異人殺しとまれびと信仰

小松氏によれば、村人の異人にたいする態度が、「排除」と「歓待」の両義性を持つのは、「その異人が人々に富をもたらしてくれるのか、災厄をもたらしに来たのか、見当がつかないからである」と言っています。
この人は、歴史や伝統というものをなんと考えているのだろう。めくらの琵琶法師が琵琶を抱えてやってくれば、何をしに来たかくらいわかるでしょう。行商人だって、その服装や道具のかたちで何を売りに来たかが誰にもわかるようになっていた。それが、歴史と伝統というものです。
それに「富」などというようないやらしい言葉を使うが、村人に富を授けにやってくる異人なんかいるわけないじゃないですか。ここ掘れワンワンで小判がざくざくとか、打ち出の小槌だとか、そんな話はみな、ただの夢物語です。そんなことを当てにして異人を見ていたなんてことが、あるはずない。
説教僧や琵琶法師には心づけを包むのだし、行商人は物を売りに来るのだし、異人はむしろこちらの財布を軽くしてしまう存在です。それでもなぜ歓待したかといえば、彼らが村人を笑顔で「祝福」し、村の暮らしにうるおいをもたらすためにやってきているからです。
また、災厄は、村の中の暮らしでこそ体験するものです。中には災厄をもたらす異人がいるとしても、それを予測することなんか不可能です。それは、起きてからわかることだ。ましてや見ず知らずの相手に「災厄」をこうむることを勘定(イメージ)することは、けっしてかんたんなことじゃない。なぜなら、まだ災厄をこうむったことがないのだから。
「ああいやなやつが来た」と思うのは、災厄をこうむったことがあるからです。というか、そうやって先のことをあれこれ計算したがるのは、裕福な家の者たちに特有の習性なのだ。現代市民もまったくそうだけど、前近代の村人の心性ではけっしてない。
「異人殺し」をしないかぎり、異人から「富」を授かることなんかできない。打ち出の小槌の夢物語を紡ぐことはあっても、それを体験した村人なんかひとりもいないのだ。
村人にとっての「異人」体験の醍醐味は。富をもたらしてくれることではなく、「祝福」されることにある。すなわちそこに、他者との出会いのときめきがあるからだ。
「富をもたらしてくれるか」だなんて、何をげすなこと言ってやがる。
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折口信夫が言うように、村を訪れる遊行の宗教者のほとんどが杖をつき蓑笠をまとった乞食姿に「身をやつしている」のは、彼らが富をもたらす存在ではなく、村人よりも多くの苦しみや悲しみやさびしさを抱えて生きている存在であること、つまり村人よりも苦労して生きている人たちであることを表現している。その姿それじたいが、ひとまず穏やかな村の暮らしを祝福しているのです。
被災地の視察に、アルマーニのスーツを着てゆく総理大臣もいないでしょう。そんなようなものです。村を訪ねるときは、乞食姿に「身をやつす」ことが異人のたしなみであった。乞食姿に「身をやつす」ことには、村の暮らしを祝福するメッセージがこめられている。
したがって村にやってきた異人は、その姿同様、けっして傍若無人な振る舞いはしない。身を屈めて入ってくる。前近代の日本列島には、ひとまずそういう歴史と伝統があったのだ。
異人が傍若無人な振舞いをしたから殺してしまったという話も多いのだが、そういう理由で泊めることを拒んで追い払ったりする家もあったからでしょう。村の裕福な家では、異人のことをたいてい、あつかましくて下品で汚らしいやつらだ、と思っていた。彼らには、その身をやつした姿を見てほっとするような日常の「嘆き」はない。
で、そういう家ではきっと昔に「異人殺し」をしているのだ、と村人が思う。村人のがわのただの「妬み」からだけではない。裕福な家のそういう態度から、そこの家の「異人殺し」が発想されるのだ。
それにたいして、日常の「嘆き」を抱えて暮らしている村人は、乞食姿の異人を前にして、祝福されること、許されてあることのよろこびを見いだす。
みんなで貧乏しようという合言葉で動いていた村の暮らしにおいて、「富をもたらしてくれるのか」というような下品で皮相的な動機だけで異人を吟味していたわけではないはずです。そんな薄汚い小市民根性は、前近代の村人の意識ではない。
まったく、「富をもたらしてくれるのか」なんて、言うことが学問のレベルになっていないじゃないか。街の有力者や商店会の連中が市会議員を選んでいるのとは、わけがちがう。そんなレベルで前近代の民俗社会を語ろうなんて、この人は想像力が貧しすぎる。
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折口信夫が異人の性格を説明するのになぜ「祝福」という言葉を使ったのか、このことの意味を、小松氏はあまりよくわかっていないのではないか。
人間が他者を見るときの根源的な意識は、「富をもたらしてくれるか」と値踏みすることじゃないでしょう。そういう見方は、一般の人々も富を得ることができるようになった近代になってから強くなってきた意識だ。「みんなで貧乏しよう」という合言葉を携えて暮らし富を得たこともない前近代の村人が、どうして「富をもたらしてくれるか」などと発想し て他者を見ることができよう。
人が他者と向き合うときの基本は、得する相手かどうかと値踏みすることなのですか。くだらない。村人の異人にたいする視線はそこにしかない、それが村人の意識の深層だ、というのなら、まったく人をばかにした話です。こんな程度の低い「他者論」が学者の研究だというのか。
異人の乞食姿や語りやうたごえによって祝福されること、それは、鬱陶しい村の暮らしにあえいでいる人々にとっては、体験したこともない「富」などというものよりも、もっと貴重な贈り物だったのだ。
他者との出会いの根源的な醍醐味は、祝福されることのよろこびにある。たがいの穢れた身が、許され浄化されることにある。それが出会いのときめきというものであり、人間の歴史はそこから始まっている・・・・・・折口信夫は、そう言っているのではないのですか。すくなくとも、「富」を勘定して他人と向き合うような薄汚い近代市民根性のごときものが人間の意識の根源だという認識で「まれびと神」といったのではないでしょう。
穢れてあることの嘆き・・・・・・人間は、そこで神と出会ったのだ。