異人殺しの民俗学・3

「異人論」(ちくま学芸文庫)の著者である小松和彦氏にとって、外部から訪れる「まれびと」は、「恐怖心と排除の思想」の対象であらねばならない。それによって、鬼や妖怪の話もぜんぶ説明がつく。鬼は山の民、河童は川の民、そういう共同体の外部の人たちに対する「恐怖心と排除の思想」から生まれてきたのだ、という。
あなたは、遠路はるばる訪ねてきてくれた客人にたいして、まず「恐怖心と排除の思想」を抱きますか。民俗社会の心性の根底ではそういうふうにはたらいている、と小松氏はいっているのです。
しかし「民俗社会」は、そういう人たちの運んできてくれる芸や物を買ったりこちらの物を売ったりと、積極的に交易することによって、みずからの社会の秩序やうるおいを得ていたのです。それを、どう説明するのか。恐怖心と排除の思想を隠してうまく利用してきただけだ、というわけにはいかないでしょう。
そんな意識が根底にあれば、異人も、それに気づいてやがて訪ねて来なくなるでしょう。
小松氏が説明する「猿婿」の話では「異人なんか知恵でだましてしまうのが民俗社会の正義である」ということだが、すれっからしの商人じゃあるまいし、民俗社会の人々はそこまで器用じゃないし、異人もそこまでお人よしではない。
よくそんな卑しい解釈ができるものだ。
そうやって顔を合わせていれば、遅かれ早かれ「恐怖心と排除の思想」などなくなってしまうのが人情の自然というものではないのですか。
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異人殺しに登場する家は、ほとんどが旧家や富裕な家です。村人という「民俗社会の人々」全体の話ではない。村の誰もが、いつでも小松氏の言うように「異人に対する恐怖心と排除の思想」を抱いていたわけではない。
そりゃあ、村人の誰の中にも、素性のわからない旅人に対する警戒心や、自由に漂泊することへの嫉妬のような感情はあるでしょう。
しかし村人は、そうした旅の僧や旅芸人や行商人の訪れを待ち焦がれる日々を生きてもいる。それが、村の暮らしであり、すくなくともその部分では、異人を殺そうとする衝動など起きようがないはずです。
ただ、村を出てゆくときの旅人は、村人たちからかき集めた謝礼金や物を売った金を持っている。その金を欲しがる者は、村人のなかにもいたでしょう。
たとえば、立食のパーティーなどに出かけると、かならず意地汚くあれこれ食いたがる人を見かける。そしてそういう人が、ふだん何不自由なく暮らしているお金持ちであるのに驚かされることがよくある。
旅人の懐を狙うのは、貧乏な村人とはかぎらない。むしろ、お金持ちであることのほうが多い。それにお金持ちは、泊めてやる機会も多い。つまり、金にたいする執着心の強い、もっとも共同体的な心性を持った人間が、そういうことをする。貧乏でも、金持ちになりたがっているやつがする。
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村人が、みんなで貧乏しようよという合言葉を持っていたのは、貧乏して生きることにもそれなりの恵みがあったからでしょう。貧乏とは、あしたのないその日暮らしのことです。いわばそれは、毎日がキャンプみたいなもので、漂泊の旅と同じです。つまり、貧乏をしていれば、定住することによる観念の自家中毒から逃れられる。定住するためには、貧乏でなければならない。これが、日本の村が維持されていった、おそらくもっとも大きな思想のひとつです。
それに、みんなでお金持ちになることは不可能だが、みんなで貧乏する平等は、けっしてむずかしいことではない。
金持ちの家が死者のたたりで零落してゆくという、このパターンを村人が飽かずに繰り返してきたのも、つまるところ、みんなで貧乏しようとする無意識によるのではないでしょうか。
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「異人殺し」は、小松氏がいうような「民俗社会の人々」の話ではない。日々がキャンプ体験(漂泊)のようなその日暮らしを強いられている村の「民俗社会」から逸脱して、定住の自家中毒にのめりこんでいった人々の話なのだ。
彼らの家から身体障害者や精神異常者が多く生まれてきたのは、定住の自家中毒なのだ。身体障害者はともかく、そういう家から「憑きもの」という精神異常者が生まれやすいのは、多くの人類学者が指摘するところです。
それは、なぜか・・・・・・?
民俗学の知の冒険は、おそらくここから始まるのであって、「異人に対する民俗社会の人々の恐怖心と排除の思想」と言っておけばすむというものではない。表面的にはそんなふうに見えることなど、すでにみんな知っているのだ。
そういう恐怖心と排除の思想は、村の旧家や富裕な家ほど強い。それは、村の思想ではない。そういう家の人々の思想なのだ。
まいとし冬になると、富山の漁師が長野の山の村にぶりを売りにくる。さらに長野の人々は、そのぶりを塩漬けにして、山梨や群馬や岐阜に売りに行く。そうやって昔の中部地方の人々は、ぶりを食膳に据えて正月を迎えていた。薬売りや旅芸人や説教ひじりしかり、「民俗社会の人々」は、「異人(まれびと)」の来訪を待ち焦がれている。
しかし誰だって貧乏はつらいわけで、いつの時代も、そういう民俗社会から逸脱していこうとする人々が現れてくる。
民話は、民俗社会のことだけを語っているのではない。民俗社会から逸脱していった人々の零落を語ることによって民俗社会を再確認する、という機能もそなえている。
いつだって「たたり」は、そういう逸脱していった人々に下りてくるのだ。
村の外に出てゆくこともひとつの逸脱だが、「異人殺し」のたたりは、村の中にいて、「みんなで貧乏をしよう」というコンセプトを否定するかたちで逸脱していった人々に向けられる。
村の外に出てゆくことは自分も異人になることだが、村の中にいて逸脱していった人々は、村の中心でのさばって生きていることをアイデンティティにしているがゆえに、旅の異人にたいして「恐怖心と排除の思想」を抱く。彼らは、民俗社会のもっとも中心でのさばりながら民俗社会から逸脱している。異人殺しの話は、そのような逸脱に対するルサンチマン(妬み)として生まれてきた。民俗社会の人々は、旧家や富裕な商人の家の、そういう異人殺しをしそうな傾向をいぶかり危ぶみながら暮らしていたのだ。