団塊世代に人気がなかったザ・フー

ひとりでもいい、ザ・フーのファンの方、読んでください。誰も書かなかった「ザ・フー論」を展開して見せるつもりです。できるかどうかはわからないけど、とにかくそういう意気込みで、10回以上は続けたいと思っています。
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60年代のイギリスのポップシンガーであるクリフ・リチャードは、イギリスのプレスリーといわれ、日本にもたくさんのファンがいました。
しかしアメリカでは、とうぜんプレスリーはふたりいらないということで、あまり人気にならなかった。
欧米のポップ・ミュージックを受け入れる日本のファンは、とくにビートルズ以後、イギリスとアメリカに対して等距離のスタンスをとるようになっていった。もう、アメリカ経由ではなく、直接イギリスに注目するようになった、ということです。
だから、アメリカで受けないクリフ・リチャードでも、けっこう大騒ぎして聞いていた。
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ビートルズから三年遅れてデビューしたブリティッシュ・ロックバンド「ザ・フー」は、たちまちイギリス中の若者たちの心をつかみ、本国ではビートルズをしのぐ人気バンドになっていった。
であれば、クリフ・リチャードのように、日本でも大いに人気が出てもよかったはずだが、当時ハイティーンだった団塊世代をはじめとする日本の若者には、なぜかほとんど注目されなかった。
また、アメリカでの評価も、不当に低かった。
いまやロック史に残る名曲であるといわれている「マイ・ジェネレイション」は、アメリカでの発売当時、ヒットチャートの最高位が95位というありさまだった。
どうやらザ・フーが発信していったロック・メッセージは、日米の若者の気質には合わなかったらしい。
そのときザ・フーは、イギリスの若者(ことに労働者階級の若者)に圧倒的な人気を得ていたのであり、それはつまり、日米の若者とイギリスの若者では、置かれた状況も精神的な傾向もかなり異質だった、ということを意味する。
そのあたりのところを検証しながら、団塊世代や若者という存在についても考えていってみたいと思います。
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60年代のイギリスを代表するロックグループ「ザ・フー」は、世界的にはビートルズローリングストーンズの陰に隠れた存在であったが、当時のイギリス社会における労働者階級の若者にはもっともストレートに熱く支持されていた対象だった。ビートルズストーンズの世界性にたいする「ザ・フー」のローカル性、それが一般的な評価だった。
じっさいイギリス本国でも、幅広く受け入れられていたわけではない。あくまで都市の若者の、社会と和解できないやるせないようなざらついた気分に訴えてくるところに本領があった。
逆にいえば、そういう若者であれば世界のどこに住んでいても「ザ・フー」を支持する。だから、団塊世代が見向きもしなかったこの国でも、現在のコアなロックファンの若者のあいだでは、ときにビートルズ以上に再評価されたりするようになってきており、「ミッシェル・ガン・エレファント」など、本格的なロック志向のバンドは、ビートルズよりもむしろザ・フーにシンパシーを抱く傾向も少なくない。
少なくとも「都市」の若者の気分を代弁するということにおいては、「ザ・フー」は、ビートルズストーンズよりも世界的であったのです。
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資本主義経済の拡大にともなって、いまや世界中が都市化してきているが、六十年代の日本の若者にはまだまだ本格的な都市の若者の気分はなかった。
たとえば60年代の東京は、江戸時代以来のシステムで動いていたのではなく、戦後の二十年で、新しくつくり変えていこうとしている段階だった。つまり、厳密な意味での都市というより、都市になりつつある段階だった。そのとき東京の若者たちは、都市の伝統に縛られていなかったし、むしろそれを壊してゆく時代を生きていたのです。
そこのところは、厳然とした階級制度という伝統を引きずって存在していたロンドンとは、まるで状況が違っていたはずです。
60年代のロンドンの若者は、社会的な不況と階級制度の重圧を感じながら、大人になることを拒否したくなるような鬱屈した日々を送っていた。そしてそれは、ニートや引きこもりの若者が生まれてきている現在の日本と、本質的には大いに似かよった精神状況であったはずです。
それにたいして、60年代の団塊世代の若者たちにそんな鬱屈はなく、社会から次々差し出されてくる新しいものを嬉々として追いかけながら、早く大人になろうと急いでいた。
資本主義が疲弊しているという時代はイギリスが世界でもっとも早く体験し、バブルがはじけたいまの日本がようやくそのことに出会っている。「ザ・フー」の圧倒的な支持者だった「モッズ」といわれる若者たちのファッションが近ごろこの国で見直されているのも、まあそんなところからきているのかもしれない。
若者の反抗を象徴する「モッズ」のメンタリティは、社会に対抗したり社会をつくり変えようとしたりすることではなく、現在のニートや引きこもりの若者と同じように、社会との関わりを拒否することにあった。
そしてザ・フーの場合は、おとなしく拒否したり逃げたりするだけでなく、その拒否のエネルギーによって「獣性」に憑依し、ついには「霊性」へとメタモルフォーゼしてゆくという凄みが、その音楽性にも演奏ぶりにも表現されていたのです。
それはまさに、イギリスのストリートにたむろする若者たち鬱屈を解き放つものであったし、60年代の日米の大人になりたがっている若者たちには、かえって落ち着かなくさせるようなわずらわしさに聞こえたのかもしれない。