現在の古代史観Ⅳ

原初の大和盆地は、湖だった。しかし雨が多いその地では、たえずまわりの山から川の流れとともに土砂が運ばれてきて、堆積し、やがて水面のレベルに近づき、平らな湿地帯になっていった。そうして、弥生時代後期になって、すこしづつ干上がった土地があらわれてきた。しかしそういう過程で生まれた土地だから、梅雨どきや台風のころになるとすぐ川が氾濫して、集落が水浸しになってしまう。その対策として、環濠集落や前方後円墳がつくられていった。環濠集落が発展して、前方後円墳の周濠のそばに集落をつくる、というかたちになった。環濠集落の場合それ以上集落の規模を広げることはできないが、前方後円墳のそばに環濠のない集落をつくれば、いくらでも広げてゆける。
大和盆地で共同体が発達していった理由も、ここにある。大和盆地の集落は、最初から寄り集まっていたのです。そうして寄り集まって暮らしてゆくことの文化をはぐくみながら集落の規模を大きくしていったわけで、つねに寄り集まってゆことの文化が先行していたのです。だから、どこまでも規模を大きくしていけたのであり、そこからやがて大和朝廷を中心とする共同体がうまれてきた。
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たとえば弥生時代後期の九州の吉野ケ里遺跡は、環濠集落です。それは、集落がそれ以上大きくなれないし、人々の共同体としての意識もそれ以上のレベルにならない、ということを意味します。したがって近くの同じような環濠集落と連携してひとつの共同体になってゆくということは、とてもむずかしいのです。人々の共同体意識がそこまで育ってゆかない。研究者は、吉野ケ里遺跡クラスの環濠集落がいくつも連携して九州の邪馬台国をつくっていたのだというが、そういう可能性はきわめて低いのです。
古代人の共同体意識は、環濠という境界、山という境界によってはぐくまれていった。しかしだからこそ、その境界から超えてゆくこともなかった。
それにたいして大和盆地の人々は、前方後円墳そばに環濠のない集落をつくることによって、共同体意識が限定されてしまうことから免れていたし、大和盆地を囲むたおやかな山なみにたいする感慨を共有するというかたちで、はじめから大和盆地全体レベルの共同体意識を与えられていた。
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べつに地方の豪族たちに大和朝廷をつくっていただかなくても、大和盆地の住民じしんに大きな共同体をつくってゆく能力と環境がそなわっていたのです。
地方の豪族は、その地方を支配するだけの能力しか持っていなかったのです。そしてそれぞれの地方の住民を連れてきて大和盆地に住まわせても、彼らがすぐ同じ共同体意識でまとまっていけるかといえば、そんなことはありえない。
大和朝廷東遷説、というのだそうです。くだらない。吉備や出雲を中心にした豪族たちが連携しあいながら東に移動してきて大和盆地で在来の小豪族である天皇を担いで朝廷政権を樹立したのだとか。ど素人のたわごとじゃない、由緒正しい歴史学者が言っているのですよ。
そのころの地方の豪族が、どれだけ日本列島を意識していたでしょうか。豪族が豪族でいられるのは地元だけであり、よその土地へ行けば、ただの人でしょう。さすらいびとはどこにいってもさすらいびとだけれど、豪族は、地元とよその土地での自分のアイデンティティが大きく違う。豪族だからこそ、地元に執着し、地元から出たがらなかったはずです。また新幹線も飛行機も旅館もなかったわけで、豪族だって自分の足で歩かなければならない時代だったのです。不安定な山道しかないのだから、籠で運ぶことはとても危険で困難です。籠かきに謀反を起こされ、ほおり投げられたらおしまいの山道の連続だったのだ。
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当時の日本列島で、もっともつよく日本列島を意識していたのは、大和盆地の住民だった。なぜなら大和盆地こそ、もっとも列島中から人がやってくる地域だったからです。さすらいびとだって、大和盆地に来て、はじめて日本列島を知ったはずです。古事記という民間伝承が生まれてきたのも、そういう土地柄だったからでしょう。
地方の豪族は、おそらく日本列島のことなんか、なあんも考えていなかったはずです。
話が逆なのです。この国で最初に日本列島を意識したのは大和盆地の民衆であり、大和盆地から故郷に帰った旅人の話で、地方の豪族もそれを意識するようになっていったのでしょう。
卑俗な言い方をすれば、いなかっぺの地方の豪族が、当時のもっとも大きな都会である大和盆地を統治しようなんて、おこがましい話だったのです。
大陸からときどき人や物が入ってくる北九州や出雲でさえ、「日本列島」という意識においては、大和盆地よりもはるかに閉鎖的な後進地だったはずです。「日本列島」という意識においても、「共同体」という意識においても、です。
弥生時代後期の地方の豪族に、大和盆地を統治する能力も、日本列島を統治する能力もなかったのです。そういう能力は、大和盆地に住み着いた人々の中からしか生まれてこない。
地方の豪族が集まって大和盆地や日本列島を支配していっただなんて、そんなことはありえないのだ。
歴史が人間の意志で動いてきたと考えること、そこに問題がある。研究者ともあろう知性が、どうしてそんなふうに考えてしまうのだろう。時代は、われわれの運命であって、われわれがつくっているわけではない。時代が、人間をつくるのだ。こんなこと、あたりまえでしょう。