内田樹という迷惑・未来の自分

内田教授は、20歳の教え子たちに、5年後の自分と75歳になったときの自分を想像する、というお題のレポート作成を課したのだそうです。
そういう想像をすることがその人の人生を豊かにする、というのが日ごろからの彼の持論です。
この人は、どうしてこんな卑しい発想をするのだろうか。どうしてみずからのその卑しさに気づかないのだろうか。
気づかないどころか、それが自分の美質だと思っていやがる。
結末のわかっている推理小説を読んでも面白くないでしょう。ラストシーンを確めておいてから映画を見始める、というようなことは誰もしないでしょう。
自分だって未来のことはわからないから面白いのだと常日ごろ言っておきながら、未来ののことをわかろうとする態度を奨励する。この恥知らずな二枚舌はいったいなんなのだ。
未来のことはわからないから面白いのだ、とかっこつけて言ってみても、この人にはわからないことの不安とともに生きてゆくだけの度胸がない。意地汚く未来をまさぐりまさぐりしながら生きてゆくしか能がないらしい。
できないのならそれでもいいのだけれど、それもひとつの生き方だとは思うが、何もそれこそが人間ほんらいのたしなみであるかのような主張をすることもないだろう。
あなたはそんな教育をすることによって、若者らしい純粋な感動をはじめとするさまざまな可能性を奪っているのですよ。若者がみな、あなたのような意地汚い人間になってしまわねばならないのですか。
たとえ未来において不幸になるにせよ、私は今ここのこの瞬間を味わい尽くしたい・・・・・・そういう若者だっていてもいいでしょう。そういう若者にしか味わえない感動というものはあるはずですよ。
言い換えれば、若いうちにそういう体験のひとつも持っていないなんて、淋しい人生かもしれない。そうやって計算づくで生きてきた人間にかぎって、中年になってから「私の人生はなんだったのだろう」という惑いの沼に沈んでいったりする。
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人間観の問題でしょうか。
誰もが5年先も生きてあると保証されているわけではない。まして75まで生きてゆけるという前提で人生を考えるなんて、途方もないことです。そんなさもしいことを20歳の娘に考えさせるなんて、悪趣味もいいとこです。
若いのだもの、年取る前に死んでやる、と思っていたっていいじゃないですか。
あなたは、すべての生徒に75まで生きてゆけることを保証してやれるのですか。
75まで生きてゆけるつもりでいながら、その途中で死んでゆくほかない運命に出会う人はいくらでもいるのですよ。そういう人は、なまじ75まで生きるつもりでいたからこそ、身の不幸がひとしおになって迫ってくるのですよ。
「生きてある」とは、次の瞬間死んでしまうかもしれないという可能性の上に成り立った事態なのですよ。生きてあることそれじたいが死の可能性の上に成り立っているのですよ。
若かろうと年寄りだろうと、いつ死んでもかまないという覚悟で生きている人は、尊敬に値する。
それこそが、人間の根源的な態度だと思う。
75まで生きるつもりのスケベ根性にもたれかかって生きているなんて、ほんとに不細工だと思う。そんな不細工な生き方を、なんの権利があって若者にまで押し付けるのか。あなた一人でじゅうぶんだろう。
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個人的な趣味で言わせていただくなら、五年先の夢とやらを追いかけている若者よりも、「今ここ」だけを信じて、「今ここ」の世界に全身で反応しながら生きている若者のほうが美しいと思う。そんな生き方は、誰でもできることじゃない。だから誰もがするべきだとは思わないが、だからといって内田氏のように5年先50年先の人生をまさぐって生きることの正当性を主張して、逆の生き方を否定することもないだろうと思う。
たとえばシャネルのバッグが欲しくていっときフーゾク嬢になるとか、そういうある意味で愚かな生き方を否定する権利は誰にもないと思う。それはそれで、5年先の夢を追いかけて生きてゆくことにはない醍醐味も充実もあるし、それによって体験するかもしれない喪失感だって、それはそれでその人固有の人生の味わいなのだ。
内田氏は、その五年先の想像として「父親の会社が倒産し、母は白血病で倒れ、弟はグレてやくざになり、自分はフーゾクに身を落とす」というのでは話にならない、というが、そうだろうか。それだって豊かで味わい深い想像だと思う。そういう人生を体験している女性は現にいるのだし、そういう人生を否定する権利は誰にもない。そりゃあ辛いだろうが、そういう人生にしかない味わいというものがある。
そんな想像をしてしまう彼女は、成功や幸せを夢見たがる卑しさというものに気づいている。それは、彼女の潔癖な純情なのだ。
またその幸せや成功が叶えばいいが、叶わなかったときに、あなたはどうする。この世の中は、叶う人間もいれば、叶わない人間もいる。夢見ることの正当性は、叶った人間しか実感できない。
とにかく、そうやって夢をかなえようとすることの卑しさ、というのはあるのだ。
女に対して物欲しげな目つきや態度ばかりしている男はもてない。それと同じことです。
そんな「未来」のことなどいっさい忘れて、「今ここ」に全身で反応している美しさというのがある。そういう女性は輝いている、という現実も、一方では確かにあるのです。
付き合い始めたとたん、「結婚して5年経ったら年に一度は海外旅行に行きたいわ」とか、貯金をいくら持ちたいとか、5年後の自分はどんな女になっているとか、もうそんなあれこれをとくとくと語られたら、男としてもげんなりしてしまう。五年先に向かう意欲が萎えてしまう。
たいていの男にとっては、もしかしたらこの人と結婚できないかもしれないという多少の不安を抱えている娘のほうがずっとかわいげがあるだろう。
いずれにせよ、先のことなんかわからない、といういやけくその気分を多少なりとも持っていない若い女性なんて、いささか気味が悪い。そんな女、もてないよ。
先のことなんか、どうでもいいじゃない。人生という「時間」に淫するなんて、不潔だよ。内田氏のまねしてそんなことばかり考えていると、セックスアピールを失うよ。
あなたが未来のことをなんと考えようと、そんなことであなたの感受性が磨かれるわけじゃないんだよ。それは、他者や世界との出会いによって磨かれるのだ。その出会いのために用意することは、未来についてあれこれ考えることじゃない。心を無にして全身で反応してゆける体勢を整えておくことだ。
内田氏には、人生(この生)を侮蔑するというデカダンスがない。もともと男とはそういうかげりのない生き物であるが、内田氏にはその自覚がない。しかしたいていの男たちは、女が色濃く持っているそういうデカダンスを尊敬し、びびってもいる。明日のことなんかどうでもいいというデカダンスを。
内田氏に教育される神戸女学院の生徒たちは気の毒だ。下手したら、彼の俗物根性に絡め取られて、幸せになるしか能のない味もそっけもない女にされてしまう。
それが、ブスの生きる道だ、てか。たしかにそうかもしれない。自分がどうしようもないブスだと思うのなら、せいぜいがんばって内田先生についてゆけばいい。