若者論としてのザ・フー・9

現在のこの国におけるザ・フーのファンは、「トミー」や「4重人格」などのコンセプト・アルバムの話題性や音楽的なボリューム感に注目して聞き始めた50歳前後の世代からあとの人たちがほとんどです。
ただ、後追いで聞き始めた20代30代の若い層は、デビュー当時の「マイ・ジェネレイション」が持つピュアでラディカルなロック・スピリットに触発されて入ってきたファンが多い。彼らはまた、「団塊ジュニア」といわれる世代です。つまり、団塊世代の親たちの家族主義から逃げていった先で、「マイ・ジェネレイション」と出会った。
日本の団塊世代は、親たちの家族主義に抱きすくめられて育ってきた。しかしイギリスの同じ戦後世代は、親たちのそれにうんざりしながら成長し、ストリートに出て行った。
イギリスで生まれた戦後の家族主義を拒否する世代は、日本では、団塊ジュニアの世代になってからはじめて現れてきたのです。
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大人になりたくない「ピーターパン症候群」は、80年代からいわれていたような気がするが、その傾向が本格化するのは、なんといっても団塊ジュニアたちが思春期に入ってくる90年代以降のことです。イギリスでは、戦後生まれの世代にすでに続々現れてきたが、日本では、団塊ジュニアの世代になってからだった。だから、言葉の流行とのタイムラグがあるのでしょう。
子供でいたいなんて、ただの甘えだ、と大人たちは言う。しかし彼らは、子供でいたいという以上に「大人になりたくない」のだ。それほどに大人が醜く見えてうんざりしているのであり、大人の醜さが、ピーターパン症候群を生み出しているのだ。
私の下着をお父さんの下着と一緒に洗濯しないでくれ、と言い出したのは、まさしく団塊ジュニアの少女たちだった。
自分のまわりに「あんな大人になりたい」と思えるような大人がいなければ、そりゃあピーターパン症候群にもなるでしょう。
自分だけ無傷な顔をしていまどきの若者を嘆いてみせる、その顔がグロテスクなのだ。
自分だけ無傷な顔をしてこの社会を嘆いてみせる、そんな顔をして子供を育ててきたくせに、子供の中に社会に対する拒否反応があるからといって、文句がいえる筋合いじゃないでしょう。
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仕事のときは社会(共同体)の論理で行動しつつ、プライベートでは、社会を否定し嘆いてみせる。これが、大人という人種の普遍的な生態であるのだけれど、「ニューファミリー」という家族主義を標榜する団塊世代は、ひといちばい会社人間でありながら、しかも家に帰れば家族や個人のアイデンティティを盾にひといちばい強く社会を嘆いてみせる。彼らは、そういう使い分けを、あたりまえのようにできる。そりゃあそうでしょう、敗戦後という史上最悪最低の社会で生まれ育ってきたのですからね。社会を否定し嘆くことが正義の世の中だった。
しかし、そんな使い分けをあたりまえのようにできる状況ではない高度成長期の社会に生まれた子供たちは、けっきょく社会にも家族にも居場所を見つけられないまま成長してゆくほかなく、その結果として、ニートになったり、秋葉系オタクになったり、ストリートに集まったりしていった。
団塊世代の子供たちは、パパ・ママの、その代わり身の早さに驚きあきれ、そしてうんざりしている。大人になることがそういう変わり身を身につけることなら、僕たちはもう大人になんかなれそうもないし、なりたくない、と思っている。バブル崩壊以降のピーターパン症候群の主たる気分は、そんなところにあるのではないかと思えます。
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共同体の意志、などというものはない。なぜなら人は、共同体を嘆くことをして生きているのであって、それを維持しようとする衝動を本質的に持っているのではない。
共同体は、人々の嘆きの対象として存在しているのだ。
それは、「すでに存在している」のであり、いまさら維持しようと思わなければならない対象ではない。
たとえば、戦時中にしても、人々は「敵」を否定しようとする心で結束していたのであって、自分たちの国を維持しようとしていたのではない。そんな気持があれば、太平洋戦争だって、きりのいいところで降伏していたはずです。あんなにぼろぼろになるまで戦ったということは、国を維持することなどどうでもよく、敵が憎い、やつらは鬼だ、という観念だけで結束していたからでしょう。
人間に国を維持しようとする衝動があれば、リスクをともなうに決まっている戦争などという行為は、そうかんたんにできるものじゃない。
敵が憎いから戦争をするのです。
戦争をするためなら、国が滅びようとどうなろうと、知ったこっちゃないのです。共同体など、嘆きの対象に過ぎないのだから、滅びたっていいのです。滅びたっていいのだけれど、そうなればもう嘆くこともできなくなるから、気がついたら維持してしまっているのです。滅びたってかまわないと嘆くことが、維持することなのです。維持しようとしているのでは、けっしてない。
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人間は、この社会(共同体)を維持しようとしているのではない。なくなってしまえと思うくらい嘆きつつ、人間の歴史が動いてきたのです。
過去の歴史において、人身御供を奉げるとか、村人が妖怪に食べられるとかというような話を飽きずに紡ぎ続けてきたのは、みずからの共同体が嘆きの対象として存在しているからです。
そして、嘆くから他のところに行きたいのではない。嘆きたいからであり、嘆くことが生きた心地だからです。他のところにいかないで嘆きたいから、他のところには鬼や妖怪がいてこの村を不幸にしているという話が生まれてくる。それは、太平洋戦争が起きた構造と少しも変わりない。
人は、みずからの社会を嘆くことをして生きてきた。みずからの社会を嘆くためには、災厄をもたらす鬼や妖怪の存在が必要だった。みずからの社会を正当化するためではない。
そんな共同幻想が働いている社会であれば、若者が社会や大人たちにうんざりしつつ、社会の外に立ってみずから鬼や妖怪になろうとしてゆくのは当然の成り行きだともいえる。
われわれは、若者が、みずからの社会をすばらしいと思って育ってゆく社会を持っていない。
ロックとは、若者の、鬼や妖怪になろうとする衝動であるのだろうか。
ザ・フーを聞いていると、つくづくそんなことを考えさせられます。