村人と漂泊する異人の関係

小松和彦氏の「異人殺しのフォークロア」という論文の締めくくりの一節です。
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それはひと言でいえば、民族社会内部のつじつま合わせのために語り出されるものであって、「異人」にたいする潜在的な民俗社会の人々の恐怖心と“排除”の思想によって支えられているフォークロアである。「異人」とは民俗社会の人々から「しるしづけ」を賦与された者である。そして「異人」は、社会のシステムを運営してゆくために、具体的行動のレベルでもその“暴力“と“排除”の犠牲になり、また象徴的・思弁的レベルでもその“暴力”と“排除”の犠牲されていたわけである。つまり、民俗社会は外部の存在たる「異人」に対して門戸を閉ざして交通を拒絶しているのではなく、社会の生命を維持するために「異人」をいったん吸収したのちに、社会の外に吐き出すのである。
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旅の僧や琵琶法師は、共同体によって「吸収される」のではなく、その身分の出発に際して、まず共同体から「出て行った」人たちです。彼らは、本質的に共同体から「出て行く」存在であって、「吸収される」存在ではない。そういう彼らを殺すということは、共同体から出て行かせない行為です。
異人にたいする「恐怖心と排除の思想」は、異人を共同体の外に出て行かせない。出て行かせないで、共同体の内部で抹殺してしまう、つまり「社会の外に吐き出さない」のが、「異人殺し」です。異人を排除するとは、出て行かせないことです。
すくなくとも旅の僧や琵琶法師は、もともと「出て行く」存在であるのだから、排除する必要がない。したがって、民俗社会の人々に、彼らを排除しようとする衝動が起きることは論理的にありえない。彼らは、共同体に排除されたのではなく、出て行った人たちです。
共同体に排除された存在とは、飼い殺しにされたり、じっさいに殺された人たちです。つまり民俗社会の人々だって、支配者=共同体に排除されてある「異人」なのだ。
訪れ来たる異人は共同体の生贄として殺され、民俗社会の人々は、被支配者にさせられるというかたちで、ともに支配者から排除されている。非支配者にさせられるということじたいが、生贄されることでもある、といえる。
排除するとは、ひとつのサディズムであり、それは、支配するというサディズムの別名にほかならない。他者を、被支配のがわに排除すること、「関係を壊す」というかたちで関係してゆくこと、それが小松氏の言う「暴力と排除」をするサディズムです。
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しかし前近代の民俗社会の人々と、そこを訪れる旅の僧や琵琶法師といった漂泊者は、たがいの「嘆き」を癒しあうことによってカタルシスを汲み上げてゆく、という関係をつくっていた。両者は、「嘆き」それじたいを止揚してゆくことによってカタルシスを汲み上げていた。そういう関係だった。民俗社会の人々は「みんなで貧乏しよう」という合言葉を持ち、旅の僧や琵琶法師も、さらに低いところに立って施しを受ける身分であることの「嘆き」を手離さなかった。
それにたいして「嘆き」を排除してゆくことをみずからのアイデンティティとして存在している支配者は、それらの者たちとの「関係を壊す」という関係によって、浄化というカタルシスを汲み上げていた。
前者がたがいに浄化されるという受動的な関係であったとすれば、後者は、能動的にみずからを浄化してゆく。後者は、たえず他者を消去してゆく。消去することによってカタルシスを汲み上げる(浄化される)。彼らはそうやって他者を喪失しつつ、しかも消去する対象としての他者を必要としている。その循環構造が、強迫観念になってゆく。「「関係を壊す」というかたちで「関係をつくってゆく」という循環構造、そこから生まれてくる強迫観念が「異人殺し」をするのだ。
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民俗社会の人々が支配を受け入れた存在であるとすれば、旅の僧や琵琶法師は、支配から逃れて漂泊していった存在です。旅の僧や琵琶法師は、民俗社会の人々の支配されてあることの「嘆き」を癒すために村を訪れ、民俗社会の人々は、旅の僧や琵琶法師の漂泊の「嘆き」をいっとき癒す存在として彼らを迎え入れた。そうやって両者は、たがいの嘆きがカタルシスへと浄化されてゆく体験を与えあっていた。
したがって民俗社会の人々に、旅の僧や琵琶法師という異人にたいして「恐怖心と排除の思想」を抱くべき理由などなかった。
「恐怖心と排除の思想」は、支配層におけるみずからの支配が、そうした関係から否定される強迫観念としてはたらいていた。支配層にとって旅の僧や琵琶法師という異人は、民俗社会にたいするみずからの支配を否定する存在であり、「異人殺し」は、その強迫観念から起きる。あるいは民俗社会の一員でありながら、そうした異人との関係を喪失したときに起きる。
異人にたいして「浄化される」という受動的な関係を喪失し、みずから能動的に浄化してゆこうとするときに「異人殺し」が起きる。彼らは、他者を喪失しつつ、誰よりも深く他者との関係に幽閉されてしまっている。
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あいつらは汚らしくてあつかましいだけのただの「たかり」だと決めつけること、すなわち小松氏のいう「しるしづけ」は、民俗社会ではなく、まず支配層においてなされるのです。そこから、支配の圧力とともに民俗社会に下りてくる。それは、支配者特有のサディズム=強迫観念であるとともに、近代の市民意識でもある。近代においては、支配者と市民が結託している。支配者が市民でもある。市民が支配者でもある。だから、スーパーに同じかたちをした胡瓜ばかりが並ぶことになるし、一部の若者によるホームレス虐待という現象も生まれてくる。
スーパーに同じかたちの胡瓜ばかりが並ぶということは、変なかたちの胡瓜を捨ててしまうということです。大人たちは、そんな胡瓜は売り物にならないと「しるしづけ」をし、捨ててしまう。そしてその若者たちもまた、大人たちが変なかたちの胡瓜を捨てるように、ホームレスを虐待してもいいと思っていた。まず支配者や親たちがそういう「しるしづけ」をし、その意識が若者のところに下りていった結果なのだ。
まあ誰の中にも、多かれ少なかれ他者にたいするサディスティックな意識はあるのだろうが、前近代における「支配者」=「民俗社会の人々」=「漂泊する異人」という関係は、ひとまずその意識が支配者のところにより集中する構造になっており、民俗社会にはまだまだ色濃く「まれびと信仰」が残っていた。
民俗社会の人々は「異人殺し」をしたであろう家の「しるしづけ」はしたが、旅の僧や琵琶法師などの漂泊する異人にたいするそんな意識は希薄だった。ないとはいわないが、根源的にはあくまで「まれびと信仰」とともに生きていたのだ。