若者論としてのザ・フー・5

「マイ・ジェネレイション」のヒットによってすっかり社会派ロックのレッテルを貼られてしまったザ・フーだが、彼らの曲に、じつは社会を批判するといった内容のものはほとんどない。
すくなくともラブソングにおいては、ただもうそういう時代状況に置かれた若者の気分とか生態がときに皮肉っぽくときにやるせなさたっぷりに表現されているばかりだ。
たとえば「ア・リーガルマター(法律上の問題)」といえば、なんだか社会的なモチーフのようだが、内容はただ「俺は浮気者だからそういう問題に縛られて結婚することなんかできないんだ、ごめんよベイビー」と歌っているだけです。
「ザ・フー」の反抗は、社会を変えようとするのではなく、あくまで社会にたいする「無関心」にあった。そしてそれはまた、人と人が心を通じ合わせることの困難さというかたちで自分にはねかえってくる。人と人は、心が通じ合って連帯するのではない、共通の敵に向かって連帯しているだけである。男女の恋においてさえ、社会に許されないときにもっとも激しく燃え上がる。そういう心と心が通じ合うことの不可能性を本能的に知っている都市の若者特有のやるせなさは、ちょっとビートルズ風の甘く悩ましいロックチューンである「ザ・キッズ・アー・オールライト」という曲においても、歌詞には色濃く滲んでいる。そこが人と人の連帯を信じようとしたビートルズの無国籍性=共同性との決定的な違いであった。
ビートルズが持つ社会にたいする熱い関心と、「ザ、フー」の苦くひんやりとした無関心、この対照性がそのまま世界的な人気の差になったのでしょう。
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ビートルズの絶頂期に出された「ヘイ・ジュード」のB面は「リボリューション」だった。彼らの社会を変えようという意識は、このころからとくに自覚的になっていったように思われる。
しかしこの曲は、けっして共同体にたいする引っかき傷になっていない。共同体の本質は、「明日を目指す」ということにある。「リボリューション」と叫んで現在を否定し明日を目指そうとするのは、それじたい共同体の衝動なのである。現在を否定しなければ、明日に向かう運動にはならない。べつにビートルズが「リボリューション」と叫ぼうと叫ぶまいと、昔も今も誰もがそんなようなことを考えながらやがて大人になって共同体に吸収されてゆくのであり、「ザ・フー」はまさにそのことを拒否したのだ。
たとえば、ビートルズに夢中になっていた若者は、エリートサラリーマンになっても大学教授になってもそれを聴き続けることに抵抗はないにちがいない。エリートサラリーマンになっても、ジョン・レノンと連帯することはできる。
しかし「ザ・フー」を聴いていたイギリス労働者階級の若者は、けっしてエリートサラリーマンにも大学教授にもなれない社会状況におかれていたのです。つまりそのような立派な大人になるチャンスがないということは、大人になることそれじたいを塞がれていることと同義なのだ。
「年とる前に死にたいぜ」と「ザ・フー」が大人とも共同体とも和解することを拒否していったとすれば、ジョン・レノンの「リボリューション」や「イマジン」は、立派な大人になって立派な社会をつくろうよと呼びかける。それは大人になって社会に参加してゆくことを肯定しているのであり、だからエリートサラリーマンも大学教授も安心して聞くことができる。
立派な大人になれるのなら、立派な大人になろうとするのが人情でしょう。共同体はそのために存在するし、そうなってくれないと困りもする。しかし立派な大人になって共同体と和解することは、本当にいいことなのだろうか。
共同体と和解できない部分をどれだけ守れるか、このことを目指すのもこの生を充実させるためのひとつの方法です。おそらくじつは誰もがこのことを目指して生きている。できれば誰だって仕事なんかしないで一生遊んで暮らしたいし、浮世のしがらみは煩わしいばかりである。
共同体と和解しないことは、われわれの究極の願いです。であれば、「年とる前に死にたいぜ」といって共同体の一員である大人になるのを拒否することはむしろ普遍的な人間の願いであり、そういう本当のことを言われるのを大人たちはいちばん嫌う。
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世の大人たちが「自分の人生に責任を持て」というなら、人生が決まってしまっているイギリス労働者階級の子弟においては、自分の人生に責任を負う義務がなかった。だからあんなにも歴史と伝統に圧迫されて停滞しきった状況に置かれながら、当時のアメリカや日本の若者よりずっと生きものとしての匂いをむんむんさせていたのだ。
イギリスはサッカー発祥の地でありながら、それが労働者階級のスポーツであるというせいで、長いあいだ世界でもっとも単純で野蛮なサッカーをする国のひとつであったし、今なお世界でもっとも野蛮なサポーター(フーリガン)がのさばっていたりもする。
立派な大人になれそうだからなろうとするだけであって、なれそうもないのになろうとするのはばかばかしいし、苦痛である。そしてじつは、大人になるまえの若者が大人になろうとしないのは、立派な大人なんかこの世にひとりもいないと思えるからです。これは、「年とる前に死にたいぜ」とふてくされるイギリス労働者階級の若者だけでなく、人間の歴史はじまっていらい変わらない普遍性でしょう。
まず、若者のほうが若くて見かけも美しい。これだけでもう、「立派な大人なんかひとりもいない」と思うことの十分すぎる根拠になる。それに身体能力でも、大人はぶざまだ。種として劣っている者たちが、優秀な者たちを支配する。これが、この社会の構造です。
まあそうでないと世の中なんか成り立たないのであるが、若者が社会に拒否反応をもつこともまた、消しがたい生きものとしての必然です。そういうことがあるから「巣立ち」という行為も可能になる。いわば、自然の摂理というものでしょう。
若者にとっては、大人になって社会に参加してゆくことは、快適な新築マンションから古い木造アパートに引越しするようなものです。にもかかわらず大人たちは、木造アパートのほうがほんものの住まいだと言い張り、若者の拒否反応をよってたかって抹殺しにかかる。つまり、「マイ・ジェネレイション」で歌われているように「みんな俺たちをへこまそうと躍起だ」となる。
若者は、大人たちが種として劣っていることを、ちゃんと知っている。だから、食ってかかってへこまそうとしているのは大人のほうだ、という。こういう視線は、階級社会の歴史と伝統をもつイギリスの都市だからこそ生まれてくるのであって、自由の国アメリカにはない。ちゃんとアメリカンドリームが用意されているアメリカの大人たちは若者をへこます必要がないし、若者じしんもいわれなくてもすでに立派な大人になることを目指している。