異人論・「かちかち山」のカタルシス

「異人論(ちくま学芸文庫小松和彦・著」、という本にたいする感想です。
動物や妖怪といった異人に結婚を迫られた娘が、その相手をうまく罠にかけて殺してしまう・・・・・・そのようなパターンの民話が数多くある。
そしてこれらの話こそ「民俗社会の人々における異人に対する恐怖心と排除の思想」を「主題」にしているのだ、と小松氏はいう。
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昔々、三人の娘を持った爺がいて、つらい畑仕事に耐えかねて「この仕事を手伝ってくれる者がいたら、娘を嫁にくれてやるのに」とつぶやいた。するとそれを聞きつけた猿がやってきて、畑仕事をかたづけてやり、約束だから娘を嫁にくれと迫る。しょうがないから爺は、家に帰って娘たちにそれを頼んだところ、上の二人は頑としていやだといい、いちばん下の親思いの娘が、それを承知した。そして迎えにきた猿に、里帰りのときに餅を土産にしたいからといって重い臼を背負わせたあげく、途中の谷川のそばで、あの桜の枝を取って欲しいとせがむ。お安い御用と猿は桜の木に昇るが、背負った臼の重さのために枝が折れ、谷川に落ちて溺れ死んでしまう。で、娘は大喜びで家に帰り、爺とのもとの暮らしに戻った。めでたし、めでたし。
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この話の主題は、どこにあるのか。
一般の民話愛好家たちのおそらく共通認識であろう「親孝行な娘の話」というだけではすまない、という小松氏の説明は確かにそうだと思います。しかし、そのわけを次のようにいわれると、はたしてそうだろうかと首をひねってしまいます。
「こうした解釈では、この昔話テキストのもっとも重要な部分である、正当な手続きを経て手に入れた嫁の婿にたいする裏切り、嫁による猿婿殺しというモティーフの重要さをまったく無視してしまっている」
一読しただけでは、疑う余地のないことをいっているようだが、ほんとうにこの猿は、「正当な手続き」を経たのでしょうか。
このテキストを正確に読むためには構造主義的な分析が必要である、というが、彼の解釈だって、表面的な文意をなぞっているだけで、「構造」にまで掘り進んでいない、と思えます。というか、これが「正当な手続き」だというのは彼の勝手な解釈で、おそらく民俗社会におけるこの話の話者と聴衆は「不当だ」と感じていた。僕だって、ずいぶん理不尽な取引だと思う。
そうやって困っている人(家)があれば、まわりの者が無償で力を貸してやるのが村の習俗です。縄文人ネアンデルタール身体障害者を介護していたとき以来の、それが人間の歴史でしょう。たかが畑仕事を手伝うくらいのことを恩に着せて代償を要求するのは、村の習俗から逸脱した卑劣な態度です。
この物語の猿は「善意の人である」、と小松氏はいう。冗談じゃない。善意の人が、たかが畑仕事を手伝ったくらいで代償を要求するか?おまえには、人の手助けをしたという満足感はないのか?人の弱みに付け込んだあげく、猿の分際で、人間の若い娘を嫁にしようとするか?
人間の若い娘が猿の嫁になるなんて、耐えられることじゃないでしょう。生物学的には娘が妊娠することはありえないらしいが、この話を聞いている村の若い娘がわが身のこととしてイメージしたら、そりゃあもう、ぞっとするほどおぞましいことにちがいない。
だから、上の二人の娘は、頑として拒んだ。小松氏のいうように、ただ親不孝だったからというだけではない。若い娘にとってそれがいかに耐えられないことかという説明のためにも上の二人が登場する必要があったのであり、それは、話を盛り上げるための常套的なテクニックじゃないですか。
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この話のもっとも主要なテーマは、「村人の異人(よそ者)に対する悪意」にある、と小松氏は力説する。ほんらいは、心やさしい猿が人間の悪知恵によって殺されたという悲惨な話なのに、「めでたしめでたし」の話になってしまった。それは、民俗社会が、そのような論理のすり替えを正義とする共通認識を持っているからだ、という。
で、次のように続けます。
「つまり、知恵のある者こそが人生の勝利者だと暗にほのめかせているのである。そしてその理由を持って、猿婿の悲しむべき死を当然のものとして認めさせようとしているのである。だが、そうした人間の知恵を持ち出して「異類」への犯罪を肯定してしまおうとするところに、じつはかえってこの昔話テキストの創作者、つまり民俗社会という「主体」の意図=思考が浮かび上がってきているように私には思われる。」
ずいぶん人をばかにした話です。異人なんか、ペテンにかけてだましてしまえばいい。それが民俗社会の正義であり、人生の勝利者になる道だ・・・・・・そういう思想が定着するくらい民俗社会(村人)の異人にたいする悪意は根深いのだ、と言っているのです。
よくこんな下品で卑しい解釈ができるものだ。この人は、いったいどういう人格をしているのだろう。こんなえげつない論理のすり替えがこの話のカタルシスになっているなんて、民俗社会の心性を愚弄している。あなたは、こんなことでカタルシスを持つことができるのか。俺はそういう人種じゃない、というのなら、いったい何様のつもりなのだ。民俗社会の人々だって、そんな愚劣であるだけの行為に拍手するはずないじゃないか。
知恵なんか関係ない。僕だって、娘のやったことには、無条件で拍手を送りたい気持になる。この話の展開は、小松氏がいうような「論理のすり替え」などというもってまわった観念(制度性)ではなく、話者も聞き手も無条件で拍手を送りたくなる気持になれる要素を持っている。そこにこそ、この話ならではのカタルシスと、長く広く語り伝えられてきた人気の由縁があるのだ。
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「知恵のある者こそ人生の勝利者だ」などといういやらしい人生観は、民俗社会から逸脱して共同体の中心でのさばっている者たち、すなわち領主とか富裕な商人たちの論理なのだ。民俗社会の人々は、いつだって彼らの「知恵」にしてやられて生きていたのです。そんなえげつない人生観を持っている者たちが、草を食み地を這うような暮らしの歴史を歩んだりするものか。
この話を語っている民俗社会の人々は、なんにもすり替えなんかしていない。本気で、純粋に「めでたしめでたし」と思っているのだ。知恵をはたらかせたのは、娘がそれほどにか弱い身であったからだ。そうして、たとえばジャンヌ・ダルクのように、決然として猿婿を殺したのだ。そこにこそ、この物語のカタルシスがある。
川に落ちた猿は、「命は惜しくないが、あとで娘が泣くのが不憫だ」と叫びながら、岸にたどり着こうとします。しかし娘は「誰が泣くものか、おまえなんか、さっさと死んでしまえ」と言って突き放します。そしてとうとう流れに飲み込まれて溺れ死んでしまう、という結末です。
それはもう、知恵がどうのという理屈を捏造しているような殺し方ではない。あえて言うなら、若い娘の生理的な嫌悪であり、断固としてその理不尽な結婚を拒否しているのだ。
猿婿の死が当然だということは、話者が「認めさせる」までもなく、はじめから誰もが思っている。これは、サルの知恵にしてやられたことにたいする復讐なのです。「知恵のある者こそ人生の勝利者だ」などという論理は、猿の方にあったのだ。
すなわち、この話に登場する猿は、村の中心に居座る領主とか富裕な商人などの、村を支配する立場の者を象徴しているのだ。
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民俗社会は、小松氏のいうような「異人にたいする悪意」だけを根底に据えて動いているのではない。
そりゃあ、ときには油断のならないよそ者もやってくるだろうが、ほとんどは、味気ない村の暮らしにうるおいをもたらしてくれる旅の聖とか旅芸人とか行商人であったはずです。
異人を殺したら、ただではすまない。かならずたたりがある。「めでたしめでたし」ですむものか。それが、「民俗社会」の論理です。
この猿によって擬人化された対象は、すくなくともそのようなたぐいの「異人(よそ者)」ではない。
おそらく、村の貧しさから生まれたある事件があったのだ。あるいは、そういう話が生まれてくるような「情況」があったのだ。
たとえば、長者とかに借りた金が返せなくなって、代わりに娘を年季奉公の下女によこせと迫られる。で、泣く泣く娘を差し出す。あるいは娘を女郎に売らざるをえないとか、そんなようなことはいくらでもあったはずです。さらには、年貢が払えなくて、領主の囲い者にさせられる、とか。
もしかしたら、そうやって連れて行かれた人買いを、娘が、村を出たところで殺して逃げ帰ってきた、というようなことがじっさいにあったのかもしれない。
だが、そんな話を村人が語り継ぐことはできない。だから、猿婿の話に脚色してカムフラージュした。
そういう村の貧しさと商人や支配者の理不尽さにたいする抵抗こそ、この話の「テーマ(主題)」であり「構造」だったのではないでしょうか。
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小松氏の力説する「異人に対する悪意」などという短絡的な解釈で、「構造分析」だといわれても困ります。そのていどの意味は、物語の表面にあらわれている見え見えの主題(テーマ)であり、誰にだってわかる「前提」に過ぎない。問題は、その先その裏にあるのだ。
異人を殺せば、たたりがある。ところが、猿婿の話やかちかち山は、「めでたしめでたし」であった。それは、猿や狸が、琵琶法師や旅の僧などの「まれびと」としての異人ではなく、自分たちを苦しめる権力者や商人を象徴する存在だったからでしょう。
「猿蟹合戦」だってそうです。蟹が柿の種と引き換えにおむすびを巻き上げられる話は、領主の年貢の取立てがいっそうあくどくなったことのメタファーとして読むこともできます。おむすびとは、年貢米のことだ。そして最後の結末は、一揆への願望であるのかもしれない。つまり、こういう話が村の中で語り継がれてゆくうちに、やがて現実の事件として起きてきた、という歴史の側面もあるように思えます。
権力者や商人を、猿や狸に見立てる。いかにも庶民の考えそうなことだ。
僕だって、政治家や会社の社長の顔は、みんな猿か狸に見えてしまう。