「異人」のいる風景

戦後の日本は、ひどい時代だった。人々の意識は荒廃し、物はなく、戦争の傷跡は人の心にも体にも街の景色にも、いたるところに残っていた。
団塊世代はそんな状況の中で生まれ、そして育っていったのです。ろくな人間になるはずがない。
しかし、不思議なものです。まるで中世のようにすべてが荒廃し混沌としていた時代に生まれた者たちが大人になった50年か60年で、世の中は、いつの時代にも増して清潔で正しくなければならないという強迫観念が覆い尽くしてしまっている。
べつに立小便やタバコのポイ捨てがいいことだとは思わないが、そんなことは人間以下の犬畜生のすることだといわんばかりに忌み嫌う強迫観念も、なんだか気味が悪い。
しかしそういう世の中を、立小便やタバコのポイ捨てがあたりまえの時代に生まれ育った人たちが率先してつくってきたのですからね。たった50年や60年で、世の中はそんなにも変わるものだろうか。たぶん彼らは、幼いころのそういう荒廃や混沌にたいする負の感情をトラウマとして抱えており、それをばねとして現代社会をつくっているのかもしれない。そういう時代に生まれ育った人たちだからこそ、こういう時代をつくっているのかもしれない。まあそのあたりの因果関係は考えるととてもややこしいものがあるのだが、一種の成り上がり者根性かな、と思わないでもない。田舎者や成り上がり者ほど、贅沢で都会的な暮らしにこだわる。
一方僕のように戦後世界の荒廃や混沌と和解してゆく幼児体験を持ってしまった者は、現代社会の清潔さや正しさにどうしてもついてゆけない。その清潔さや正しさにリアリティを感じることができないのです。自分も清潔さや正しさを身につけてゆくということが、どうしてもうまくできない。
「すずめ百まで踊り忘れず」「三つ子の魂、死ぬまで」・・・・・・まあ、そんなようなことです。僕は、この世界の荒廃や混沌と和解してしまったから、清潔で正しくあることのできない自分を引きずって生きてゆくしかなかった。僕がつい立小便をしてしまったら、あんな時代に生まれてしまったのだもの、どうか堪忍してください、というしかない。
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僕は、死装束で手足のない「傷痍軍人」の乞食を、どこかしらで神の姿として見てしまっている。50年前のあのとき抱いた「畏れ」は、今でも残っている。たぶん、死ぬまで消せない。
だから、「異人論」を書いた小松和彦氏の「民俗社会の人々は、その心性の根底において、異人にたいする恐怖心と排除の思想を抱いている」などというような安直な分析に出会うと、胸がむかむかしてくる。そんな意識は、タバコのポイ捨てを忌み嫌う現代人の強迫観念と同じものだ。小松氏は、団塊世代真っ只中の人らしいが、まさしくそれは、荒廃や混沌にたいする負の感情をトラウマとして生きている団塊根性そのものを晒している分析なのだ。
おまえらがそんなちんけな分析ばかりしているから、スーパーマーケットに同じかたちをした胡瓜ばかり並ぶ世の中になっちまったのだ。小松氏のいう「(民族社会は)社会の生命を維持するために異人をいったん吸収したのちに社会の外に吐き出すのである」という分析など、「異人=ぶさいくな胡瓜」をいったんベルトコンベアーに乗せておいてふるい落としてゆくという作業とどれほどのちがいがあろうか。
小松和彦氏の「異人殺しのフォークロア」という論文の締めくくりの一節です。
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それはひと言でいえば、民族社会内部のつじつま合わせのために語り出されるものであって、「異人」にたいする潜在的な民俗社会の人々の恐怖心と“排除”の思想によって支えられているフォークロアである。「異人」とは民俗社会の人々から「しるしづけ」を賦与された者である。そして「異人」は、社会のシステムを運営してゆくために、具体的行動のレベルでもその“暴力“と“排除”の犠牲になり、また象徴的・思弁的レベルでもその“暴力”と“排除”の犠牲されていたわけである。つまり、民俗社会は外部の存在たる「異人」に対して門戸を閉ざして交通を拒絶しているのではなく、社会の生命を維持するために「異人」をいったん吸収したのちに、社会の外に吐き出すのである。
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乞食姿の異人を「まれびと」として迎える前近代の民族社会の心性は、傷痍軍人を前にした幼い僕のなかにも残っていた。そのことを自覚するからこそ僕は、「異人にたいする民俗社会の人々の恐怖心と排除の思想」などとえらそげに言われると、自分の存在そのものを否定されたような不安と怒りを覚える。
50年前の伊勢の街角で僕は、その傷痍軍人の姿に、息が詰まるほど怖がりながら、深く魅入られてもいたのだ。その体験の記憶はおそらく死ぬまで残るだろうし、現代の若者たちの心性とは別のものだとも思わない。それは、民俗社会の歴史と伝統なのだ。団塊世代がいったん屠り去ったそれは、現代の若者たちの、大人や世の中を怖がったりうんざりしたりしつつどこか人なつっこい心性としてよみがえりつつある。
彼らは、決して他者を支配しようとしない。しかし団塊世代の支配欲権力欲は、あきれるほど旺盛である。「いったん吸収する」とか「吐き出す」とか、民族社会の人びとがそんなふうに「異人」を支配し動かしていたなんて、よく言えるものだ。そういう言い方分析の仕方をするということじたい、分析者じしんの支配欲権力欲を晒しているのだ。よくそんな卑しい目で他人を見ることができるものだ。