「かちかち山」のカタルシス・2

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昔々、三人の娘を持った爺がいて、つらい畑仕事に耐えかねて「この仕事を手伝ってくれる者がいたら、娘を嫁にくれてやるのに」とつぶやいた。するとそれを聞きつけた猿がやってきて、畑仕事をかたづけてやり、約束だから娘を嫁にくれと迫る。しょうがないから爺は、家に帰って娘たちにそれを頼んだところ、上の二人は頑としていやだといい、いちばん下の親思いの娘が、それを承知した。そして迎えにきた猿に、里帰りのときに餅を土産にしたいからといって重い臼を背負わせたあげく、途中の谷川のそばで、あの桜の枝を取って欲しいとせがむ。お安い御用と猿は桜の木に昇るが、背負った臼の重さのために枝が折れ、谷川に落ちて溺れ死んでしまう。で、娘は大喜びで家に帰り、爺とのもとの暮らしに戻った。めでたし、めでたし。
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その猿は、おじいさんと取引をして、おじいさんの娘を嫁にした。
それは、正当な取引だった、と「異人論」(ちくま学芸文庫)の著者である小松和彦氏はいう。
じゃあ、正当な取引であれば、猿が人間の娘を嫁にしてもいいのか。
この世の中には、「規範」というものがある。共同体は、規範としての「法」をつくる。それによって共同体の秩序が守られている。
法を犯せば、法によって罰せられる。それが、共同体の正義です。どんないい人でも、法を犯せば、罰せられる。
法を守らない人間は、悪人である。おじいさんは、正当な取引にしたがって、娘を猿の嫁に差し出さなければならない。
つまり、小松氏は、たとえば金貸しが貸した金の「かた」にそこの家財道具を持ってゆくのは当然の権利である、と言っているのです。昔なら、家財道具など持っていないから、労働力として子供を連れてゆく。たしかに当然の権利かもしれないが、何もそこまでしなくても、と思うのも人情でしょう。
しかし小松氏は、まさにあこぎな金貸しのごとく、それは当然の権利だという。
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「猿と爺の間でなされた交換は正当な等価交換であった。猿のがわに責められるべき理由はないし、まして殺される理由などまったくない。昔話テキストを隈なく読んでそうした理由を見いだそうとしても無駄であろう。猿は約束どおり、爺から娘を嫁にもらい、嫁のいうことを喜んで聞き入れて重い臼や杵を背負って自分の住む山に帰ってゆく。さらに谷川で美しい花が欲しいという嫁の希望を聞き入れ、危険を冒してまでその木に登る。猿のこうした姿には、嫁に気に入ってもらおうとする涙ぐましい努力が滲み出ている。まちがいなく、この猿婿は心やさしい婿なのである。そして嫁もまた、猿婿が心やさしい婿であることを充分に承知していた。承知していたからこそ、その心のやさしさに乗じて、猿を欺くことができたのである」
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僕は、この解説を読みながら、吐き気がするほどの不快感をおぼえた。猿の気持ちがどうのという前に、解説者の意地汚い市民意識がむんむん臭ってくる。これをそういう話として読むことじたい、この解説者の品性の下劣さと想像力の貧しさを晒しているのだ。
「正当な等価交換」であれば、猿の分際で人間の若い娘を手に入れようとしてもいいのか。いやしくも象牙の塔の研究者ともあろう人が、ホリエモンと同じレベルのグロテスクなことを言って威張っていやがる。
正義であれば、何をしてもいいのか。「人買い」は、「正当な等価交換」で娘を連れてゆく。それはたしかに正当なことだが、しかし「まちがいなく心やさしい」人物がするか。僕は、そうは思わないし、おそらくその話を語り伝えていった民俗社会の人々も同じだったにちがいない。そんなえげつない猿なんか殺してしまえ、と思うのが普通の庶民の人情だ。たかが畑仕事を手伝ったくらいで、見返りを要求するか。民俗社会の人々はそんなことはしない。僕だってしない。ましてや相手は、鍬を持つ手も震えているであろう老人ではないか。
猿婿が娘の要求を聞き入れたのは、娘の心からの承諾を得ているわけではない、というやましさがあるからだ。娘も、猿のそういう気持を知っていたから、要求した。
つまり物語の作者はここで、娘の要求の理不尽さではなく、この社会における「正当な等価交換」そのものの理不尽さを語っているのだ。
そういう正当な社会の「規範」に押しつぶされて、泣く泣く娘を下女に差し出したり女郎として売ってしまうほかない民俗社会の暮らしを、小松氏は、なんと思っているのか。この話のそういう「主題」や「構造」が読めなくて、なにが研究者か。
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時代劇の百姓一揆のシーンで、よく「徳政」と書かれた筵(むしろ)旗がでてきます。
徳政とは、年貢を軽減するとか、今までの貸借関係をなしにするとか、罪人の罪を軽くしたり釈放したりするとか、そういうかたちで一種の「世直し」をすることです。大地震や大火事や疫病の流行などの天変地異が起きたときに、よく「徳政令」が出されていたらしい。それは、国単位のときもあれば、藩や領地のレベルで出されることもあった。
そのような天変地異が起きたのに徳政令を出さないと、百姓が怒って一揆を起こす。だから、支配者も出さざるをえない。そういう風潮もあったらしい。
たとえば、大地震や大火事が起きたとき、今までいばっていた者がなんの役にも立たなかったり、逆にふだんぼんやりしている人が意外と頼りになったりと、それまでの人間関係が変わってしまうことがよくある。そのとき真っ先に逃げてしまった支配者が、村が落ち着いてきたころに戻ってきて、さあもとのように年貢を収めよ、俺の言うことを聞け、と命令しても村人が承知するはずがない。一揆を起こしてそういう支配者を村からたたき出してしまう、ということはよくあったらしい。
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天変地異が起きると、「世直し」の気運が盛り上がる。
それは、天変地異によって人間関係が変わってしまうということと、それによってふだんの暮らしの矛盾が一挙に露出しまう、ということがあります。
社会は、正当な等価交換であれば、法に違反しなければ何をしてもいい、ということで動いてゆくことのゆがみを絶えず蓄積させていっている。
貧乏人がばかを見る世の中、などという言い方があるが、秩序をつくることは、秩序がゆがんでゆくことでもあるのです。
正当な等価交換とやらで、借金のかたに土地を取られてしまった百姓。借りた金を返しにいったら、膨大な利子がついて、返すに返せなくなってしまっていた。そんなかたちで商人から土地を取り上げられる。そういう百姓がたくさんいたのです。
いつの年も豊作というわけにはいかない。「正当な等価交換」という法=商人の論理によって、富める者はますます富み、零細な百姓はどんどん小作人に零落してゆく。それが、前近代の歴史です。
元金を返したら土地も返してもらえるようにしてくれ、あるいは、娘の年季奉公も最初の約束のとおり五年で終わりにしてくれ・・・・・・こうしたことも百姓一揆の大切な要求のひとつであり、そうやってときどき「世直し」というかたちで、いったん秩序を壊さなければ秩序を保てないのが社会というものだったのです。正当であれば何してもいいというようなことばかり言っていると、どんどん支配者や商人がのさばりかえる世の中になってしまう。
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正当な等価交換であれば、猿が人間の娘を嫁にしてもいいのか。正当な等価交換であれば、そこの家の土地を取り上げ、娘を奴隷のように働かせてもいいのか。前近代においてはそうやって泣かされている零細な百姓がたくさんいたのであり、「猿婿」の話はそういう「民俗社会」から生まれてきたのです。
民俗社会は、小松氏の言うような「頭のいいやつが勝ちなんだ」というような論理で動いていたわけではない。むしろそういう商人や支配者にいつも泣かされていたのであり、だからあちこちで一揆が起き、支配者はときに「徳政令」を出さなければならなかったのだ。
「猿婿」の話の主題は、民俗社会の人々の「徳政令」を待ち望む心の表現にある。
なにが、「民俗社会の異人にたいする悪意」だ。なにが「民俗社会の人々は知恵のあるやつこそ人生の勝利者だと思っていた」だ。こういう解釈(分析)は、下品で卑しい、と僕は思う。