内田樹という迷惑・全共闘世代の青春

「若者」とはどんな人種か、「青春」とはどんな季節か・・・・・・現代人は、これらのことに、ことのほかこだわっている。
「ちょいわるオヤジ」とは、青春を取り戻そうとしている、あるいは今なお若者の気分で生きているつもりの中高年のことだ。
生涯学習」などという社会的スローガンも、おおよそ似たような錯覚と動機から生まれている。
そうそう「アンチ・エイジング」という言葉も叫ばれている。
多くの人が長生きできる世の中になった。そして大人たちは「命の大切さ」とか「命の尊さ」という言葉を大合唱している。彼らのあいだには、「人生で命がいちばん輝いているのは青春時代である」という共通認識がある。
だから、誰もがいつまでも「青春」を生きようとしている。
若者は「大人になんかなりたくない」といい、大人たちは今なお青春のつもりでいる。
そうして、大人たちのこうした傾向は、団塊世代がもっとも顕著です。
「ちょいわるオヤジ」を標榜した雑誌によるメインのセールスターゲットは団塊世代だったはずです。
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団塊世代ほど自分たちの青春時代を肯定し懐かしむ傾向のつよい世代もないでしょう。
団塊世代は、全共闘世代ともいわれている。
先日の内田氏のブログで、「イカフライ」氏が全共闘運動のことを批判したら、もうぜんと噛みついた全共闘運動体験者の人がいました。
彼らは、自分たちの青春が批判されることに、とても過敏に反応する。
イカフライ」氏の批判はこうです。全共闘運動とは、権力予備軍の若者層とじっさい権力のがわに立っている大人たちとの世代間権力闘争であり、子供が親に駄々をこねてむずがっているようなものだった、と。
それは当たっている、と全共闘世代の僕は思いました。僕じしんはそんな政治運動になんかぜんぜん参加しなかったけど、まわりにはたくさんそういう友人や知己がいたわけで。
ただ、「子供が駄々をこねている」というのは、ちょっと違うと思う。
彼らは、イカフライ氏が言うように、大人たちから権力を奪おうとした。それはつまり、彼らもまたすでに大人だった、ということを意味する。権力を欲しがるなんて、大人のすることです。
自分のことをいうのは気が引けるのだけれど、そのころ僕は、彼ら活動家連中のそういう志向にどうしてもなじめなかった。幼稚で知的な探求心もまるでないあほな若者だったからです。
しかし彼らの大人に対するなれなれしさが、どうにもなじめなかった。平気で教授をつるし上げ、その研究室を壊しまくる。天皇や政治家や企業家などと対等の立場に立っているような物言いばかりしている。
僕は大人たちが気味悪かったから、かかわりあいたくなかった。目障りだからあっちに行っていてくれ、という気分だった。口もききたくなかったし、大人なんか、見るだけで目の穢れだという気分だった。だから、あのころの僕の思い出に、ほとんど大人の姿がない。
政治や社会のことなど、どうでもよかった。しかしまわりの活動家連中は、そんなことばかりに目が行っていた。
「よい社会をつくる」なんて知ったこっちゃなかった。それは、今でもそう思っている。
内田氏も活動には参加しなかったらしいが、今なお「よい社会をつくる」というスローガンを掲げて喋り散らしているのだから、生来的なメンタリティにおいては活動家連中と同じタイプだったのでしょう。
「よい社会をつくる」という言葉や思想に対する執着の強さこそ、全共闘世代の特徴です。しかしそれって、大人の思想なのですよね。
大人とは、「社会をつくる」生きものです。そして全共闘世代も、若い美空でそのことに執着していったのだから、そのときすでに大人と同じ人種だった、といえるはずです。
大人は、自分を肯定する。全共闘世代だって、がんばって活動したものほど自分たちの行為が愚かだったとは、いまだにぜったい認めない。
いや、ほんとに愚かだったと言っているのではないですよ。そんなことは、僕にはわからない。ただ、愚かだったと批判されると猛然と食ってかかるその強迫観念は、大人じみている。「口ごたえするな」と子供に怒鳴りつける親の態度とちっとも変わりゃしない。
大集団の中で育ってきた団塊世代は、若者になった時点で。すでに大人に対抗できるだけの「共同性」というか、集団の中で生きてゆくしたたかさを身につけていた。だから、大人から「権力」を奪い取ろうとしたのでしょう。
若者なんて、ほんらいは、集団の中でうまく行動できない愚かな生きものでしょう。極端にいえば、一日が終わるたびに地面に頭をこすりつけるような自己嫌悪に見舞われ、朝になれば生まれ変わった心地になって出直す。その繰り返しで生きているのが、基本的な若者のかたちでしょう。
おまえはあほな若者だった、と言われれば、そうですね、と僕うなずきますよ。しかし全共闘世代の大人たちは、もうぜんと反論する。自分たちのしたことが愚かだったとはぜん思っていないし、今だって自分がまっとうな大人のつもりでいる。
イカフライ氏にもうぜんと反論した「八波むとし」というハンドルネームの人は、まさにそういう全共闘世代の大人の典型であり、内田氏もまた、まったく同じ人種だということです。彼らは、自己嫌悪やみじめさで地面に頭をこすりつけるような青春時代を送ってこなかったらしい。自分たちは清く正しい若者だったと思っているらしい。
彼らは、若くしてすでに「大人」だった。
自己批判」は、彼らがもっとも好んで使う言葉のひとつだったが、「自己批判せよ」と大人たちに迫ることをしても、自分自身がそれを体験することはなかった。いまだにしない。それは、彼らがそのときからすでに「共同性」を身につけた「大人」だったからだ。
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「近傍と確からしさ」さんからいただいたコメントを読むと、彼が若いときから何度も地面に頭をこすりつけてはそのたびに生まれ変わった気分で出直すということをしてきたようにうかがえます。そうやって彼はみずからの知識を豊かにし、知性を磨いてきたのでしょう。
もしかしたら、イカフライ氏もそんな人かもしれない。
それに対して自分の青春時代に執着し肯定し続ける全共闘世代の大人たちの、なんと卑しく醜いことか。
自分自身で否定しながら生きた青春であるのなら、それはもう、他人から否定されたら甘んじて受け入れるしかない。若者の「青春」は、肯定することのできない宿命を負っている。
僕の高校時代のアルバムを見ると、みんな妙に大人びた顔をして写っている。今の若者の表情のほうがずっと幼い。
もしかしたら全共闘世代は、「青春時代」を持っていないからこそ、死ぬまで青春を追いかけ続けていられるのかもしれない。
僕自身、自分に青春時代などあっただろうか、という思いがどこかで疼いている。だから、現在の若者が気になって仕方がないのかもしれない。ただあのころの僕は、「大人」というより「老人」みたいだった。スケベな老人だったけど。
いずれにせよ「青春時代」を体験したという証しは、「それはもう終わった」、「二度と戻らない」、という喪失感(あるいは断念)の中にしかないのかもしれない。
僕は、知識や文章力がないから、うまく全共闘世代を批判しきることができない。「イカフライ」氏や「近傍と確からしさ」さんくらいにそれがあれば、徹底的に批判してやるのに、と思う。
イカフライ」氏の全共闘批判は、まだ甘い。内田氏にも「八波むとし」氏にも、おめえらに「青春」なんてないんだぞ、と言ってやってくれないかなあ。