近世の村における「異人殺し」

近世になると、遊行者や巡礼の風俗も乱れて来る。ただの物見遊山のくせに遊行者や巡礼のふりをして民家に泊めてもらおうとする者や、宗教者じしんも信仰そっちのけで商売気をあらわにする者も出てきた。しかし、そうした不心得者が出てくるということは、民俗社会の人々の中にまだまだ「まれびと信仰」が残っていたことを意味する。残っていたから、そこに付け込もうとする者が出てくる。
また、そうした風俗の乱れは、まず町にあらわれ、どこまで村の中にも浸透していたかはわからない。貧しい村では商売にならないし、警戒心も強い。町はますます町らしくみだらになり、村はさらに村らしくかたくなになっていったのかもしれない。
そのころ、「高野聖に宿貸すな、娘とられて恥をかく」という俗言があったそうです。しかしそれは、高野聖のたちが悪くなったというだけでなく、よそ者と恋をしたい、抱かれてみたい、という娘の好奇心の問題でもあります。人々は、高野聖に宿を貸してやっていた。高野聖にたいする「まれびと信仰」は、いぜんとして残っていた。しかし、町そのものがみだらになってきていた。
それは、「まれびと信仰」が希薄になってきたことを意味しているのではない。「娘とられて恥をかく」くらい高野聖との関係が親密になってきたからだ。
「まれびと信仰」は、日本的なセックスアピールの問題でもある。
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近世の村人の中には、積極的に町との交易をはじめて貨幣を蓄積してゆく者も生まれてきた。そういう家が村人の妬みの対象になり、「異人殺し」の家という「しるしづけ」をされることになる。
本当にそんな事件があったかどうかなどわからない。ほとんどは、村人が勝手にそういう話をつくってしまうだけだったはずです。村人は、けっして「異人殺し」などしない。しかし、あの家の者ならしかねない、と思う。
じっさい町という外部との関係を持っているその家の者たちは、いまどきの遊行者や巡礼がいかにいいかげんかよく知っているから、あいつらはただの「たかり」だと思ってそういう扱いをする。それにたいして季節や年を隔ててやってくるなじみの漂泊者をあくまで「まれびと」として待ちわびている村人は、その家の異人にたいする態度がだんだん許せなくなってゆく。同じ村人であっても、人種が違う、と思う。
貨幣経済によって町と村の格差がますます大きくなっていった近世において、村は「まれびと=異人」を迎えなければ、完全に孤立した存在になってしまう。たとえ近世であっても、村人がどんなに「まれびと=異人」の訪れを待ちわびていたことか。あの家は、われわれの「まれびと信仰」を冒瀆している・・・・・・そうやって「異人殺し」の話が村人によって捏造されるということは、村にはまだまだ「まれびと信仰」が息づいていたということの証しなのだ。
いや、貨幣経済が定着した近世だからこそ、その信仰はより切実だったともいえる。「異人殺し」の話が生まれてくるくらい、切実に「まれびと」の来訪を待ちわびていたのだ。
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村人に「まれびと信仰」が残っていたということは、彼らは自分から外に出てゆくことをあまりしなかった、ということを意味します。出てゆくことをいつもしていれば、異人にたいする珍しさもありがたみも薄れてくる。貨幣経済で動いている町は、貨幣を持たない村びとが出て行けるところではなかった。村の暮らしは、あくまで「まれびと=異人」を受け入れることによって変化やうるおいがもたらされていた。
民俗社会における「まれびと信仰」は、その受動的な心性と暮らし振りによって連綿と受け継がれてきた。
小松氏は、村人が村の中で急速に裕福になっていった家に異人殺しの「しるしづけ」をするのは、その家を村から「排除」するためだ、というのだが、村人にそんな能動性はないのです。それは、あくまで村人のそういう家にたいする「反応」なのだ。
まずその家に「異人殺し」をしでかしそうな気配を感じたからそういう「しるしづけ」がなされたのであって、小松氏が言うように、自分たちのそういう衝動をその家に押し付けたのではない。
村人なんて姑息で嫉妬深い人種であるが、「排除」しようとするような能動性はない。なぜなら自分じしんも村から出てゆこうとする能動性が希薄だから、そういう発想が生まれてこない。村人にとって、村の外は、行くに行けない「他界」であって、この世ではないのです。だから、多くの村人は、町と積極的に交易して金儲けをするということができなかった。できるやつは、人種が違うのだ、と反応していただけです。
外部に出てゆくことの不可能性を自覚している村人に、「排除する」というような能動性=世界観はない。彼らは、過剰に「反応」してくる受動的な人種なのだ。
村八分とは、村から「排除しようとする=追い出そうとする」思想ではなく「何もしてやらない」思想です。「排除しよう=追い出そう」としないから、村八分というかたちになる。彼らは、良くも悪くもそういう能動性を持っていない。しかしだからこそ、来訪神である「まれびと」を待ちわびる心性の伝統も、小松氏が考えるよりもずっと切実で根深いのです。
小松氏の言い方を借りれば、民俗社会の人々が漂泊する異人たちを「暴力と排除の犠牲にしていた」なんて、「昔話テキストを隈なく読んでその理由を見いだそうとしても無駄」なのです。民俗社会の心性として「異人殺し」を説明しているテキストなんかひとつもないのだ。民俗社会の心性から逸脱してゆくところで、そうした「異人殺し」というサディズム=能動性が生まれてくる、と言っているだけです。