民俗学における「異人殺し」というテーマ

レッズの小野のアヤックス入りの話は、ただのうわさだったのでしょうかね。小野には、史上最低の監督であったジーコを見返してほしい。オランダリーグに、小野よりうまい選手なんか、一人もいないのだから。そういうことは、たぶんオランダ人が一番よく知っている。悔しい・・・。
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日本列島では、古来から、さまざまな「異人殺し」の説話が語られてきた。
たとえば、旅の僧やめくらの琵琶法師などを泊めてやった村人が、その「まれびと」を殺して所持金を奪い、一躍村の富裕な家にのし上がっていった。富裕な家にはたいていそのような過去の歴史があり、そのたたりで身体障害者や精神異常者が多く生まれてきたりして、やがて没落という運命をたどらねばならない。まあ、そんなようなパターンの話です。
で、小松和彦氏は、「異人殺しのフォークロア」という小論文を、次のように締めくくっています。
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「それはひと言でいえば、民俗社会内部の矛盾の辻褄合わせのために語り出されるものであって、『異人』に対する潜在的な民俗社会の人々の恐怖心と“排除”の思想によって支えられているフォークロアである。」
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つまり、民俗社会の人々にとって村を訪れる旅の僧や琵琶法師は、ほんらい、歓待するべき「まれびと」ではなく、「恐怖心と排除の思想」の対象であった。民俗社会に「異人殺し」の話が存在することは、民族社会の人々の意識の根底に「異人殺し」の衝動がはたらいていることの証である、というわけです。
しかしこの分析は、正確ではない。
民俗社会には、異人殺しをする人がいたが、民俗社会の人々がいつもいつもそういうことをしていたわけではない。それらは、民俗社会で起きた「特異な」事件として語り伝えられてきたのであり、「異人殺し」は、民俗社会の心性から逸脱した衝動であったのだ。
小松氏の言っていることなんか、ぜんぜんくだらない。現在の民俗学がこういう方向に引っ張られているとしたら、それは決して健全ではない。
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もしかしたらその村では、そういう事件が昔にあったのかもしれない。だがそれは、その村の歴史で、たった一回だけ起きたことです。そういうほんらいなら起こるはずのない異常な事件だからこそ、語り伝えるに値したのでしょう。
村人が日常感覚として「異人殺し」の衝動を持ち、たびたび起きていることであるのなら、たたりを怖れてその事件が起きた場所に塚や祠を建てるということもしないはずです。きりがない。
ほんらい殺そうとするような衝動の起きないはずの相手にそういう衝動を抱いて殺してしまったからこそ、異常な事件としてそのたたりがイメージされていったのでしょう。とにかくそれは、語り伝えるに値するくらい異常な事件だったのです。
それは、起こるはずのない事件であると同時に、長い歴史のあいだには一度や二度はきっと起きるにちがいない事件でもあった。
村人にはそんな衝動は起きようもないが、そんな衝動を起こしそうな人がすぐそばにいることもたしかだ。たとえば、あるとき急に村の長者にのし上がっていった人がいる。彼らは、異人を嫌っている。説教語りや歴史語りとして村にやってくる異人は、村人にとっては貴重な娯楽の提供者であっても、金持ちにとってはただの「たかり」でしかない。彼らはもともと村人とは人種が違ったのであり、だから異人殺しができたのだろう、と村人は思う。
みんなで貧乏しようよ・・・・・・これが、日本列島における村の伝統です。
とすれば、異人殺しをしてのしあがっていった人たちは、村の伝統から逸脱していった人たちである、ということになります。そりゃあ、そういう人たちにたいする嫉妬はあったでしょう。しかし村人は、そういう人たちのことを、自分たちと同じ人間だとは思っていなかった。あいつらは人種が違うのだ、と思っていた。
「異人殺し」は、そういう違う人種の話として語り伝えられていったのであって、みんなで貧乏しようという合言葉で助け合って生きていた村人じしんの話ではないのだ。
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そうやってのし上がっていった人たちに対する村人の意識が、ただのねたみだけなら、自分たちも競って金を持っていそうな異人を殺して長者にのし上がろうとしたでしょう。しかし彼らは、あくまで「みんなで貧乏しよう」という村の合言葉を守り、異人殺しに走るということはしなかった。彼らにとって旅の僧や琵琶法師は、あくまで訪れ祝福する「まれびと」だったのであり、その人たちを殺して「たたり」も何もなくのうのうと生きているなんて、けっして納得できることではなかった。「異人殺し」の話は、村人のそういう心性から生まれてきた。そういうせつない「ねたみ」を、「恐怖心と排除の思想」などという愚劣な解釈で悦に入っているあほな研究者にたいしてはもう、僕だってそれこそ「殺意」をおぼえてしまう。
村人を置き去りにしてのし上がっていった人たち、彼らがなぜ異人にたいする「恐怖心と排除の思想」を抱くのか。なぜ「憑きもの」が多く出る家になってしまうのか。村人のそのせつないねたみと疑問が、「異人殺し」の話になっていったのだ。
まあいい、この問題は、じっくり検討してゆくことにします。