閑話休題・エコロジーについて考える

エコロジーという思想は、いったいどこから生まれてきているのか。
僕じしんは、タバコのポイ捨てくらいいいじゃないかと思っているのだから、そんな思想を声高に叫ぶ人々と連帯したいわけでもないのだが、否定するつもりもありません。
やっぱり、平和とか幸せとかという社会的現代的な概念より、自分が抱えている生き物としての生態について考えてしまいます。
むかし夫婦げんかをしたときに、女房が「私だって幸せになりたいわよ」といったから、「子供を産んだ女が、いまさら幸せなんてあつかましいことを言うな。そんなものはぜんぶ子供にくれてやれ」と言い返してやったことがあります。いってることは間違っていないと思うけど、いえる資格が僕にあったかと問えば、恥ずかしいかぎりです。
まあ、エコロジーの思想とは、そんなようなことではないかと思えます。
いや、同じことを、さらにむかし、同棲している女の子からもいわれたことがあります。そのときは、俺は一緒に暮らしているだけで充分なのに、おまえはそんなものまで欲しいのか・・・・・・というような、ちょっと途方に暮れた気分になりました。
で、黙っていると、「どうして私のことを、そんな“物”をみるような目で見るのよ」といわれ、ますますなんと答えていいかわからなくなってしまいました。
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一個の生き物として、自分はどのようにこの世界に存在しているのかということ。考えたら、まるでわからないことだらけです。
とてもじゃないが、うまくフィットしているとは思えない。
「そうだそうだ、わかるわかる、俺も同じだよ」と言ってうなずきあうことなんか、僕にはできない。
ましてや、相手が乾坤一擲で自分はこんな人間だ、といったことにたいして、俺も同じだというような失礼なことは、とてもよういわない。
自分は誰のことも理解できないし、誰からも理解してもらえない・・・・・・そういう思いは、いつもあります。そんなことはあたりまえのことで、自分が存在することの前提だ、という気がします。
理解する、なんて、どうしてかんたんにそんな言葉が使えるのだろう。理解することが、自分が頭いいことの証明だと思っていやがる。
たとえば、マルクスのことをいちばんよく知っているのは俺だ。俺だけが理解している、なんていい方をしてくる評論家がいますよね。何いってやがる、と思ってしまう。誰もマルクスじゃないんだもの、マルクスのことを理解できるやつなんかいるものか。みんなそれぞれ自分なりの読み方ができるだけでしょう。ましてや、マルクス本人に問いただしたわけでもないのに、あつかましいにもほどがある。
マルクスをどう読もうと、俺の勝手だ。「おまえらは理解していない」なんて、よくそんな傲慢なことがいえるものだ。
理解したつもりで、自分もマルクスと同じレベルになったつもりで、研究者は論文を書いている。
いろんな本を読んでいろんなことを知っていれば、そういう知識をひけらかせば頭いいつもりでいる。知識をひけらかすことがお金になる世の中であるとしても、そこから一歩も進めないような論文しか書けない研究者が多すぎる。そういう研究者がいるから、素人だって、おなじように知識をひけらかすだけで満足している。理解することは、知識をひけらかすことだと思っている。理解しているつもりだから、他人のふんどしで相撲を取っているような受け売りの羅列ですませられる。
どうせテキストの作者と自分は違うのだから、自分のいうことがテキストからずれていってしまうのはとうぜんのことでしょう。
というか、作者なんかいない、言葉があるだけだ。マルクスのいう貨幣と僕のいう貨幣が同じであるはずがない。僕は、マルクスを読むことなんかできない。そこに書かれた貨幣という言葉に反応しているだけだ。
折口信夫なんか知らない。ある日、「まれびと」という言葉が僕の前にあらわれただけだ。僕のいう「まれびと」が、折口信夫のそれと同じかどうかなんて、知ったこっちゃない。
僕は、理解なんかしない。すべての知識、すべての他者を誤解している。
誤解することが、僕の「表現」行為だ。
しかし誤解することにも、僕なりの人格やプライドはこめられている。
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人と人が理解しあうことなんか、美しいともなんとも思わない。
僕は、誰も理解できないし、理解してもらえるとも思っていない。
あなたが幸せになりたいからといって、僕もそれを願っていると決めつけられては困る。僕はお金がないことを嘆いているが、あなたと同じだけお金を欲しがっているかどうかはわからない。僕は、あなたほどたくさんのお金を必要とするような暮らしはしていない。
僕は、この世界にうまくフィットしていないし、生きていてもしょうがない人間です。だから、すべての人間を許すべきだし、ひとりでもいいから誰かに許されたいと願っている。
そういうことを考えたとき、ドストエフスキーはすごいなあと思う。
それはともかくとして、エコロジーの思想とは、みずからの存在がうまくこの世界にフィットしていないという自覚からくるひとつのペシミズムかな、という気がしないでもありません。
身体感覚ですね。
身体は、みずからの存在がこの世界にうまくフィットしていないことをつねに知らせてくる対象です。それは、幸せであろうと不幸であろうと関係ない。誰もいつまでも若くあることはできないし、時間がたてばかならず空腹という世界からずれた状態に陥ってしまう。息苦しいとか熱い寒い痛い痒いという感覚も、いわば身体が世界にうまくフィットしていない状態です。それはもう、健康であろうとなかろうと誰もが体験させられる、生き物であることの与件です。
身体を意識するなら、身体がうまくフィットしていける自然=環境を願わずにいられない。身体は、この世界にうまくフィットしていない。死は、必ずやってくる。
すなわち、われわれが生きてゆくのに必要であるのは、身体が存在できる環境であるのか、観念がうまく機能してゆく環境であるのか。エコロジストであるかいなかのわかれめは、つまるところそういうところにあるのかもしれない。
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現代人は、どんなに「自然」を愛しているようなことをいっても、それ以上に観念のはたらきを優先させて生きている場合が多い。いくらきれいごとをいおうと、じつは、身体を世界にフィットさせることよりも、幸せという観念やお金や仕事という観念のほうが大事であるかのような生きかたをしている。正しい生き方をしたい、かっこよく生きたい、それがもう、観念を優先させている状態にほかならない。生きてあることの認識(手ごたえ)や生きかたを、観念が決定している。そうやって、身体(自然)を置き去りにしてしまっている。
自然を愛する、なんてえらそげな態度で自己満足に浸れるということは、自然に驚きときめいていないということだ。自然を畏れていない、ということだ。
たぶん、現代人の誰もが、観念のはたらきを優先させて生きている。誰も「自然」とともに生きることなんかできない。
そういうことの反省がエコロジーの思想であるのだとすれば、男は、とくに大人の男たちは、あまり反省していない。醜いぐらい「観念」にこだわっている。観念が身体を生かしていると思っている。薬を飲んだり病院に行ったりすることは、エコロジカルな行為ではなく、観念で身体をコントロールしようとする意欲が強いだけのことだ。体をいたわっているふりをしながら、体(=自然)を支配しにかかっている。そんなものは、観念を優先させて生きているただのスケベ根性に過ぎないのだが、当人はひといちばいまっとうな生き方をしているつもりでいる。
現代においては、まっとうな生き方ほどグロテスクなのだ。そういう生き方がいかにグロテスクかを自覚する感受性を喪失していること、それがグロテスクなのだ。
若者たちはたぶん、あなたたちのその「正しさ」を、グロテスクだなあ、おっそろしいなあ、と思って眺めている。
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ある団塊世代の男が、こう言っていっていました。
エコロジーというのは、女の思想だな」
聞きながら僕は、「何いってやがる、このインポ野郎が」という言葉を呑み込んでいました。
男の思想であったら、正しいのか。男は、正しい生き物なのか。正しいことが、そんなにすばらしいことなのか。そうやって「俺は正しい、これでいい」という自覚を手離そうとしないから、インポになるのだ。
頭の程度の低いやつにかぎって、そういうかっこつけたことを言いたがる。
そんないじましい自己肯定などさっさと捨てて、自分がいかにグロテスクでみすぼらしい存在であるかということに身悶えすれば、インポもきっと直る。勃起するとは、身体(=自然)を支配しないことであり、世界の不思議を前にして驚きときめくことだ。
勃起することが、エコロジーだ。
まあ、それが結論というわけでもないけど、今日はこのへんでやめておきます。