若者論としてのザ・フー・3

ザ・フーファンの人のひとりかふたりは読んでくれているらしいことがわかって、すごくうれしいです。
あの時代のことを若い人より多少は知っているというだけで、音楽評論としての内容なんかなあんもないけど、たとえば一日中「BBCセッション」ばかり繰り返し繰り返し聞いていたりするようなファンの、精一杯のオマージュです。
そんなふうに聴いていて、「ラン・ラン・ラン」という曲にハマってしまったことがあります。なんてことのないとぼけた歌ですけどね。「おまえなんかどうせついてない女なんだから、こんな町にいてもしょうがないだろう。俺と一緒にどこかにいっちまおうぜ」と歌っているだけです。でも、不器用にひたむきに生きている捨て猫みたいな女の子と、そんな女の子が気になって仕方がないひとりぼっちの男の子の、あの時代だけの一回きりの出会いが、とてもうまく描かれている。歌詞もいいけど、曲の軽快なテンポと、珍しくピートが突っ走っているリードギターのソロの間奏が、わけもなくじっとしていられない若者の気分に対する共感を、さりげなく的確に表現している。軽く演奏して、いっちょ上がり、て感じなのですけどね。なんかいい雰囲気を出している。
ザ・フーはもともと演奏の実力があるから、こんな劣悪な条件で録音したものでも、正規のレコーディング曲にぜんぜん負けていない。それに、何度もライブで演奏したあとの録音だから、むしろレコードのそれより熟成していて聴き応えがあったりする。
中には、歌詞を間違えて、「ま、いいか」なんて、いいかげんなテイクもあるのだけれど。
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ビートルズの「ラブ・ミー・ドゥ」や「プリーズ・プリーズ・ミー」で表現された男の子の気持ちが当時の世界中の若者たちを象徴する気分であったとすれば、それはすでにあるもので来るべき新しい時代の若者の気分ではない、ということでもある。たとえばミニスカートをまとう娘が街の少数派であればそれはまだ流行とはいえないが、流行になってミニスカートだらけになればもう次の時代のファッションではない。このようなことだ。ほんとうにビートルズが時代を引っぱっていたのなら、次の時代にはビートルズの歌のような男女の関係があふれるようになるはずだが、けっしてそうはならなかった。
近ごろのこの国では、セックスレスの男女関係とか、「女なんかいらない」と宣言するニートの若者の一群が現れたりして、むしろそうした関係をつくることの困難さとか無意味さといった問題があらわれてきている。つまり男女のあいだにおいて「ラブ・ミー・ドゥ」だの「プリーズ・プリーズ・ミー」だのという関係の価値が希薄になって、もっと直接的になったりもっと疎遠になったりというふうに二極化してきている。ビートルズのラブソングの時代は、ビートルズとともに終わっている。それは、彼らが熱狂的に迎えられたデビューの時点ですでに終わるべきミニスカートの流行と同じ現象だったのだ。
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六十年代のあのころ、すくなくともイギリスのストリートでは、すでに「恋愛」が成立することの困難さがはじまっていた。ザ・フーは「十五歳の女の子はもうセックスのことを知っている。だから、かんたんにすこし年長の遊び人の男たちに誘惑されてしまう」という意味のことを歌っている。であればもはやそういう女の子は、同世代の少年の手におえる相手ではないのです。これは、おそらく現在のこの国でも似たような状況にある。
1年半くらい前に、東京町田市に住む15歳の少年が、同級生の女の子を包丁でめった刺しにして殺すという事件がありました。これなどまさに、上のような状況がもたらしたのだろうと思えます。
若者が社会を拒否すれば、とうぜんセックスに興味を持つ。彼らは大人になりたくないからセックスに興味を持ってしまうのです。社会的な大人になるよりも「生きもの」でいようとするからだ。
社会を受け入れていれば、社会が望む無垢な「夢見る十五歳」でいられる。したがって、じつは無垢な「夢見る十五歳」のほうが、「セックスに興味をもつ十五歳」より、ずっとしたたかで大人っぽいのです。
このごろのセックスを知っている十五歳は、むかしの「夢見る十五歳」よりも言葉づかいも顔つきもずっと幼い。それは、体の成長が早くなったとか心が成長しないとかいう以前に、大人になること(=社会)を拒否しているからにほかならない。
社会を拒否していれば、生きものとしての自然性が露出してくる。そして生きものとしての成長なら女のほうが早いに決まっているし、社会の仕組みからも身体の構造上からも女の子のほうが早くセックスを体験してしまうのは当然の成り行きでしょう。
で、男の子たちは取り残され、途方に暮れる。十五歳の少年はセックスに興味はあっても、実際にどうやってすればよいのかどうやって女の子を誘惑すればよいのか、そういうことがまだよくわからない。それに少年たちがサッカーや野球に夢中になっていた小学生のころ、女の子たちはすでに少女漫画やテレビアイドルなどを通じてたっぷりと擬似恋愛を体験してきている。であれば遅ればせながら恋の世界に入ってこようとしている十五歳の少年がいきなりセックスがセットになった恋愛をしようとしても、そりゃあ途方に暮れるのもとうぜんです。また田舎と違って都会でデートするのは何かとお金がかかるし、彼らが恋に不器用になってしまう要因は幾重にも用意されている。「アイ・キャント・エクスプレイン」というつぶやきは、そういう背景から生まれてきたのであり、それはまたこの国における現在の十五歳の恋でもある。
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いずれにせよ、ストリートの若者の恋は、ときにきわめて安直であり、あるいはときにもどかしいくらい不器用であったりする。ザ・フーのラブソングがつねに具体的であるのは、ストリートではビートルズが歌うような世間によくある「心模様」が生まれにくいということもあったのかもしれない。それらは「ラブ・ミー・ドゥ」や「プリーズ・プリーズ・ミー」というよりももっと直接的で不器用な恋であり、誰もが思い当たるわけではない。あくまで社会と和解できない若者の恋の気分が歌われている。
ちなみに、ザ・フービートルズも、デビューは二十歳をちょっとすぎたころだが、ジャケット写真を見ると、ザ・フーのメンバーがハイスクールの少年のような顔つきであるのに対して、ビートルズはもっと大人びた顔をしている。