若者論としてのザ・フー・8

ビートルズ解散のころ、「ザ・フー」は、「トミー」というロックオペラをつくって大成功させている。そしてその主人公は、この世でもっとも非社会的な存在としての目も見えない耳も聞こえない話すこともできない少年だった。彼らにとっては、よりよい社会が実現することよりも、なにはともあれこのもっとも非社会的にしてもっとも動物的である少年がいかにして救われてゆくかということのほうがずっと切実なモチーフだったのです(僕じしんは、あまりこの作品は好きではないのだけれど、それはともかくとして)。
すれっからしの都市の若者は、革命など目指さない。それは、田舎の純情な若者が都会に出てきてやることだ。ビートルズリバプールというれっきとしたイギリスの都市の出身だが、やっぱり「ザ・フー」に比べるとどこか田舎くさい。ビートルズ解散以後平和運動に熱中したジョン・レノンは晩年「『愛こそはすべて』という気持ちは今でもある」と語り、つねに平和を目指す人たちとの連帯を願っていた。
一方そのすこし後に同じ中年といわれる年代にさしかかった「ザ・フー」は、あくまで社会と和解することを拒否するというスタンスで、次のように歌っている。



 「アナザー・トリッキーデイ」
社会危機だなんてとんでもない
あんた面白半分だろう
お日さまにのぼせているだけさ
ほんとうだよ、また一日あんたにややこしい日がやってくるだけさ
高望みしたってうまくいくとはかぎらないぜ
どうせくたばっちまうだけさ
手を突き出すなよ
みんなと一緒にいればいいのさ
泣くなってのが無理さ
そんなに高く飛ぼうとするなよ
その場でじっとしてればいいのさ
いろいろ勉強してる途中だったら、ただ踊ってりゃいいのさ
人生のために戦うなんて無意味なんじゃないの
用意を整え、火を起こそうよ、それしかないぜ
いいかげんに呑み込めよ
氷がどんなものかわかってるのかい
俺たちは、薄っぺらなその上をスケートして生きているんだぜ
何が社会危機なんだよ
また一日あんたにややこしい日がやってきただけじゃないか、なあ  
…                                                    

つぎからつぎに繰り出されるここでの「トリッキー」な暗喩は、目をみはるほど多彩です。しかしそのメッセージは、「マイ・ジェネレーション」とすこしも変わっていない。「愛」も「リボリューション」も信じない、生きものとして生きてゆけりゃいいのさ、といっているのだ。都市に生きていればこそ、それがどんなに困難で貴重なものか身にしみてわかるという、つまりこれは大人になれなかった大人の言葉なのだ。
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都市とは人間の欲望が渦巻く場所である、という。しかしこの「人間の欲望」といういいかたそのものが、じつはきわめていかがわしい。立派な大人になりたいと思うのは、立派な大人になれそうな社会に住んでいるからです。それは社会が与えてくれる欲望であって、人間が先験的に持っているものではない。それは人間の欲望ではなく、共同体の欲望なのだ。
現に60年代のイギリスで「ザ・フー」に熱中していた若者たちにそんなものはなかったし、こんにちの日本のように立派な大人になれそうな社会でも、社会そのものに拒否反応を抱いてしまえば、ニートとかフリーターといった大人になりたくない若者の群れが生まれてくる。
「大人になりたくない症候群」はこの社会でうまく生きてゆけない病理であるのかもしれないが、後ろめたさや羞恥のひとかけらもなく大人になれ(社会と和解せよ)と迫るのは、この社会そのものの病理です。つまりこの社会はよい社会であるという思い上がりがそうした後ろめたさや羞恥のひとかけらもない大人たちをあふれさせ、近ごろのEDとかうつ病とか老人性痴呆といった現象は、ある意味で社会に適合しているがゆえに引き起こされるのだ。
大人になりたいという欲望に普遍性も正当性ももともとないのだし、若者から見ればそういう大人たちはけっして立派でも魅力的でもない。よい社会は必然的に生きものとしての健康な匂いを失った醜い大人たちをあふれさせるのであり、そういうことにも若者が大人になろうとしない一因はある。
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 よい社会をつくろうとするのは、べつに人間の根源的な欲望でもなんでもない。できれば社会とは関係なく一日でも長く若く美しくありたい、そういう願いはきっと誰のなかにもあるのだし、それはつまり生きものとしての生きた心地を実感したいということでしょう。
よい社会が実現すればすべてが解決するというわけではない。じっさいこの国はそれを実現し、しかしそれと引き換えに、人びとは生きものとしての生きた心地を喪失しようとしている。
誰も生きものとしての生きた心地を実感したいという願いから離れることはできない。そしてそれは、社会とは関係のないところからやってくるものであり、むしろ社会を拒否することによってしか得られないことを誰もが胸の奥のどこかで気づいている。
どんなによい社会をつくっても、若者のように大人になるまいと社会を拒否する気持ちは必要だし、よい社会ほど必要なのだ。なぜならよい社会の住民には、60年代イギリスの労働者階級や未開社会の民のように、ほうっておいても自然にそれがやってくるような幸せな装置を持ち合わせていないからだ。
「よい社会」は、よい社会であるというそのことによって人びとを去勢し、生きものの匂いをむんむんさせて生きる「若者」という時間を与えてくれない。
よい社会をつくろうとするのは、いまだよい社会がつくられていないというかたちで現在の社会にたいする拒否反応を紡ごうとするからであり、そうやって生きものとしての生きた心地を実感したいからでしょう。よい社会などつくりたくないから、よい社会をつくろうとするのだ。
因果なことにわれわれは、社会を否定するために社会を必要としている。そうすれば、ぞくぞくするような生きた心地が得られるのだもの。
おそらく人間の歴史は、そうした動機で現在の社会を否定しつつ、よりよい社会をつくろうと前に進んできたのだ。われわれ人間が必要とし、もとめているのは、よい社会ではなく「社会とのよい緊張関係」であり、そこから生きた心地を収穫している。だから、われわれの国はこんなにもよい社会をつくったというのに、人びとはけっして社会のあらさがしをやめようとしない。人間がいまだに戦争をしたがるということは、自国であれ他国であれ人間の「社会」を否定しようとする衝動がいかに激しく根深いものであるかを物語っている。
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団塊世代は、正義です。団塊世代ほど「社会危機(ソーシャル・クライシス)」を言いたがる人種もいない。なにしろ若いころには、社会危機を叫んで革命ごっこをしていた人たちですからね。
団塊世代ほど、社会とのべたついた関係の中で生きてきた世代もない。
いや、そのあとの団塊世代を批判する世代だって、似たようなものですけどね。どちらも、社会との関係がどうとかこうとか言いたがる人種には違いがない。社会と関係し、社会を分析すればえらいと思っている。まあ、えらいんですけどね。えらいけど、僕は尊敬しない。くだらないやつらだなあ、と思う。
だってわれわれは、生きものとして、死と背中合わせで生きているんだもの。薄い氷の上をスケートして生きているだけなんだもの。われわれが「生きもの」であるというレベルにおいては、明日も生きてある保証なんか、どこにもない。
僕は、社会と関係することで、社会を嘆いたり分析したりしてみせることで生きた心地を得るなんて、そんな遠回りなことはしたくない。直接それを味わいたい。「用意を整え、火を起こす」ことしかできない。
僕にとっての生きた心地は、息をしたり、飯を食ったり、誰かと話したり抱きしめあったりすることにしかない。
社会の政治や経済や地球温暖化の社会危機なんか、関係ない。
しかしいつだって正義は、社会と関係したがる人たちのもとにある。人は、正義によって社会と関係してゆく。正義でなければ、社会と関係することはできない。
ようするに、正義とは社会と関係することだ、というだけのことです。そして、社会を嘆き、社会危機を叫ぶことこそ、正しく社会と関係を結ぶことだ、というわけです。
そしてそんな意識が骨の髄まで染み込んだ連中には、ザ・フーが差し出すメッセージなんかどうでもいいらしい。