若者論としてのザ・フー・12

社会も大人も、存在の本質においてくだらない。若者のほうが、ずっと美しい。身体的にも精神的にも、それはもうどうしようもないことです。
近代合理主義は、大人たちの若者に対する嫉妬を正当化し、それを消去する装置として機能している。若者は愚かだなんて、その意識の底に、どうしようもなくグロテスクな嫉妬がうごめいている。
大人たちにとって若者が気に入らないのは、社会に参加しないで社会にうんざりしながら、しかも大人以上に確かな生きた心地をむさぼっているからです。若者こそ、この世でもっとも直接的に効率よく、もっとも豊穣に生きた心地を収穫している人種なのだ。
そして若者たちは、大人のそういう暑苦しい嫉妬や劣等感を見抜いているから「みんな俺たちをへこまそうと躍起だ」というのだし、それがいえるほどの確かな生きた心地こそ、60年代イギリス労働者階級の若者のアイデンティティだった。これはまぎれもなく社会に出る前の社会と向き合っている若者の普遍的な意識であり、そういう普遍性が露出するほどに60年代イギリス社会は停滞し、世代間のラディカルな緊張があったということでしょう。
若者が本気で社会に反抗すれば、社会そのものを拒否するのだから、社会を変えようとする運動にはなりえない。変えようとすれば、あのころのフランスや日本のようにときに「大センセーション」になるが、それゆえにこそ世代間の相克は、ともに社会に執着するというかたちであいまいなまま温存されている。だからこの国のビートルズ世代すなわち全共闘世代は、そのあとすんなり社会の構成員に収まっていった。
世代間の相克はむしろ、全共闘世代とその子供たちであるニート世代とのあいだのほうが、より本質的で深刻ではないかと思える。
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60年代のイギリスにおける大人たちと若者とのジェネレイション・ギャップは、戦争を体験しているかいないかにあった、といわれています。とくに支配階級の大人たちは、階級制度や不況といった社会的矛盾も、戦争がないということですべて帳消しにしようとした。だから、「この国の大人たちは腐っている」という意見も多かった。
戦争体験のあるなしでは、日本も同じだったはずです。しかし日本には、階級制度も不況もなかった。その代わり、古いものを否定するという社会的な気運は、大いに盛り上がっていた。
たとえば、古い町名や文化などがどんどん消えていってしまう時代だったのだから、それで大人という古い人種を否定するなといっても無理な話です。当時の社会が、全共闘運動を盛り上げる構造になっていた。若者は、大人を否定したのではなく、大人と同じように古いものを否定していたに過ぎない。世代間の対立など、じつはなかったのです。
若者はもちろん戦争を知らなかったが、大人たちもまた、戦争などなかったかのような顔をして生きていた。学校の授業で、戦争のことなど、ほとんど教えなかった。戦後の日本国憲法がどうたらこうたらということは、けっこう熱心に教えたが。
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余談ですが、僕は、憲法9条戦争放棄の理念を守れと叫ぶことなど傲慢だと思う。戦争をせずにいられないほどの屈辱や悲しみを味わっている人たちに、戦争をするなということなど、僕はよういわない。中国や韓国は日本に戦争を仕掛ける権利があるし、そうなったら日本だってやり返す権利がある。もうそういうことは、認めるしかないと思う。おたがいにそういうことを認め合って仲良くしていければ、と思う。認めないと、仲良くできないと思う。相手の自分を殴る権利を認めないで仲良くしようなんて、虫が良すぎるし、傲慢だと思う。僕は、人を傷つけないことを誓えるほど立派な人間ではない。
しかしだからといって、憲法9条をなくせ、といっているのではないですよ。そんなものがあろうとなかろうと、僕は国のやることなど一切信用しないし、関わりたくない。そんなことより、いつも行く喫茶店のウェイトレスがにっこり笑ってくれるかどうかということのほうが、ずっと気がかりだ。
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大人たちにとって、若者に口答えされたり対抗心を持たれたりすることと、うるさいからあっちに行っててくれと言われることと、どちらが不本意だろうか。
前者が60年代のの日本の若者で、イギリスの若者は後者の態度をとっていた。
イギリスの若者の反抗のほうがずっとラディカルだったし、そのジェネレイション・ギャップはずっと深刻だった。現在のこの国の大人たちと若者のように。
だから彼らは、ザ・フーやモッズを支持するのだ。