閑話休題・ポイ捨て雑感

戦後の「モク拾い」という商売は、いったいいつごろまであったのだろうか。道端に落ちている吸殻を拾い集め、それをぜんぶほぐして、また一本ずつの新しい煙草に再生して売る、という商売です。
戦後の一時期は、それほどに煙草が貴重品だった。
僕が5・6歳のころ、事業に失敗して金もなく暇を持て余していた父親は、自分の吸った煙草をやっぱりいったんぜんぶほぐし、ちり紙の切れ端で一本ずつの煙草に再生して吸っていたそうです。
そして父はもともと手先の器用な人だったから、その再生の仕上がりがあまりにみごとで、母親は惚れなおしてしまったといっていました。
戦時中や戦争直後は、誰もがそうやって煙草を吸っていたのかもしれない。
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僕がタバコを覚えた高校生のころはもう、さすがに再生品の煙草が流通しているという話は聞かなかったが、モク拾いのホームレスはまだたくさんいました。
大学のころは、そういう人が近くにいるときは、なるべく長めの吸いさしをその人の前にポイと捨てて通り過ぎるのが、なんとなくの「たしなみ」であるかのような状況がありました。
それはたぶん、僕にとっては、大人の男になるための通過儀礼のような行為だった。
たまに相手が気づいて、顔を見合わせ、おたがいにやっと笑ったりすることもありました。
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煙草とは関係ないことですが、中学のころに家族旅行をして旅館に泊まって食事をしたとき、出された料理の一品だけは箸をつけないで残しておけ、と母親から教えられました。それが仲居さんの夕食のおかずになるからだそうです。
まあそういう時代だったわけですが、母はいちばん豪華な皿を残し、僕はいじましく卵豆腐か何かを残したような記憶があります。
こういうことは、エチケット、というのとはちょっと違う。民俗社会の「まれびと信仰」の問題だと思います。「異人」との関係、ですね。
おめえら、知らないだろう。
煙草のポイ捨てはやめましょう、という現代社会のエチケットのほうが高級なのですかね。