「まれびと信仰」は、日本的なセックスアピールの問題でもある・2

近世になると、遊行者や巡礼の風俗も乱れて来る。ただの物見遊山のくせに遊行者や巡礼のふりをして民家に泊めてもらおうとする者や、宗教者じしんも信仰そっちのけで商売気をあらわにする者も出てきた。しかし、そうした不心得者が出てくるということは、民俗社会の人々の中にまだまだ「まれびと信仰」が残っていたことを意味する。残っていたから、そこに付け込もうとする者が出てくる。
また、そうした風俗の乱れは、まず町にあらわれ、どこまで村の中にも浸透していたかはわからない。貧しい村では商売にならないし、警戒心も強い。町はますます町らしくみだらになり、村はさらに村らしくかたくなになっていったのかもしれない。
そのころ、「高野聖に宿貸すな、娘とられて恥をかく」という俗言があったそうです。「悪霊論」の小松和彦氏は、それを、「民族社会の異人に対する恐怖心と排除の思想」がよりあらわなってきたことの証で、そこから「異人殺し」の衝動も強くなってきた、といっています。
しかしそれは、高野聖のたちが悪くなったというだけでなく、よそ者と恋をしたい、抱かれてみたい、という娘の好奇心の問題でもあります。人々は、高野聖に宿を貸してやっていた。高野聖にたいする「まれびと信仰」は、いぜんとして残っていた。しかし、町そのものがみだらになってきていた。
それは、「まれびと信仰」が希薄になってきたことを意味しているのではない。「娘とられて恥をかく」くらい高野聖との関係が親密になってきたからだ。人々の意識に「異人に対する恐怖心と排除の思想」があったら、娘が荒野聖に興味を持つわけないじゃないですか。それとも、高野聖は強姦魔だった、といいたいのですか。近世になると、貨幣経済の発達と道路網の整備が進んで、異人との交流も活発になり、より親密になってきた。
旅に疲れた男のけだるい旅の話は、狭い世界に住むまわりの男たちの無理な自慢話より、そりゃあ誘惑的でしょう。
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「異人論」の小松和彦氏にしろ、「異人論序説」の赤坂憲雄氏にしろ、「民俗社会の人々の根底にある心性は、共同体の『秩序』を守ろうとすることにある」という認識の上に分析を進めています。
民俗社会の人々にとって、「共同体の秩序」は、そんなに大切なものか。「共同体の秩序」は、支配者がつくっているものであって、民俗社会の人びとがみずから積極的につくっているのではない。民俗社会の人々は、それを受け入れているだけです。
したがって、共同体の秩序をつくろうとする衝動によって民俗社会の心性を語ることは、正確ではない。民俗社会の人々は、いつだってその息苦しさから逃れようとしているのだ。
お父さんが、会社帰りの居酒屋でビールを引っ掛けるように、日本中のいたるところに歓楽街やラブホテルがあるように、人々は社会秩序からの解放を求めて風俗や文化をつくり出すのだ。
もちろん民話だってそういうところから生まれてきたのだし、人々の「異人」にたいする視線はそこにおいて分析議論されるべきであろうと思えます。
「異人」を共同体から排除するのは、支配者であって、民俗社会の人々ではない。民俗社会の人々は、支配(=共同体の秩序)を受け入れる心性においてときに「異人」を差別するが、支配(=共同体の秩序)から逃れようとする心性において、「異人」を歓待する。
民俗社会において、支配(=共同体の秩序)にたいする鬱陶しさがあるかぎり、「異人」を「差別」をしても「排除」はしない。
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「異人」は、民俗社会の人々から「排除」されたのではなく、みずから「出て行った」存在です。そうして、次の村が、「出てきた」人として歓待する。そのとき「出てきた」人の「やつれ」と「セックスアピール」が、民俗社会の人々を祝福している。
日本列島の文化における「セックスアピール(色気)」は、「共同体の秩序」からずれていることの「やつれ」にある。
いや、外国映画にだって、たとえば上流階級の夫人や美しい娘が犯罪者などの共同体からの「逃亡者」に恋をするというパターンはよくある。ドストエフスキーの「白痴」という小説は、まさにこの問題を、人間存在の普遍性として扱っている。
人間の性衝動は観念的だとよくいわれるが、それは、社会秩序の中に投げ入れられてあることのストレスから逃れようとする衝動としてはたらいている部分が多いからでしょう。一個の生き物として、みずからの身体存在を確かめようとする衝動。秩序の息苦しさを感じていれば、どうしてもそういう衝動は起きてくる。意識しないでも、社会的な存在として置かれてあれば、そういうストレスは意識下に蓄積されてゆく。
そうして人間は、一年中発情している。
逆に、年をとってだんだん性衝動が減退してきたりEDになったりするのは、それだけ社会秩序になじんでゆくからでしょう。
それにたいして、秩序からの逃亡者がたぎらせているであろう性衝動は本格的であるにちがいない。「異人」は秩序から逃れ、民俗社会の人々はそれを夢見ている。その出会いにおいて「セックスアピール」が発生する。
共同体の秩序に閉じ込められることや支配されることの息苦しさ、それをどう処理していくかということは、人が人間社会で生きてゆくためのもっとも大きな問題のひとつであるはずです。そういうことを考えた場合、小松氏や赤坂氏のように、民俗社会のフォークロアを「秩序を維持するため」などという分析だけに収めてしまうわけにはいかないはずです。そんなものは、支配者の論理であって、支配されるがわである民族社会のそれではない。民族社会の人々は、秩序を「維持している」のではなく、「受け入れている」のだ。