閑話休題・弥生時代の戦争について

団塊世代とロック・ミュージックとの関係の話はもう少し続けたいのですが、古代史のことでひとつ、どうしようもなく気になっていることがあるので、今日はそのことを書きます。少し長くなるけど、明日は「ザ・フー」のことを書きたいから、一気にいきます。
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中国の史書に「倭国乱れ、相攻伐すること歴年」という記述があり、弥生時代中ごろ、日本列島は内乱が頻発していた、ということを歴史関係者のほとんどはあたりまえのように信じている。そのことが、僕はどうしても納得できない。
大陸人が勝手に書いたことなど、どこまでほんとうかわかりゃしないですよ。
ばかなやつらの国は、ばかなことばかりしている、といいたかったのでしょう。しかし、古代の日本列島は、ほんとうに内乱ばかり起こるような構造になっていたのか。
縄文時代8千年を戦争とはまったく無縁の歴史を歩んできて、やっと共同体をいとなむことを覚えたばかりの時代ですよ。どの共同体も、やっと共同体(国)になったか、なりつつある、というレベルだったはずです。
人類の戦争は、どんなふうにして起こってきたか・・・そこのところをきちんと把握している歴史学者が、どれだけいるだろうか。
もちろん僕だって、わかりゃしないですけどね。
しかし、ただ単純に、土地を奪いにいったのだ、というようなステレオタイプの説明をされても、ぜったい納得できない。
人類が農耕を開始したということは、土地の利用効率が上がって、土地=テリトリーをめぐる衝突がひとまずなくなった、ということを意味するはずです。そのあと権力が生まれてきてなおややこしい戦いの歴史に突入していったとしても、弥生時代中期は、ひとまず自分たちのまわりの土地をどうやって利用してゆこうかと試行錯誤していった時代であったはずです。
よその土地のことなんか気にしている余裕はなかった。
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人間は、けんめいに住み着こうとする生きものです。だから、基本的には、どの集落も初期段階においては自給自足していこうとする生活をしていたはずです。
人は、交易しようとして、交易をはじめたのではない。最初は、そんな衝動などなかった。誰もがまず、自給自足で生きてゆこうとしていた。交易が始まっても、基本的には、誰もが自給自足のイメージの上に生活をいとなんでいた。
夜中に腹が減ったら、まず、冷蔵庫を開けるでしょう。そんなようなことです。コンビニに走るのは、そのあとのことだ。
いつの間にか交易が発生し、そこから、交易しようとする衝動やシステムが生まれてきたのです。
たとえば、里人と山人がその境界で出会い、そのときそれぞれが収穫した里の野菜と山の獣の肉を持っていた。たがいに、相手の持っているものが欲しくなった。自分の持っているものより相手の持っているもののほうが魅力的だったから、自分の持っているものは地面に置いた。そして、たがいに相手の前に置かれたものを取りにいった。
それは、交換ではない。おたがいがそれを「採集」したのです。つまり、何かのはずみで、そういううまい体験が起きた。交易しようとする衝動やシステムが生まれてくるのは、そういう体験が重なったあとのことです。
だから、もっとも原初的な交易は、基本的には「沈黙交易」だったともいわれ、今でもそういうかたちで交易をしているアフリカの部族もあるらしい。
相手のものを奪ったのでも、交換したのでもない。みずからの手で「採集」したのです。
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共同体の成員は、「境界」までしか出かけてゆかない。その外に出てゆくのは、共同体をとび出したか追い出された者だけです。そしてそういう者たちが、交易が発展してゆく契機をつくっていった。
共同体の歴史は、そこから始まったのであり、それが弥生時代だった。
で、交易が盛んになれば、いろいろトラブルや、それにともなう怨恨なども生まれてきて、ときに戦争になったりする。
いずれにせよ、原初の戦争は、土地を奪うためじゃない。
一説には、そのころ水稲耕作の技術が行き詰まっていて、自然の沼地しか水田にできなかったから、どの共同体も新しい土地が必要になってきたのだ、といわれています。
冗談じゃない。人間は、そんなにばかじゃない。人口が増えれば、増えただけ土地の利用効率も上がりますよ。縄文時代から集落のまわりに環濠をつくったりしていたのだから、その延長で、水路をつくって水田を増やす技術くらい工夫してゆきますよ。
古墳時代の巨大水路づくりの技術は、一朝一夕に生まれたものじゃない。人口増加にともなって、そういう土木技術もじわじわ発達してきたのです。
弥生時代後期につくられた纏向遺跡の水路跡の高度な技術力から推測すれば、そのころ自然の沼地でなければ水田にできないなんてことは、絶対あり得ない。
米がつくれなければ、粟や稗をつくろうとするし、そうやって自給自足でけんめいに住み着いてゆこうとしたのが、古代の共同体のいとなみであったはずです。
人口が増えすぎて余分な人間を吐き出す、ということはあっても、共同体ごと移動してゆくなどということはないのです。そんな歴史の事実など、あったためしがない。
そしてどの共同体も、われわれの祖先は別の土地からここにやってきたのだ、という言い伝えを持っている。住み着くために、ここが最後にたどり着いた理想の地なのだという共通認識を紡いでゆく。ひとまずそういうことにして、住み着きにくい土地でもけんめいに住み着いてゆこうとしていた。人間は、住みやすい土地を探して住み着いていったのではないのです。だから、日本中世界中に人が散らばっているのだ。
したがって、古代の戦争は、歴史学者が考えるていどの安直な理由であちらでもこちらでも起きるということは、あり得ない。
古代において、共同体間の境界で「市」が立ったり、旅人をまれびととして迎える習俗が生まれてきたのは、むやみに戦争なんかしていなかったからでしょう。共同体の歴史は、そこからはじまっているのだ。
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弥生時代中ごろにつくられた「高地性集落」、これが、戦争ばかりしていたと彼らがいいたがることの根拠になっている。
交通の要所の峠や、瀬戸内の海を見下ろす島の頂上などに、槍や弓矢を作っていた集落跡がつぎつぎ発見されたということで、それを彼らは「城塞」だといっているのです。
しかし、そういうものを作っていたらしいということだけで、戦闘具や城塞らしい設備など何も出てきていないのです。
それは、狩の道具を交易する場所だったのだ。
城塞なら、そんな人里離れた峠や山の上じゃなく、集落の入り口につくるでしょう。戦争ごっこをやっているわけじゃないんだ。敵が欲しいのは、支配者の首です。その支配者の館がほとんど防御のないつくりで、なにが戦争ばかりしていたものか。
その高地性集落が見晴らしのよい場所にあるということは、向こうからもよく見える、ということです。そして、狩の道具は日常的な消耗品だから、補給のためにいつも人がやってきていたのでしょう。山に入って狩をする人たちのためには、そういうところにあれば便利じゃないですか。彼らは、いったん山に入ったら、4、5日、ときにはひと月近くそこに逗留したりするのです。
苦労して狩をしなくても、狩の獲物が手に入る。それが、狩の道具を交易する高地性集落の存在理由です。
瀬戸内海の島のてっぺんにあることだって、そこなら海の上から見つけやすいし、それじたい交易の場であることを教えている。
山の上の一ヶ所に集まった兵士だけで、共同体のまわりぜんぶを警護できるというのですか。戦争になれば、相手は、どこからやってくるかわからないのですよ。
奈良盆地の城塞は、大和川を見下ろす鷹の巣山にあったといわれています。しかし大和川を上ってくるのは、非戦闘員の船だけでしょう。戦争をしようとする者たちが、どうしてばか正直にそんなところからやってくるか。そんなことくらい、山の上から見張るまでもなく、すぐ村人が知らせますよ。というか、河口に城塞をつくるでしょう。
戦国時代の山城の場合、そこに支配者がいたのです。倭国内乱が頻発していたのなら、支配者の館もそこにつくるし、堅固な要塞も構えるでしょう。
まあ、こうした歴史解釈は、ほとんどが戦前生まれの戦争を体験している人たちによるものですからね。人間の歴史が戦争からはじまっているのだと、あたりまえのように思い込んでいる。
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そりゃあ、多少は戦いのようなことはあった。
それは、畿内よりも、北九州に多かったらしい。
なぜか。
1・それぞれ山にへばりついて、たくさんの小さな国に分立していた。
2・旅人が少なく、他の共同体の情報が、あまり入ってこなかった。そのために疑心暗鬼になって対立しやすかった。
弥生時代中期、北九州は四つくらいの文化圏に分かれていた。それほどに、共同体どうしの交流がなかった。
このことはまた、大陸からつねに人がやってきていたわけではないことを意味します。そういうことがあれば、北九州は、とっくに統一された大陸文化圏を形成しているはずです。
3・耕作地が少なく、狩猟民が多かった。
その戦いの歴史は、おそらく狩猟民どうしのテリトリー争いからはじまっている。誰もが広範囲に山野をさすらっていた縄文時代にはすれ違うだけだった狩猟民どうしの関係が、弥生時代に入って定住化が進み、それぞれがおなじ山でばかり狩をするようになったために境界が生まれ、そこでいさかいが起こるようになってきた。そうやって狩猟行為の延長として、戦いが始まった。
そして負傷した者は、山の上や峠の狩猟道具を交易する高地性集落に運ばれた。そこは、狩や戦いで負傷した人の救急施設でもあったのだ。
高地性集落の遺跡から傷を追った人骨が出てきたからといって、そこで戦いが繰り広げられていたわけではないはずだし、小国家うしの水稲耕作地の奪い合いでもさらにないだろう、と思えます。彼らは、耕作地を広げる工夫もしないで、奪うことばかりしようとしていたというのですか。あなたたちは、人間の叡智や生きることの切実さということをろくに考えもせずに、パズルゲームばかりしている。歴史を考えることは、ただのパズルゲームなのか。
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弥生時代は、近世が間近の戦国時代ではない。まだまだ人類学でいうところの「未開社会」の段階であったはずです。それぞれの国の首長は、「おさ」であって、国家の「王」ではなかった。「おさ」は、それにふさわしい「権威」を持っていたが、権力者ではなかった。これ、人類学の常識です。「おさ」は、住民によってつくられるのであって、「おさ」が住民を集めて支配しているのではない。彼らがもし戦争をするとしても、それは「おさ」の命令によってではなく、その場の成り行きから生まれる住民じしんの衝動によってなされていたのだ。
弥生時代の人々には、人を殺すことの「穢れ」の意識はなかったというのですか。殺され死んでしまうことへの「怖れ」はなかったというのですか。そんなアマゾン奥地の未開人ですら持っている意識もまるでなく、野放図に戦争ばかりしていたというのですか。まったく、ばかにしていやがる。
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北九州は、畿内よりもずっと「まれびと=旅人」を迎える文化が希薄だったし、食料自給を狩猟に頼る部分を多く残していた。だからいさかいが起きやすい土地柄になっていったのであり、したがって大陸からしょっちゅう人が渡ってきている土地でもなかったのだ。
弥生時代の人々は「まれびと」の文化を持っていたから、人を近づけないような城塞などつくらなかったし、共同体の成員はけっして境界の向こうへは行こうとしなかった。それぞれの国が「国の魂=タマ」を持っていて、それは、山に宿っていると信じられていた。つまり、それほどに自分たちの住んでいる土地に愛着があり、それほどに他の共同体に対する関心が薄かった、ということです。
そうして、共同体をとび出した者だけが境界の外に出てゆき、そういう者たちはどこでも受け入れられたし、そういう漂泊者が集まってひとつの集落をつくってゆくこともあった。
また、そうやって急激に人口が増えた地域が、共同体(国)のかたちになっていった。
したがってそこでは、共同体のアイデンティティとして、共通の出自の地を措定する必要が生まれ、そうした物語がつくられていった。2、3百年もすれば、記憶も薄れ、血も混じり、誰もがどこが出自の地であってもかまわない状況になっていたはずです。べつに、共同体ごと移動してきたのではない。
「まれびと」の文化が機能していたあのころの日本列島は、そういう構造になっていたはずです。
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そうして大和朝廷ができた古墳時代以降、朝廷の軍隊に攻められて「まつろわぬ=降伏しない」ことを選択した人々は、戦うよりも山奥に逃げ込んだ。サンカとか土蜘蛛とか蝦夷と呼ばれる人たちの歴史はここから始まった、と柳田国男は言っている。
本格的な戦争は、古墳時代以降、畿内対九州あるいは朝鮮半島として始まっている。
つまり、彼らの戦争の相手は、他の共同体ではなく、「異人」だったのだ。九州や東北の熊襲という異人、大陸の異人。そういう気味の悪いものを抹殺しようとして戦ったのであって、土地を奪うためではない。人類の戦争は、まず怨恨による人殺しと始まったのであって、土地を奪うためではない。
すくなくとも、弥生時代の小さな共同体が、耕作地を確保するためによその土地を奪いに行く、というような戦争などなかったのだ。
それぞれの共同体が人口増加のぶんだけ耕作地を広げ整備していったのが弥生時代だったのであって、共同体が自分の土地を捨ててよその土地に移動して行くというようなことをするものか。古代の人間にそんな習性があったら、みんな住みやすそうな土地に集まってきて、地球の隅々まで住み着くというようなことになるはずがない。
住みなれた土地を捨ててよその土地に行くのは、いつだって漂泊者だけだったのだ。
古代人が平気で人殺しばかりしていたなんて、よくそんな愚劣なことが考えられるものだ。人間にそういうことができるようになったのは、現代人のように、自分だけ安全なところにいて好き放題殺せるようになってからのことだろう。自分も殺されるかもしれない人殺しを、そういつもいつもやっていられるはずがないし、古代人のほうが、そういう行為の葛藤はずっと激しく濃密だったのだ。