若者論としてのザ・フー・13

こんなことばかり考えていたら誰とも連帯できない人間になってしまう、という気分は正直言っていつもあります。しかしもう、引き返せない。
世の中の善男善女に対してはもう、そんなふうにおめえらの薄汚い俗物根性を俺の前に突き出さないでくれよ、と思うばかりです。正義づらして、この世の中の隅から隅まで自分たちのものであるつもりでのし歩いている。
僕に薄汚い俗物根性がないとは言いませんよ。有り余るくらい持っている。だから、天井を仰いでうぎゃあと叫びだしたいくらい恥ずかしいと思っている。だからこそ、やつらのような正義づらはようしない、というだけのことです。
ザ・フーのいちばん新しいアルバムには、こんなフレーズがある。
「僕たちが恋をするためには、まだ孤独が足りない」
60を過ぎたおっさんがこんな初々しいことを言うなんて、泣かせます。彼らは、ビートルズと違って、世の、大人という善男善女との連帯を拒否してここまで音楽活動を続けてきた。
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共同体において、若者は避けがたく「異人」になってしまう。
タバコのポイ捨てをする若者も、ニートも引きこもりも秋葉系オタクも、中世の非人のような存在として見られている。彼らは、この社会の異人です。
そして社会は、困ったものだと言いながら、実際には彼らを相手にどう商売しようかとか、どうこき使おうかとか、そんな動きばかりしている。
中世の非人たちが、死体処理の役目を引き受けたり、芸能民や特殊技能の職人集団になっていったりしたことだって、共同体が彼らの動きの後を追いかけ利用しようとする本能をもっていたからでしょう。
共同体は、異人を差別するが、排除することはできない。なぜなら、新しい時代はつねに彼らによって切り開かれてきたのであり、共同体はそのあとをなぞってゆくだけです。
新しい時代は、現在にたいする拒否反応として生まれてくる。そしてその拒否反応は誰もが個人としてどこかしらで抱いているのであれば、若者は、よりラディカルに拒否反応を示す異人を大人たちに先立って支持してゆくことになる。それがロックであり、中世の歌舞伎などの芸能も、そうやって生まれてきた。
大陸から渡った仏教がどんどん日本的に変質していったのは、庶民がそれを支持したからであり、支配者は、困ったものだと言いながらそれを後から利用していっただけだ。それは、共同体の意志ではなかった。人々の共同体を鬱陶しいと思う心に支持されていった結果なのだ。
現在(今ここ)にたいする拒否反応は、根源的な命のはたらきであり、時代だってどうしてもそういうかたちで動いてゆく。大人たちは、若者を嘆き、若者を教育しながら、しかしけっきょく時代は若者に先導されている。
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大人たちは、若者を狩猟する。教育とは、そうやって若者をまとめて去勢し社会に投げ入れてしまうシステムです。去勢してしまわなければ社会でなんかやっていけるものではないと大人たちは身にしみてわかっているからであり、と同時にその行為には抗しがたいサディスティックな恍惚がともなっている。それは、自分がかつてそうやって去勢されたという社会にたいする受難意識と、右のような若者にたいする嫉妬と劣等感に由来する。受難意識と嫉妬と劣等感こそ、サディズムの故郷である。酔っ払ってサディストに変身するケースなど、ほとんど例外はない。「みんな俺たちをへこまそうと躍起だ」と若者が大人の言うことを鬱陶しがったり怖がったりするのは、それが社会を代弁しているからというだけでなく、そこにグロテスクなサディズム差別意識を感じるからだ。
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「幸せ」を願うという習性は、ひとつの去勢である。社会の大人たちが立派な大人になろうとするように、幸せになれる社会があるから幸せを願っているだけです。それは、人間の本性でもなんでもなく、そういう「よい社会」から要請される強迫感に過ぎない。願いを叶えることが自由だというなら、願わないことはもっと自由である。幸せは社会のなかにあるが、生きものとしての生きた心地は社会のそとにある。幸せの自覚より、さびしいという気持ちのほうに生きた心地はある。幸せのなかにあるのは、幸せであるという自覚であって、生きた心地ではない。生きた心地は、願わないのにやってくる気持ちのなかにある。人が何かを願うこと(欲望)は、ひとつの制度である。生きものとしての生きた心地を願うわれわれは、願わないことを願っているのだ。生きていれば誰しも、願わないのに向こうからやってきてふとこの生を揺さぶられるという体験をする。おお寒い、といって思わず身をすくめる。こういう体験のなかにも、自分が生きものであることへの郷愁はある。自分が生きものであることに気づかないで生きてゆくことなど誰もできないし、若者はその体験が大人よりも濃密なのだから、そういう意味で彼らの社会にたいする拒否反応は二重にも三重にも正当であり普遍的なのだというほかない。
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人間には大人にならなくてもよい自由はないのか・・・・・・階級社会の歴史と伝統をまとう都市のひりひりするような喧騒のなかで、「ザ・フー」はこのことを問い続けた。また階級社会とは、若者を大人にしてくれない社会でもあった。彼らにとって社会を拒否することは、社会を肯定し受け入れることでもあった。
当時世界中のどのロックグループよりも非社会的でパンク的であったはずの彼らはまた、もっともイギリス国旗であるユニオンジャックが似合うグループでもあった。その四人が大きなユニオンジャックにくるまっている写真がレコードのジャケットになったりもしているくらいである。そして初めてのアメリカツアーに際しては、こう言っている。「俺たちはアメリカンドリームの奴隷なんかじゃない、イングリッシュ・キッズとしてアメリカ人をあっと言わせてやりたいだけだ」と。
アメリカは、富を手にしさえすれば地位も名誉も人々の尊敬も得られる社会である。しかしイギリスの階級社会では、それでも労働者は労働者なのである。つまり、富を手にしてもアイデンティティの得られない社会なのだ。だから若者は社会を拒否するのだし、しかしだからこそアメリカンドリームの底の浅さを軽蔑してしまいもするのである。彼らはユニオンジャックにくるまりながら、それでもつねにイギリスの大人たちから疎まれ続けた。その理不尽な不条理性に、「ザ・フー」のローカル的であると同時に普遍的でもあることの根拠と、やるせないようなざらついた気分の水源があった。
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ザ・フーのメンバーは、どんなに成功しても不思議なくらいいつまでも情緒不安定な生き方を続け、ドラマーのキース・ムーンがドラッグとアルコールのために31歳という若さで他界してしまったのはその象徴であった。しかしだからといってその死が「年とるまえに死にたいぜ」という嘆きに殉じたとする報道はいかにも安直なセンセーショナリズムであり、またその歌詞を、「若者らしい刹那的な衝動である」とか「彼らのその後のバンド活動は、みずからのその言葉に苦しめられることになる」というようなうがった言説にしてもけっして説得力はない。むしろこの言葉こそ、残されたメンバーのその後を支え続けたのだ。それは、年をとってもけっして「大人」にはならないという決意表明であると同時に、成長しないことが成長することであるというこの生の不条理性を見てしまったイングリッシュ・キッズのしたたかな知性であり、だからこそ四十年を経た今なお現役のライブバンドとしてのパワーとクォリティを保って活動し続けていられるのだろう。