若者論としてのザ・フー・11

ザ・フー論のための覚え書きとして、今日は、若者という「異人」について考えてみることにします。
生きることの意味や価値を追求することは、共同体の動きに参加してゆくための、ひとつの手続きです。そういう考えを持っていないと働くことなんかどんどん嫌になってしまうのだが、べつにそれが、生きることの本質だというわけではない。だからニートや引きこもりの若者が、俺にはそんな考えを持たなければならないような義理も義務もないというなら、それは正当だと思えます。
人間の命の価値だって、虫けらのそれ以上でも以下でもない。
ただ、生まれてきたからにはそうかんたんには死にたくないという思いは、誰にもある。虫けらにだってある。ゴキブリだって、叩こうとすれば、逃げる。
幸か不幸か、因果なことに生きものは、死ぬことにたいする拒否反応を持って存在してしまっている。いや、死ぬことのなんたるかなどわかりゃしないのだが、痛いとか苦しいという感覚として、死ぬまいとするような身体のシステムを持っている。
生きてあることは、死ぬまいとすることだ。生きようとすることではない。
確かなことは、今ここに生きてあるということだけだし、今ここにおいて起きていることは、今ここにたいする「反応」だけだ。人間だろうと虫けらだろうと、命の根源のはたらきに、それ以上のことは起きていないはずです。
今ここにおいて生きてあるということ、それを肯定することは、今ここにとどまって未来には行きたくない、ということです。しかし生きものは、生きてゆく。命のシステムは、未来に行くまいとしてははたらいていない。未来などあるかどうかわからないのだから、原理的に未来を目指すということはありえないのに、結果として未来に向かうようにはたらいている。それは、今ここが嫌だと反応してしまうからでしょう。今ここの息苦しいことや空腹であることなんか嫌だから、息をするし飯も食う。今ここにうんざりして、今ここから離れてしまう。
生きることの根源は「反応」することであって、何かに「向かう」ことではない、と僕は思う。だから、現象学が持ち出す「志向性」という概念は、どうも虫が好かない。
今ここにうんざりすることが、生きてゆくということだ。
今ここに執着することは生きてゆくことにならないし、未来に向かって生きてゆこうとする衝動などというものも、原理的にありえない。
今ここを否定することが、命のシステムなのだ。
それは、実存主義者の言うように、未来や他者に向かって自分を「投企」することではない。今ここから消えようとすることだ。未来が欲しいのではなく、今ここにうんざりするから、未来に行ってしまうだけのこと。今ここの自分にうんざりするから、目の前に現れた他者や世界に反応してしまう。命のシステムは、どうやらそういうふうにはたらいているらしい。
われわれは、先験的に「志向性」や「愛」などという衝動を持っているのではない。身体の世界にたいする「反応」が、意識として浮かび上がってくるだけのことだ。そして身体からもたれされる意識など、息苦しいとか痛いとか熱いとか腹が減ったとか、そんなような拒否反応ばかりです。しかし、そうやって自分にうんざりするすることばかりして生きているからこそ、自分ではない他者をいとしいとも思うのではないでしょうか。
自分を肯定する(赦す)という観念行為が、自分だけで完結することができるのなら、他者なんていなくてもいいのだ。
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ザ・フーは、ロック・グループとして、あくまでもこの社会の大人にたいする「異人」であることを表明し続けたのであり、それこそがほんらいの若者の姿だということをわれわれに教えてくれる。
人類学では、「異人」とは「共同体から排除された者」だ、といわれています。
しかし、排除されたわけでもないが、今ここの共同体にうんざりする、という「反応」は誰のなかにも多かれ少なかれある。共同体は、けっして「異人」を排除しない。周縁部(下層)に置いたまま、差別し監視し続けようとする。
したがってそんな情況から、みずから共同体の外に立ち、そこからふたたび共同体の中で監視され差別されている者たちを祝福するためにやってくる「異人」が生まれてくる。そういう異人のことを、折口信夫は「まれびと」といった。
ロック・グループは、現代社会の「まれびと」として機能している。
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めくらの琵琶法師が漂泊の身であったことは、「共同体から排除されたから」というだけのことじゃない。日本中にその歴史語りを聞きたがっている人がたくさんいたからであり、彼らじしんの中に、めくらを差別する共同体の秩序にうんざりする思いもあったでしょう。べつに差別されなくても、めくらと目明きではその日常感覚も世界観もずいぶんちがう。それに目が見えないからこそ、一ヶ所にじっとしていられないという衝動も切実にちがいない。研究者の言うような「強いられた漂泊」なんて、そんな単純なものだとは僕は思わない。共同体は、「異人」を排除しないで、差別し監視し続けるのだ。
ネアンデルタール縄文人が、ひとりで生きてゆけない不具者をみんなで世話して長生きさせてやった、という例はいくらでもある。したがって、めくらの漂泊者が生まれてきたという歴史は、単純に「排除されたから」とか「強いられた」という問題だけではすまない。彼らは「排除された者」たちではなく、あくまで「訪れ祝福するまれびと」なのだ。
そして琵琶の音に聴き入る共同体の人々にしても、今ここの共同体の秩序から解き放たれるようにして琵琶法師の語る歴史に身を浸してゆく。それは、めくらが語る夜の闇の向こうという共同体の外部の世界にいざなわれるという体験にほかならない。
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共同体の秩序がいいものであろうとあるまいと、今ここにうんざりしてしまうのが、生きものとしての根源的な衝動であり、人情の常というものだ。
共同体の中にいる者も外に立つ者も、誰もがどこかしらで共同体の秩序にうんざりしている。だから、出てゆく者も生まれてくるし、出ていった者をあらためて「まれびと」として迎える習俗もつくられてくる。「まれびと」は、共同体の秩序にうんざりしている日常の心を浄化してくれる、非日常(ハレ)的な存在なのだ。
人間は、けっして「嘆き」を手離さない。嘆きがあるから、そこからカタルシスを汲み上げることもできるのだし、それが、今ここから逃れようとする命のはたらきの根源的なかたちでもある。
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昔の時代は、今ここの共同体の秩序にうんざりしていないのは、支配者とか富裕な商人とか、そういう階層の者たちだけだった。しかし現代社会においては、そういう共同体の秩序と結託した層が、昔より圧倒的広がってしまっている。一般の市民レベルにおいて、すでに共同体の秩序(資本主義)や自分自身に、まるでうんざりしていない。それが、問題です。まるでカタルシスを喪失してしまった支配者や富裕な商人のような現象として、現代のEDやら鬱病やら老人ボケが起きてきている。
EDなんて、江戸時代は、支配者や富裕な商人だけの病気だったのに、いまや一般の市民層においても珍しいことではなくなってきている。
マリー・アントワネットは、ギロチン台に上がるとき、誤ってそばに立っていた刑吏の足を踏んでしまい、「ごめんあそばせ」と優雅につぶやいた。王女の凛とした誇り高さを示すエピソードなのだとか。冗談じゃない。こんなもの、誇り高さでもなんでもなく、死の恐怖と向き合うことができず、半分失神してしまっていただけでしょう。それで、条件反射的に、ついいつもの習慣があらわれた。あたりまえの心をもっていれば、恐怖に震えて泣きわめくしかないことです。しかし、それができるのは、「嘆き」からカタルシスをくみ上げてゆく精神の運動を持っている者だけです。そんな事態になっても、まだ嘆くことができない。目の前に迫った我が身の現在に「反応」することができない。これもまた、ひとつのEDなのだと思えます。そういう空虚が、今、市民レベルにまで広がってきている。当然ですよね、現代の市民は、ある部分ではマリー・アントワネットに負けないくらい優雅な暮らしをしているわけだから。
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日本において、共同体(支配者)が本格的に異人を「えた」や「非人」として周縁に追いやっていったのは、中世以降です。
だが、そうやって人々の「穢れ」を忌み嫌う意識が肥大化してゆけば、たとえば、死体を処理したり弔ったりする者がいなくなってしまう。そこで、周縁のそうした異人たちが、その仕事を引き受けてゆくことになる。彼らがなぜその仕事を引き受けることができたかといえば、貧しいからではなく、意識が共同体と同化していなかったからだ。
共同体は、何世紀にもわたって彼らを差別し続けた。それでも彼らは、その仕事を引き受けてきた。
引き受けなければ生きてゆけなかった、と考えるべきではない。彼らには、生きにくさを受け入れることができる心性を持っていた。それは、外なる漂泊者の心性である。彼らは、不浄から浄へと昇華してゆくカタルシスを誰よりも深く体験していたし、共同体から差別されつつも、下層の人々からはその神性をうやまわれてもいた。また、共同体の外に立つ者として、共同体に対する愛着もなければ義務もなかった。彼らは。「訪れ祝福するまれびと(異人)」だったのだ。
まあ、差別が度を越えてグロテスクになってきたのは、明治以降の戦争の世紀になって、共同体の内部が集団ヒステリー状態になり、「生贄」を必要としてきたからでしょう。そのとき彼らは、すでに「国民」という内部的な地位におとしめられていたわけで、そうなれば人々の彼らを神聖視する心も薄れ、それであんなグロテスクな差別をされるようになってきた。
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共同体は、異人を排除しない。共同体の周縁に追いやるだけです。なぜなら、秩序を維持するための差別の対象(スケープ・ゴート)として必要だからです。
共同体の外に出るのは、異人みずからの衝動による。異人は、共同体を拒否する。したがって、異人が共同体に同化してゆくこともない。同化しないからこそ、聖性を帯びるのだ。
しかし共同体は、けっして異人に聖性を認めない。なぜなら、みずからの内に、すでに聖性をそなえていると自覚しているからだ。
共同体にとっての異人は、みずからの浄化されてあることを証明するための、あくまで「穢れ」の対象でなければならない。
大人たちは、自分たちがまっとうな人間であることを証明するために、自分たちよりも美しく魅力的な存在である若者を、愚かで穢れた存在に仕立て上げる。そうして、この社会の周縁部(下層)に存在する者としてこき使ってゆこうとしている。
大人は若者をこき使っていいのだ、という共同体の論理はどこからどのようにつくられてくるのか。僕が「異人論」に問いたいのはこのことであり、ザ・フーのロックも、現代のニートと呼ばれる若者たちも、まさしくこのことを拒否している。