若者論としてのザ・フー・14

ザ・フー論は、ひとまず今日で終わりです。ほんの少しだったとしても、ザ・フーのファンの誰かが読んでくれているという感触を持つことができたのは、すごくうれしかったです。
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ビートルズは、「ラブ・ミー・ドゥ」とささやき「プリーズ・プリーズ・ミー」と叫びながら、世界中の社会に出てゆくためのトレーニングをしている若者たちを魅了していった。資本主義が元気だったあの時代には、そういう歌が有効であり必要だったのだろう。まあそれだけのことだ。そして「愛こそはすべて」という曲とともにビートルズが解散していったのは、何か象徴的であった。
すくなくとも現在の「女なんかいらない」とつぶやく秋葉系ニートの若者や平気で風俗産業に走る少女たちに、「愛こそはすべて」というメッセージは無力である。前者は、生身の女を遠ざけてアニメやゲームのキャラクターとの不器用な恋に熱中する。またその一方で現在ではじつに安直にくっつきあっている男女もいて、少女たちが簡単に風俗産業に走ることができるのもけっきょくは安直に男女関係を受け入れてしまっているからであり、とにかくそういうかたちで男にかまってもらいたいという満たされない思いもあるのだろう。そうして「世界の中心で愛を叫ぶ」だのというベタな恋物語がもてはやされるのもそういう恋愛が困難な時代だからであろうし、現在のこの国の若者たちは六十年代イギリスのストリートの若者と同様、「愛という関係」にたいする拒否反応を抱きつつ、しかも「ひとりぼっちじゃいられない」のだ。
ピート・タウンゼントのロックアーティストとしての才能がいかに優れているかということは、どれほど言っても言い過ぎということにはならないと思える。作詞、作曲、アレンジ、プロデュース、ライブ演奏の凄み、そのオールマイティーぶりがジョン・レノンポール・マッカートニーの比ではないという声は、最近あちこちで聞かれるようになってきている。しかしもっとも評価されるべき部分は、なんといってもデビュー以来四十年間、最後までストリートの若者に向かってメッセージを発信しつつ誰よりも「ロックし続けてきた」ことにあるのかもしれない。それはつまり、ただピート・タウンゼントの純情とか誠実さということに加えて、四十年経った今なおこの世界にはストリートの若者の群れが存在し、もしかしたら増えつつあるくらいだという現実があるからだろう。
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近代的な都市における「若者がストリート化する」という現象は六十年代のイギリスで発生し、いま資本主義のグローバル化とともに世界中に広がってきている。この国のニートやフリーターも、一種の「ストリート化」であろう。ザ・フーがデビューしたころは、世界的にはビートルズのメッセージに先導されるように若者は社会に反抗し社会を変えようとしている時代であり、「モッズ」のように社会に背を向け社会を笑いとばしてしまうことをライフスタイルとする若者の群れがひとつのムーブメントを形成していたのは、むしろイギリスの都市の特殊性だった。
そのころフランスで「大人はわかってくれない」という映画がつくられ世界中の若者の共感を呼んだが、すでに資本主義が疲弊してしまっているイギリスの都市の若者たちは「俺たちのこと理解しようとするなよ」と、それすらも拒否していた。社会を拒否することはひとつのミーイズムであり、現代の「ゲーム世代」といわれる若者たちのそれは、じつはこの六十年代イギリスの都市ですでにめばえていたのだ。たとえば彼らにとってのインターネットは、愛を拒否しつつもひとりぼっちじゃいられないというメンタリティを癒す場であることにおいて、ひとつの「ストリート」にほかならない。
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ボブ・ディランは名曲「時代は変わる」のなかで、「一周遅れに見えているランナーこそ、じつはトップランナーとしてすでに次の時代を走り出しているのかもしれない」といっている。そういう意味で、あのころ一周遅れに見えていたイギリスこそが世界でもっとも先鋭的な若者を抱えていたのだ。だからこそブリティッシュロックの旋風が世界を席巻していったわけで、そのようにもっとも先鋭的な若者ともっとも時代遅れで疲弊し退廃してしまっている大人たちとの世代間の対立が際立っていたのが「マイ・ジェネレイション」が生まれた背景だった。そして「マイ・ジェネレイション」がそのもっとも先鋭的な若者たちに支持されたということは、それじたい世界を置き去りにしてしまっていることであり、だから世界的なヒットになることができなかったのだし、まただからこそ四十年後のこの国の若者に見直されることにもなっているのだろう。
もっとも先鋭的なミーイズムは、時代も社会もそして普遍的な愛の概念をも拒否する。それが、ザ・フーのラブソングである。この時代におけるこの生の体験は、未来の人間とも過去の人間たちとも共有できないし、世界のどこの人間とも共有できない。たとえ同じ場所で同じ時代を生きたとしても、「私」は「あなた」ではないし「彼」でも「彼女」でも「あのひと」でもない。そういうたった一人のたった一つの生を揺さぶったり宥めたりするのが、ロックなのだ。
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われわれが社会も時代も関係ないと思うのは社会や時代のなかで生きているからであり、鬱陶しいと思うからである。鬱陶しいと思って社会や時代を拒否することは、社会や時代を変えようとも壊そうともしないというかたちでそれを肯定してしまうことでもある。そういう不条理性と向き合っているときのひりひりする感情から生まれてくるのがロックなのであって、社会や世界を変えるのがロックなのではない。そんなことは、社会や時代をいじくりまわすことが好きな、商人や政治家や思想家や科学者や宗教家やワイドショーのレポーターやPTAや市役所のボランティア係にでも任せておけばよい。
ロックに夢中になる若者にとって、未来の人間や過去の人間や世界中の人間と共有する普遍的な「ラブ・イズ・フィール」というスローガンなどどうでもいい。「私」の愛が世界中の人間と同じように「ラブ・イズ・フィール」ですむのなら、「あなた」を愛する意味も充実もないではないか。誰を愛したって同じことだろう。「あなた」でないといけない理由は、けっして「ラブ・イズ・フィール」にあるのではない。
ピート・タウンゼントは「なにかにしがみついてなきゃロックじゃない」といっている。しがみつかずにいられない寂しさがないのならロックなど必要ない。「私」が「あなた」にしがみつくわけは、「私」だけの理由があるからだ。それは、「あなた」が美しいからでもやさしいからでもない。「あなたと出会った」からだ。「ロック」とは、そうしたたった一回きりの出会いの純粋でのっぴきならない驚きであり、ときめきにほかならない。
普遍的な恋愛のかたちなどないのだ。クールであろうとホットであろうと、ドラマチックであろうと刹那的であろうと、肉欲的であろうとプラトニックであろうと、そこで男と女が出会ったという体験の切実さは、どんな恋愛であるかということではなく、出会ったという事実そのものにある。あのころのザ・フーやイギリスのストリートの若者たちは、そういうことをわれわれに教えてくれる。