若者論としてのザ・フー・4

ザ・フーのラブソングは、つねに、社会と和解できない若者の、具体的なたった一回きりの出会いが表現されている。ビートルズのそれより、ずっと表情豊かで、詩的表現のレベルにおいてもより高度だった。
「ラ・ラ・ラ・ライズ」や「グッズ・ゴーン」ではその鬱屈したもどかしさが、「恋のピンチヒッター」や「ディスガイジズ」ではシニカルな自己韜晦が、「ラン・ラン・ラン」や「コール・ミー・ライトニング」ではやけっぱちの明るさが、また「リリーのおもかげ」や「マリー・アンヌ」でははっとするような無垢な無償性がすくいとられている。そしてこれらの歌がけっして全方位的ではないあるひとりの若者を描いているからこそ、われわれはそこにひとつの時代のなかにおかれたたった一回きりのこの生のリアリティを読み取ることができる。
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いつの時代においても、社会と和解できない若者の恋は、絵に描いたようなかたちにはならない。なぜなら社会を拒否することは生きものになることであり、生きものは社会生活をいとなんでいる人間と違って、他者との関係に拒否反応を持っている。拒否反応を抱きつつ、しかしひとりではいられない。それが、ストリートの出会いなのだ。
「恋のピンチヒッター」は迷路のような魅力を持ったポップアートを宣言するザ・フー初期の名曲で、セックスピストルズをはじめ多くのロックアーティストにカバーされている。それは、ただなにげなくなく聴いているだけならマージービート風のポップなメロディであり、ボーカルのロジャー・ダルトリーもいつになく思い入れたっぷりの甘く悩ましい歌い方をしているのだが、よく聴くとバックの演奏はもうボーカルをほったらかしにして勝手に走り回っているかのような混沌とした世界が浮かび上がってくる。ドラムは例によってはじめから終わりまでおもちゃ箱をひっくり返したように転げまわり、リードギターもボーカルの足をもつれさせるようないささかわがままなカッティングを刻み続ける。しかしそれでも妙に統一感のある親しみを持たせるのは、おそらくベースギターが低音域でリズムとコード進行を絶妙に安定させているからだろう。そういう混沌と調和が入り混じった野菜スープのような曲なのだが、まあベースギターというスパイスの豊富さとセンスのよさもザ・フーの演奏の際立った特長のひとつだった。
そして歌詞も、自信と不安と嘘と真実が複雑に交錯して謎めいている。

俺たち似合いのカップルだと思ってんだろう                           
俺の靴は皮製だと思ってんだろう                                    だけど俺は誰かさんの身代わりなんだ
背もすごく高く見えるけどヒールのせいなのさ                              単純に見えることもじつは複雑なんだぜ                                
俺って見てくれはいいけどただの使い古しさ                              
事実を欺く代用品                                          
あんた整形だろ、見えてんだよ                                     俺は白人に見えるけど親父は黒人なんだ                                 俺のいかしたスーツだって、ほとんどぼろでできてるんだ
ド貧乏の生まれだし、俺の街の北側は東に面して、東は南に向かってるんだ                 
おまえは俺の目をまじまじと覗きこんで訴えようとしてるけど、嘘泣きしかしないじゃないか        
もし純粋な悩みならおまえに解決なんかできやしないさ                          うっちゃっておけよ、うっちゃって                                   
俺はやつの代用品                                           
俺のコークをジンに変えてくれよ                                    
おまえ、お袋の代わりになってくれよ                                  せめて洗濯くらいはしてもらわないとな

無造作なようでいて、じつに豊かなニュアンスを滲ませた表現です。そしてこれはビートルズの多くの詞と違ってまぎれもなくあるひとりの若者のことを語っており、これだけでもう彼の怒りも悲しみも横着なところや臆病なところや、やさしさも絶望も知性も、ふだんの暮らしぶりも、全部見えてくるようである。
皮ジャンと細いジーンズが定番の「ロッカーズ」と違って「モッズ」の若者たちは、ときにイタリアンカジュアルなども取り入れながら、垢抜けてさっぱりとしたおしゃれをする。そうして社会を笑いとばす会話の機知にも長けて洗練された「モッズ」は、休日のストリートや夜のクラブでいっそう輝いた。
しかしそんな彼らも、平日の社会的な身分は町工場の旋盤工だったりホテルのボーイとして大人たちにこき使われているわけで、しかも日本やアメリカの若者のように努力と才覚次第でいくらでも成功のチャンスはあるという社会ではない。また運よく富を手に入れることがあったとしても、けっして社会的な身分が上がるわけではないし、アメリカのようにそれだけで人々が尊敬してくれるほど単純な国民意識もない。
まあ学歴などなくても、知的な人間はいくらでもいる。ことに伝統のある国の近代的な都市においてはなおさらだろう。高度資本主義の都市は、スタイリッシュで知的な「不良」を生み出した。それが、「モッズ」の若者たちです。そしてようやく資本主義の疲弊を体験しつつあるこの国でも、ニートやフリーターと呼ばれる若者たちのなかから、そうした一群があらわれてくるのかもしれない。
不良や落ちこぼれだから良識ある大人たちより知的なレベルが劣っているという時代は、おそらくもう終わりつつある。むしろ社会と和解して安心しきった大人たちの思考停止の無残さが、そうした知的な不良たちとの対比によって浮かび上がってくることもある。
ピート・タウンゼントの個人的で具体的なラブソングが持つリアリティは、ビートルズアメリカ資本主義(アメリカンドリーム)における普遍性という美名の裏に隠し持った「均質化」という空虚さとみごとに対峙している。普遍的な恋などというものはないのだし、あるとすればそんなものは社会(共同体)に管理された恋でしかない。たとえみすぼらしくてもたったひとりのたった一回きりの「ア・ボーイ・ミーツ・ア・ガール」、それがザ・フーのラブソングです。 
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愛しているとかいないとか、ロマンティックであるとかないとか、そんなこと以前にこのストリートのひりひりした風の中に立っていればもう一緒にいないといられない、そういう出会いもある。そしてそれこそが、若者の恋と大人の恋とのもっとも大きな違いでしょう。
大人は、一匹狼を気取りたがる。そして若者は、ひとりぼっちじゃいられない。いったいどちらが孤立した存在であるのか。
ストリートの若者が群れているのは、誰もがひとりぼっちじゃいられないからであり、一人ぼっちじゃいられないくらい、家族や社会から孤立してしまっているからだ。誰もがどんなふうに生きてゆけばよいのか、暗中模索している。それは、家族の流儀も社会の教えも、信じられなくなったからだ。
それにたいして大人が一匹狼を気取りたがるのは、共同体の論理で生きている自分を肯定しきれないからだ。べつに独身を気取ってみても、ちゃんと群れのルールの中で生きていることは隠せない。
現在のヤングアダルトがなかなか結婚したがらない傾向は、彼らが、群れの中で一匹狼を気取るばかりで、ひとりぼっちじゃいられないような孤立感を持っていないからでしょう。そうして、ひとりぼっちじゃいられなくなったころにはもう、まわりに結婚できる相手がいなくなっている。35歳の女が40代のいい男を探しても、すでにみんな結婚しているし、35歳の男が20代前半の若い娘にアプローチしても、もう相手にしてもらえない。
若者はやがて、ひとりぼっちじゃいられない心を捨てて、社会に参加してゆく。
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大人の男と女は、「愛という制度」で結ばれる。動物の社会と違って人と人がひしめき合って暮らしている人間の社会では、他者への「関心」はどうしてもおきてくるわけで、それを「愛」というかたちに昇華して関係をやりくりしてゆく制度性が必要になる。つまり大人になるとはそのようにして「関係」をやりくりする能力をもつことであり、それができるようになればもう社会に出ていっても大丈夫だ、ということである。
しかし「若者」は、そのような社会以上に鬱陶しい「愛」で結ばれた「家族という関係」から逃れ出ようとしている。ことに都市における家族関係は、田舎と違って親戚や地域共同体との関係が薄く内閉してしまっているために、子供にとってはさらに息苦しいものになってしまう。
家族であれ社会であれ、そうした「愛という関係」にたいする拒否反応をひときわラディカルに抱えてしまっているのがストリートの若者であり、彼らはそこで群れをつくって社会に出てゆくためのトレーニングをしているのではない。「愛という関係」で成り立つ社会と家族の両方のあいだにひとつの「緩衝地帯」をつくろうとしているのだ。したがってそこで生まれる「関係」は、ひどく不器用なものになったり、逆にあきれるくらい安直であったり、また群れのなかでたむろしていても誰もが疎外感を抱えていたりすることにもなる。彼らは、「関係(愛)」にたいする拒否反応を抱えているがゆえに「ひとりぼっちじゃいられない」のであり、ストリートの若者の「群れ」のそういう二律背反的な苦いメンタリティを歌っているのが「恋のピンチヒッター」というラブソングなのだ。