異人殺しの民俗学・2

昔々、旅の僧を泊めてやったある村人は、その僧が大金を持っていることを知り、殺して金を奪った。そしてその金を元手に村の長者にのし上がっていったが、殺された僧のたたりで、生まれてくる子供が不具者や精神異常になるということが続き、やがて没落していった。
こういうパターンの話を、「異人論」(ちくま文庫)の著者である小松和彦氏は、次のように解説してくれます。
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金持ちであるということはそれだけで、そうではない人々の嫉妬を買うはずである。まして今までは自分たちとそれほど大差のない生活をしていた家が、これといったはっきりわかる理由がないのに急速に金持ちになったならば、取り残された人々の胸中がどんなものかは想像がつくであろう。とうぜん、この家に関する噂話は妬みの念のこもった話になり、さらには悪口になるはずである。こうした人々の嫉妬の念を癒すために語られる悪口の一つとして、まことしやかに「異人殺し」がどこからともなく語られ始めたとも考えられる。(・・・中略)
すなわち、村人たちが、「異人殺し」とその異人の「たたり」を発生させたのである。「異人殺し」を発生させることで、人々はその家の盛衰という「異常」、子孫に生じた肉体的精神的「異常」をうまく説明することができ、自分たちの嫉妬の念を癒すことができたわけである。いや、それだけではない。その家は、罪のない「異人」を殺した邪悪な犯人の家であり、殺した「異人」に呪われ祟られている家なのだとすることで、その家をさまざまな形で忌避し排除し差別することさえ可能となるであろう。
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村人たちの「妬み」、それはまあいいでしょう。しかし小松氏はここで、決定的な自己矛盾を晒しています。これは、村人たちに「異人殺し」の衝動はない、と言っているのと同じなのです。
「民俗社会の人々における異人に対する恐怖心と排除の思想」、これが、小松氏の研究(思想)の根幹をなす認識です。しかし、村人じしんの中にそうした意識があれば、「罪のない異人を殺した邪悪な犯人の家」というような見方はできないはずです。村人にとって「異人殺し」もその「祟り」も無縁だからこそ、「発生させる」ことができたのでしょう。自分たちのなかにも「異人殺し」の衝動があるのなら、「異人殺し」ということで後ろ指を指すことはできないはずです。村人はけっしてしようとしないことであるからこそ、それが後ろ指を指す材料になったのではないですか。
それが、村人という貧乏人の「妬み」だからこそ、彼らは「異人殺し」とは無縁だった、といえるのではないですか。
小松氏は、この解説において、民俗社会の人々には「異人に対する恐怖心や排除の思想」はない、と言っているのです。村人は、そういう「邪悪な行為」は突然金持ちになったやつのすることだと思っていた、と言っているのです。
そして、たぶんそのとおりなのです。「異人殺し」なんて、貧乏な村人が思うことでもすることでもない。貧乏な村人であるまいという気持の強いやつのすることだ。
だから「その家をさまざまな形で忌避し排除し差別する」ことも起きてくる。
すなわち、村人にとって殺された旅の僧はあくまで歓待するべき「まれびと」であり、その旅の僧を殺してしまったらしい金持ちこそ、「恐怖心と排除の思想」の対象となるわけのわからない「異人」だったのだ。「その家をさまざまな形で忌避し排除し差別する」のは、わけのわからない「異人」だと思うからでしょう。
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共同体において、「恐怖心と排除の思想」の対象となる「異人」は、つねに共同体内部に存在する。生贄(スケープ・ゴート)ですね。
秩序が存在するということは、秩序が歪んでいっているということと同義です。なぜなら、誰もが同じであり続けることはできないし、誰とも同じであることもできないからです。子供は大人になってゆくし、大人はやがて老人になって死んでゆく。また、生きて暮らしていれば必然的に他者との「差異」は生まれてくるし、見付けようとするのが観念のはたらきというものでしょう。「差異」のない秩序をつくってゆくということは、「差異」を排除しようとする衝動が抑えきれなくなってゆく、ということでもある。というか、「差異」のない秩序をつくることじたいが、「差異」を排除する行為でもある。
外部からやってくる異人を排除するのではなく、まず内部の「差異=異人」を排除する。これが、共同体の秩序です。
これは、生き物の群れや家族が成長した若者を「内部の差異=異人」として巣立ちさせる(=排除する)という、普遍的な行為でもある。そうしてその群れは、外部から訪れる若いメスという異人を歓待するのです。
生き物の根源的な衝動として、「恐怖心や排除の思想」は、「内部の異人」に向けられるのであって、けっして外部から訪れる者にたいしてではない。
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「みんなで貧乏しよう」という合言葉で暮らしていた村人は、その差異(異人)性を、同じ村の裕福な家に見ていた。乞食姿でやってくる旅の僧やめくらの琵琶法師は、同じ貧乏な者たちであると同時に、自分たち以上の貧乏な存在として、自分たちの貧乏を肯定し祝福してくれる対象であった。つまり、村の秩序を補完してくれる対象だったのです。
村人は「妬み」を持つ人種だから「異人殺し」もしかねないやつらだというような人間理解では、程度が低すぎる。そんないじましい負け犬根性を捨てて、金持ちになってやるという夢と希望を抱く人間が「異人殺し」をするのだ。
前近代の民俗社会の人々なんて、みんなで貧乏しようと思って生きているいじましいやつらですよ。しかしだからこそ、小松氏の言うような「異人殺し」や「異人にたいする恐怖心や排除の思想」とも無縁だったのだ。