若者論としてのザ・フー・7

「ザ・フー」は「大センセーションを起こす気なんかないさ」といって社会そのものを拒否したが、大センセーションを起こしたビートルズのジョン・レノンはそれによってこの社会を変えようとし、ポール・マッカートニーはこの社会をもっとよくしようとした。
だからジョン・レノンは後年ニューヨークに移り、ポールはイギリスの田舎に住んだ。
ニューヨークは、いろんな意味で革命家の集まる街です。世界のあらゆる最先端が集まり、また9・11の爆破テロにしても一種の革命行為でしょう。
そしてイギリスの田舎は、古きよき階級社会がのどかに残存している場所です。
ジョン・レノンの「リボリューション」や「イマジン」は革命を夢想するニューヨーカーのにおいがするし、ポールの「イエスタデイ」のちょっと古風で美しいメロディはイギリスの田園風景がよく似合う。
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しかし「ザ・フー」のようなローカルなブリティッシュ・ロックが生まれたのは、そのどちらでもなく、ロンドンという伝統的な都市なのです。
人類最初の都市は、トルコで見つかった9千年前の遺跡にあるとされています。そこでは、2千戸、約8千人が暮らしていた。
それは、その地域の暮らしが豊かで繁殖が盛んになったからではない。人類の人口が爆発的に増え始めるのは、6千年前の農耕社会の誕生以後のことです。つまり9千年前は、そう急激な人口増加はなかったが、氷河期が明けて、人々の往来が活発になってきた時期であったために、そういう人々が一ヶ所に集まってしまうことがあった。それが、都市の誕生です。
トルコは、中近東から北上してくる人々と、ヨーロッパから南下してくる人々が出会う地域です。異人種との出会い、ですね。そういうことが起これば、それなりに好奇心が刺激され、たがいに関係しあっているうちに共同生活の技術が上がり、新しい言葉も生まれてきたりして、それ以上漂泊してゆこうとする衝動も薄れ、誰のなかにも、ここが行き止まりの地だ、という感慨が生まれてくる。
原始時代においては、繁殖によってではなく、「行き止まりの地」で人が増えるのです。
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都市とは、行き止まりの地のことです。漂泊者が、最後にたどり着く場所です。
したがってそういう都市の性格を世界でもっとも色濃く滲ませた60年代のロンドンの若者たちは、みずからの社会がいやでしょうがなかったのに、ロンドンから逃げ出してゆこうとはしなかった。若者が逃げ出してゆこうとしないのが本格的な都市であり、逃げ出したくなるのが田舎の村です。
成熟した都市の若者は、みずからの都市の歴史を否定しない。なぜならそこは「行き止まりの地」であるのだから、受け入れるしかないのです。彼らは、ストリートに集まって、懸命に自分たちの「居場所」をつくろうとしていた。そういう状況から、「マイ・ジェネレイション」という歌が生まれてきたのです。
それにたいして60年代の東京の若者たちは、東京の歴史を否定して、東京をつくり変えようとしていた。まあそうやって歴史を否定しょうとしたのが「ビートルズという精神」でもあったのだが、それは、田舎者や漂泊の途上にある無国籍者の精神なのです。
ロンドンの若者は、大人なんかいなくなってくれないことには自分の居場所を見つけられない心地で生きていたが、東京の若者は、大人より優位に立てば居心地がよくなると思っていた。それだけロンドンの若者のほうがじつは過激だったのであり、大人に取って代わろうとしていた東京の若者は、まだまだ田舎の村の構造そのままの気分で生きていたのです。
だから、成熟した都市から生まれたザ・フーのロックを拒否して、無国籍的なビートルズにとびついていった。それはもう、田舎の村を飛び出したがっている若者の気分そのものだった。
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世界にはばたいていったビートルズに、ザ、フーのような成熟した都市の若者の感性はなかった。
アメリカに上陸したのちのビートルズは、加速度的に歌詞もサウンドもブリティッシュ・ロックの枠を超えていった。それはたしかに偉大な才能であるのだろうが、負けず劣らず才能がありながらいつまでも変わることができないで本国でも人気の浮き沈みを繰り返したザ・フーに比べると、どこかしら都市の若者にはない、田舎者や無国籍者特有の上昇志向といったものも感じさせる。
社会に向かう意識が拒否反応を持つのではない。なぜなら社会に向かうということじたい、すでに社会を拒否していない。それは社会が存在することによって生まれてくる意識なのだから、原理的に拒否反応が生じる根拠を持たない。
社会を否定する意識は、社会にたいする拒否反応ではなく、それじたい社会意識です。拒否反応は、社会に向かわない意識に社会が覆い被さってきたときに生じる。したがってそれは、社会によっては生じない社会を知らない意識であり、すなわち社会意識とは別の次元の生きものとしての意識にほかならない。
つまりロンドンの若者は、大人たちと違う生きものとしての衝動の上に社会を模索していたが、東京の若者たちは、大人たちと同じ衝動で大人たちを超えようとしていた。
田舎の若者は、田舎社会にうんざりしながらも、その気持ちで都市という社会にあこがれる。しかし都市の若者におけるみずからの社会にたいする拒否反応は、ここが行き止まりだという意識があるぶん、もっと切羽詰っている。都市の若者に、憧れる社会などない。より本質的実存的に、みずからの居場所を「いまここ」において見つけようとしているだけだ。
そしてだからこそザ・フーは、ビートルズよりももっと知的であると同時に、もっと動物的でもあったのだ。
ビートルズが「リボリューション」と叫んでよりよい社会を目指すことと、田舎の若者が都会にあこがれることと、社会にたいする意識のスタンスにそう大きな違いがあるとは思えない。とにかくビートルズは社会の流れをよくわきまえていたし、それに沿って曲づくりをしながら社会をリードし、カリスマであり続けた。
それにたいして「ザ・フー」は、つねに都市の若者の気分を掬い上げながら、社会よりも、人間そのものを問い続けた。