若者論としてのザ・フー・2

ビートルズが、恋というのはこういうものだというある断面を指し示し、世界中の若者が、そうだそうだと納得する。みんな一緒の恋。取替え可能な恋。恋とは、デートをすること、やきもちを焼くこと、抱きしめること。恋をすることは青春であり、日米の若者は、青春がしたかった。大切なのは、青春を謳歌する暮らしなのだ。生きるとは、青春を謳歌することだ。そういう気分に、ビートルズの歌はみごとにフィットしていった。
しかし「青春を謳歌する」とは、いったい何なのでしょう。それは、世の中に定着しているひとつの暮らし方のイメージであり、つまり「共同幻想」だ、ということです。謳歌しなきゃいけないというわけでもないのに、謳歌していないとちゃんと生きていないような気持になってしまう。あのころ日米の若者は、そういう気分にはまり込んでいたのです。世の中から、そういう気分にさせられてしまっていた、と言い換えてもよい。
若者が青春を謳歌するのは、いい社会であることの証しです。こんな社会で、革命なんか、起きるはずがない。青春を謳歌するとは、社会生活を謳歌する、ということです。頭の中を社会に飼いならされてしまっている、ということです。そんな若者が日米の社会には溢れていて、ビートルズに夢中になっていた。
青春を謳歌するとは、青春を確認する、ということです。それ以上でも以下でもない。彼らの青春には切実な嘆きがなかったから、嘆きからカタルシスにたどり着くという心の動きのダイナミズムがなかった。団塊世代謳歌していたつもりの青春なんて、ようするにそのていどのものです。
あのころ流行った加山雄三若大将シリーズの映画を見てみればいい。主人公をはじめ、それぞれが間延びした顔をして青春を確認しているだけで、嘆きもカタルシスもない。
彼らは、この社会で青春を謳歌=確認することに頭の中がいっぱいで、つねに社会とともに生きていた。
しかし、同じころのイギリスの若者は、社会から置き去りにされていたし、社会と歩調を合わせて生きることを拒否していた。彼らは、社会から孤立して生きていた。青春を謳歌することよりも、「若者であること」それじたいをアイデンティティとしていた。これは、似て非なる意識です。社会と関わって青春を謳歌するよりも、社会とは離れた自分たちの世界に立って、若者であることを確認する。それはつまり、青春と出会うのではなく、恋をしていることをよろこぶのではなく、この世でたったひとりの「あなた」との出会いに驚きときめく、という態度です。彼らは、若者としてこの社会から孤立している。その孤立感=嘆きが、恋や青春の何たるかではなく、「あなた」という「ひとり」に気づくのだ。
ザ・フーは、そういう出会いを歌った。
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愛しかたも愛されかたも、愛についての認識も、人それぞれである。私の愛か、あなたの愛か、彼か彼女か、誰の愛なのかを示さなければ、フェアじゃないし、ロックじゃない。すくなくともザ・フーのラブソングに、普遍的な愛の概念などはない。だから、社会と和解できないストリートの若者をモチーフにしながら、つねに誰の愛なのかを示して歌っている。
その非社会的な出会いのかたちを掬い取ろうとするスタンスは、デビュー曲「アイ・キャント・エクスプレイン」ですでにはっきりとあらわれている。

俺の中から湧き出る感情/説明できないよ/なんかぐっとくるものなんだ/でも説明できないよ/熱くなったり冷たくなったり/うまく言えない/そうさ、魂の奥底で/説明できないよ/言っただろう、うまく説明できないって/今気分はいいんだ、イエイ/だけど説明できないよ//頭がふらふらする/落ち込んでいるんだ俺/おまえの言ったことさ/たぶん本当のことなんだろうけど/おかしな夢を見てるんだ/何度も何度もなにか唸り声を上げてるのはわかるけど/説明できないよ/それって愛だと思う/おまえに言おうとしてるんだ/俺が落ち込んでるときに/だけど、うまく説明できないんだ//説明できないよ/俺の言うこと聞いてくれよ、なあ/うまく説明できないんだ//説明できない/もう一回俺の言うこと聞いてくれよ/説明できない/説明できないんだ/おまえのせいでかっとなっちゃって/俺ってどうかしてるよなあ/イエイ/説明できないんだ/

この歌の主人公は、「ラブ・ミー・ドウ」のようにノウテンキに愛し合おうよとはいわないし、「プリーズ、プリーズ、ミー」と強引にもたれかかってゆくこともできない。ただもう目の前にいない相手に訴えかけるというモノローグであり、思春期の若者の自分で自分を持て余すような不器用さを歌っている。
このように若者のもやもやした気分を表現するといった視点は、それまでのポップソングにはなかったものだった。またザ・フーであれストリートの若者であれ、自分を持て余したり相手の気持ちをはかりかねたりする者にとっては、「ラブ・ミー・ドウ(愛しておくれ)」などというせりふはそれなりにせっぱ詰まったときでないといえない。それが都市の若者であり、ストリートのタッチなのだ。
「ラブ・ミー・ドウ」というタイトルがすでにビートルズの無国籍的なしたたかさと垢抜けない妙な色気をあらわし、一方ザ・フーの「アイ・キャント・エクスプレイン」には、どこか都市の若者らしいはにかみや照れが垣間見える。