてますます隆盛になってきている観念のはたらきなのだ。
現代の都市は、「安定と秩序を求める宗教や呪術」と、そこから解き放たれる「祭りの賑わいの混沌」の両方が生成している。「安定と秩序」の奴隷になることを要求してくる鬱陶しい空間だからこそ、そこから解き放たれる「祭りの賑わいの混沌」もダイナミックに生まれてくる。現在のこの国の情況でいえば、大人たちはすでに「安定と秩序の奴隷」になってしまっており、そこからの圧力を受けながら若者たちによる「混沌」の美意識を基礎にした「かわいい=ジャパンクール」のムーブメントも豊かに起きてきている。そしてそれと同時に、その圧力ゆえに「ひきこもり」をはじめとする生きられない愚かで弱い若者たちも少なからずあらわれてきている。それもまたひとつの「都市的混沌」であり、まあ「かわいい=ジャパンクール」は「生きられない愚かで弱い若者たち」の文化だともいえる。
生き延びようとあくせくしている今どきの大人たちよりも、若者たちのほうがずっと「もう死んでもいい」という勢いを持っている。まあ、青春とは生と死のはざまに立たされることだ、ともいえるわけで。