「かちかち山」のカタルシス・3

僕は、正義の市民づらをした団塊世代が大嫌いです。団塊世代というより、戦後生まれの大人たち、というべきでしょうか。
人は、まっとうな市民であらねばならないのか。僕には、そんな能力はない。彼らは僕を責めるが、誰もがまっとうな市民であろうとすることによって、この社会の秩序が歪んでゆく。秩序をつくろうとすることは、秩序を歪ませることです。誰もがまっとうな市民であろうとするから、鬱病や老人ボケになり、生首少年みたいな事件も起きてくるし、世の中なんてうんざりだというニートやオタクの若者も生まれてくる。
歪んでいるものは、歪まない。なぜなら最初から歪んでいるのだもの。しかし、正しいものは、必ず歪んでゆく。誰も同じであり続けることはできない。正しいことは、歪んでゆく宿命を負っている。それが「自然」というものだ。
彼らは、自分はまっとうな人間であるという認識をけっして手離そうとしない。その自覚が、世の中の秩序を歪ませ、彼らじしんを醜く歪ませている。
自分のことをまっとうな人間(市民)であると思っているやつらなんて、うんざりするくらいグロテスクだ。
中世の歴史や民話の世界は、近代市民社会がどんなにグロテスクな社会であるかということを教えてくれる。それらは、社会がグロテスクになってゆく歴史のスタートラインで起きたことであり、生まれてきた話なのです。べつにあのころのほうがよかったとか、あのころに帰れとか、そういうことではない。
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昔々、三人の娘を持った爺がいて、つらい畑仕事に耐えかねて「この仕事を手伝ってくれる者がいたら、娘を嫁にくれてやるのに」とつぶやいた。するとそれを聞きつけた猿がやってきて、畑仕事をかたづけてやり、約束だから娘を嫁にくれと迫る。しょうがないから爺は、家に帰って娘たちにそれを頼んだところ、上の二人は頑としていやだといい、いちばん下の親思いの娘が、それを承知した。そして迎えにきた猿に、里帰りのときに餅を土産にしたいからといって重い臼を背負わせたあげく、途中の谷川のそばで、あの桜の枝を取って欲しいとせがむ。お安い御用と猿は桜の木に昇るが、背負った臼の重さのために枝が折れ、谷川に落ちて溺れ死んでしまう。で、娘は大喜びで家に帰り、爺とのもとの暮らしに戻った。めでたし、めでたし。
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「異人論」(ちくま学芸文庫)の著者である小松和彦氏は、この話の主題を、次のように分析してくれます。
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「定式1 爺とその分身たる末娘は、猿との間に労働力と末娘の交換をすることを装うことで、畑仕事を猿にさせたのち、末娘の知恵によって猿を殺して、反対給付としての末娘の嫁入(もしくは猿の住む世界への永住)を解消する。
これにそって、この『主題』をメタ言語へ〈翻訳〉すると、次のようになる。
定式2 『人間』は『異類』との等価交換を装うことで『異類』から『富』を獲得し、そののちは『人間』の『知恵』によって、この『異類』との関係を『反対給付』することなく断つことができる。
これ以上抽象化をおこなえば、『猿婿入り』という具体的な昔話テキストへの還路が失われてしまうおそれがある。したがって、この定式2の段階で本稿の事例分析は充分であろう。しかし『猿婿入り』への還路の不可能性をおそれずに、さらに抽象化を進めるとすれば、
定式3 『人間』は「異類」を利用して幸福になることができる。
という『主題』になるはずである。」
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学者ぶってかっこつけた書き方をしているが、この程度の分析なら、中学生でもできる。
たとえば「彼女は赤いワンピースを着ている」といい、そのブランド名がどうたらこうたらと言っているていどの分析です。彼女はなぜ赤いワンピースを着ているのか、というところまではぜんぜん踏み込めていない。
そんなことはおまえに教えてもらわなくてもわかっている、問題はその先なんだよ、と言いたくなってしまう。
この話は、猿という「商人」による正当を装った等価交換に対する村人の抵抗の物語です。
村人は、そうやって「商人」からいつも土地や労働力としての子供を巻き上げられていた。
たとえば中世の漁民は農民よりもっとひどい暮らしをしていたらしいが、中には、網元や廻船業者など、すでに「山椒太夫」顔負けの贅沢な暮らしをしている者(=商人)もいた。
網野善彦という有名な歴史学者は、そうした歴史資料を示しながら、中世の人々はわれわれが考えるよりも豊かな暮らしをしていた、というような発言をしています。しかし、だったら「一揆」なんか起きるはずがない。彼らが命をかけてそういう行動を起こしたのは、ただの気晴らしの遊びではなかったはずです。そのように恵まれた者が生まれてきたということは、そこから搾取されてさらに窮迫してゆく者たちが存在していた、ということを意味しているのだ。
「正当な等価交換」が富める者を増やし、そのぶんどんどん庶民を追いつめていったのが前近代の歴史です。その美名のもとに、ばか正直な庶民は、かしこい商人をはじめとする富裕な者たちからつぎつぎに土地や労働力としての子供を取り上げられていったのです。
だったら、そういうことにたいする抵抗はもう「一揆」を起こすしかない。「一揆」の原因は、何も年貢のことだけではない。「正当な等価交換」という経済原則によって、村人どうしの関係のバランスが大きくゆがんでしまったことに対して、「元に戻してくれ」という要求だったのです。
商人が村に入り込んできて、村人の土地を巻き上げ、その収穫を掠め取る。非農業民(商人)が、座ったまま農業所得をむさぼる。中世とは、そういうことが起こってきた時代だったのだ。
一揆」への衝動としての「猿婿殺し」、これが、この話の裏に隠された「主題」であろうと思えます。猿は、そういう非農業民のメタファーなのだ。
もうかりゃいいじゃないか・・・・・経済意識が未発達であった前近代の村人は、けっしてそこまで割り切って考えることはできなかったし、そういう問題を現代のわれわれもまた、ホリエモンとか村上なんとかという株屋から突きつけられたばかりです。この問題は、人間社会の普遍的な問題であるのでしょう。すくなくともどこかのあほな研究者のように、「猿婿は正当な等価交換を行使したのだからいい人だ」というような安っぽい分析ですむ問題ではない。
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ドストエフスキーの「罪と罰」の主題は、まさしくこの猿婿伝説のそれでもある。「罪と罰」で殺された金貸しの老婆は、猿婿なのだ。あなたは、老婆を殺したラスコーリニコフの罪を問うことができるか。
正義づらした現代市民や小松氏は、問うことができるらしい。キリストは、「罪なきものはあの人に石を投げよ」と言ったが、僕は、猿婿を殺した娘に石を投げることなんかとてもできない。むしろ、決然として殺してしまった娘を、ジャンヌ・ダルクだ、と思う。美しい、と思う。
猿が人間の娘を嫁にすることを「正当な等価交換」だなんて、どう考えても納得できない。僕は、小松氏のように平気で娘に石を投げつけることができるほど、自分をまっとうな人間だとは思っていないし、低脳でもない。
罪と罰」に登場するビョートル・ペトローヴィチという若い役人は、猿婿のような手続きで美しいラスコーリニコフの姉を手に入れようとしたが、いざというときに品性の下劣さを晒して振られてしまう。そしてそのあと、スヴィドリガイロフという金持ちの中年男がもっと巧妙な罠をしかけてプロポーズする。しかし彼は、姉を手に入れる直前までいって、自分からやめてしまった。この美しい女に愛されるときは永久にやってこない、と悟ったからです。というか、自分が愛されるに値しない人間だという思いから逃れられなかったからです。
すなわち、人間の世界というのは、そういうような問題をああでもないこうでもないと問いながら動いているのだ、ということです。「正当な等価交換」だから嫁にしていいとか、そんな単純なものではないし、昔語りの民話ならそのていどのレベルの解釈でかたがつくと思っている研究者のあさはかで傲慢な態度を、いったい何が悲しくて僕が支持しなければいけないのか。
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現代人は「正当な等価交換」という行為とおおむね和解して暮らしているが、ここに至るまでに人間の歴史はどれほどの試行錯誤を繰り返してきたことか。また、この問題が完全に解決されたわけでもない。
その歴史過程のおいて、中世の村人こそ、もっともその問題に翻弄された人々だった。彼らは、現代人ほどには「正当な等価交換」と和解していなかった。だから商人や支配者にしてやられてばかりいたのだし、だからこそ「一揆」という手段に訴えたのだ。
一揆は、文字通り「命がけのジャンプ」であり、その観念行為こそ「正当な等価交換」の本質です。村人にとって、労働の代価を要求することは、「貨幣」で物を売ったり買ったりするのと同じくらい不可解なことであり、「命がけのジャンプ」そのものだった。りんごとみかんを交換するのとはわけがちがう。土地を巻き上げられることは、貨幣というひとつの「抽象」が交換の品物になるという、その理不尽さに呑み込まれてしまうことだ。
であれば「猿婿殺し」だって、「命がけのジャンプとしての等価交換」のようなものです。とりあえず嫁になってみせることはお金を払う行為であり、それと引き換えに猿の命をもらった。彼らは、そうやって商人から土地や娘を取られたと思っていたし、一揆とはつまるところ、自分の命という貨幣を支払って土地や家族を取り戻すことだった。
一揆を起こした農民たちにとって、自分の命を支払うことは、貨幣という価値すなわち「正当な等価交換」という理不尽さに対する挑戦だった。
中世とは、貨幣経済がようやく庶民のレベルまで浸透していった時代です。しかし最下層の庶民は、まだまだ貨幣や労働という抽象的な価値と和解していなかった。
そしてラスコーリニコフもまた、中世の農民が「一揆」を起こしたように、娘が猿婿を殺したように、「正当な等価交換」を否定して金貸しの老婆を殺した。
猿婿の話だって、「罪と罰」の問題をはらんでいるのだ。そういう人間社会の普遍的な問題を、少々荒っぽく痛快に超えていってみせたところに、猿婿伝説のカタルシスがある。