団塊世代に人気がなかったザ・フー・7

早い話が、ビートルズが演奏活動をやめてしまったのは、自分たちの演奏技術に自信がなかったからだ・・・・・・といってしまえば実もふたもないのだが、それだけじゃない。聴衆を眺める視線が欠落していたのだ。ただうるさいだけのあほガキだと思っていた。どうしてあんなにも叫び狂わずにいられないのだろう、という彼らじしんの「反応」がなかった。べつにその心根に同情してやれとか、そんなことじゃない。ザ、フーのように、じゃあその嬌声と勝負してやろうじゃないか、という「反応」というか、ロック・ミュージシャンとしての心意気がなかったのだ。
ビートルズは、自分たちの音をまさぐるフェティシズムばかりが先行していた。
そして聴衆である日米の若者も、つねに、ビートルズが差し出してくる「ネクスト・ワン」に引きずられていった。彼らは、向き合うべき「いまここ」よりも、未来の「ネクスト・ワン」を待ち焦がれる心で生きていた。
今日よりも明日はもっとよくなる・・・・・・これが、戦後を生きてきた人々のスローガンであり、いつだって、今日よりも明日のほうに関心があった。そして、そういう意識に徹することは、アメリカのグローバル資本主義の推進力でもあった。
ザ・フーのライブ主義は、未来を拒否したり、未来の望みの薄い若者たちの「いまここ」を熱くし、ビートルズのアーティスト然としたレコードセールス主義は、早く大人になって大人に取って代わろうとしている日米の若者たちの、未来を待ち焦がれる意識を先導していった。
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ザ、フーのリーダーであると同時にリードギタリストでもあるピート・タウンゼントは、両親が音楽家である環境で育ったせいか、音にたいする敏感さと好奇心の強さの反面、既成のこぎれいな音にたいするコンプレックスやフェティシズムも希薄で、リードギターでありながらソロプレイとかメロディを弾くということをほとんどしたがらなかった。あくまでカッティング・プレイでリズムを刻みながらベースやドラムに突っかけてゆくことが多かった。そうしてテクニシャンであるベーシスト、ジョン・エントウィッスルが頃合をみてメロディラインを補って弾いてみたり、キース・ムーンのドラム独特のおもちゃ箱をひっくり返したようなタム回しの音がそのカッティングの隙間を埋めて絡まりついてゆくといった、まあほかのバンドには真似のできないダイナミックなアンサンブルが自然につくられていったらしい。
また初期のころのピートがたまに弾くソロプレイは、もう騒音としかいいようのない不協和音と紙一重の旋律をたどろうとする危うさとスリルがあった。騒音でありながらしかも音楽であること、音楽でありながらしかも騒音であること、この不条理性こそがロックだ。そう言っているような演奏をしていた。
つまりけっして音に淫しないで音と戯れる、そういう潔さと凄みがザ・フーのライブだった。
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ピート・タウンゼントは、マネージャーであるキット・ランバートの助言を得て、すでに二枚目のシングル「エニウエイ・エニハウ・エニウエア」で、当時のポップ・アートの潮流を意識した実験をしている。
デビュー間もない新人に与えられた劣悪な録音環境だったが、たとえばギターのフィードバックでモールス信号やナパーム弾のような音をつくって間奏に挿入しながら、端正でポップなフレーズと無秩序な騒音の洪水を交錯させてゆくといったアレンジを試みている。ビートルズが当時の最先端のテクノロジーを駆使して「サージャント・ペパーズ・ロンリーハーツ・クラブ・バンド」を発表する二年前のことである。
おそらくこのときビートルズにピートの実験的な音づくりに興味がなかったはずはないだろうし、彼らはそこでやっとポップアートを意識し始めたのだった。いずれにせよザ・フーは、もっとも野放図でストリート的なライヴをやっていたがゆえに、じつはビートルズ以上に知的でアーティスティックでもあったのだ。
そしてこの実験精神の延長で三枚目の「マイ・ジェネレイション」が生まれるのだが、これはランバートのマネージメント戦略によるもので、彼がピートに「このへんでストリートのオーディエンスと同盟を組むような声明を出そうじゃないか」と提言したのがきっかけだったらしい。
まあこの戦略の成功がザ・フーにとって幸せだったのか不幸だったのかは意見の分かれるところだが、もしもロック・ミュージックが若者の社会にたいする拒否反応を代弁するものだとすれば、その歴史に真っ先に刻まれるべき資格は、ビートルズのあまたあるどのヒット曲よりも「マイ・ジェネレーション」にこそある。およそ半世紀のロックの歴史で名曲といわれるものはいくらでも生まれたが、この曲ほどロックが持つ社会的時代的なスタンスを明確に示す作品はないだろうと思えます。