現在の古代史観のまとめ

古代の歴史は、「権力者」がつくったのではなく、「民衆」がつくったのだ。歴史はそこから始まり、そこからやがて「権力者」が生まれていった。
前方後円墳をはじめとする初期の大和朝廷の史料には列島中の要素が混じっているというのなら、それは、列島中のさすらう人々が大和盆地に集まってきたからであって、地方の豪族という権力者が関与していることではないはずです。。
弥生時代の終末期には突出した権力がなく、国中乱れて戦争ばかりしていた。だから地方の豪族どうしが大和盆地に集まり、天皇を担ぎ上げながら、大和朝廷という大きな権力をつくることに合意していったのだ・・・・・・と一部の研究者はいう。
豪族どうしが集まって連立政権をつくったなんて、それがどんなややこしいことか、ちょっと考えればわかることです。そこにどれほどの利害関係が生まれ、どれほどの駆け引きが生じるか。政治的な合意で人と人の関係をつくろうとすれば、けっきょくすぐ壊れて、毎日が裏切りと殺し合いばかりになってしまうことは、その後の歴史が証明している。
政治的な合意には裏切りがつきものです。裏切りがあるから、政治的な合意を持とうとする。政治的な合意で成り立った関係だからこそ、裏切りが生まれる。古代の人々は、そんなややこしい人間関係で共同体をつくったのでない。それは、共同体が生まれてから後のことであり、歴史においてはじめて共同体が生まれるときというのは、気がついたら共同体になっていたというような、そうなるほかない歴史=時代の流れというものがあったはずです。
政治的(あるいは平和的)で合理的な人と人の関係こそ、もっとも現代的な関係である、と思えます。現代は裏切りと殺し合いの関係が多様化して、そのヴァリエーションがあふれかえっている。裏切りと殺し合いの関係を収拾するために政治的平和的合理的な関係が発展してきたのであり、両者は、一枚のカードの裏表なのだ。
現代のおける人と人の関係は、裏切りと殺し合いの要素を持っているから、政治的平和的合理的な関係が止揚されてゆく。人間はそのようなカードで共同体をつくったのではない、共同体をつくったから、そのような関係が生まれてきたのだ。
いや、人間が共同体をつくったのではない、共同体は、人間が寄り集まって暮らす生態として生まれてきたのだ。そして共同体が、「人間」という制度をつくっていったのだ。
レヴィ=ストロースは、「世界は人間なしにはじまり、人間なしに終わるだろう」と言っています。つまり、「共同体」が生まれる以前に「人間」という制度はなかったし、共同体の構造が「人間(性)」をつくっているのだ、ということです。
大和朝廷という共同体は、大和盆地の人々が寄り集まって暮らすという文化=生態をどこまでも発達洗練させていったところから、不可避的に生まれてきたはずです。
・・・・・・・・・・・・・・
人間の歴史は、「人間」として始まったのではない。共同体がうまれた結果として、「人間」になったのだ。
初期の大和朝廷による共同体が天皇をいただいてスタートしたのは、地方の豪族どうしの政治的な合意によるのではなく、政治的な合意など成り立たない混沌として密集しすぎた関係を、それでも関係として成り立たせていったからだ。
大和盆地は、列島中から、さまざまな生活習慣を持った人々が、歴史上かつて体験したことのないレベルの多さで寄り集まってきた地域だった。つまり、政治的な合意などといういじましい駆け引きが通用しない状況がそこにあり、その状況を収拾し受け入れてゆくために天皇という存在がイメージされていった。
人類の歴史は、「より大きな群れをつくろうとする」、あるいは「より大きな群れが生まれてきてしまう」歴史だった。その過程で、裏切りや殺し合いが生まれ、同時に政治的平和的合理的な関係が模索されてきた。しかし日本列島の歴史が天皇制として始まったということは、より大きな群れになってきたときの混乱を収拾するために、けっしてそうした関係を選択しなかった、ということを意味する。
結論を急げば、「差異」を平準化するための政治的平和的合理的な「合意」ではなく、「差異」そのものを受け入れるための「天皇」をイメージした、ということです。天皇は神で、われわれはただの人間です。これはもう、絶対的な「差異」です。日本列島の歴史は、そうやって「差異」を受け入れてきたのです。
利害関係を平準化するために、天皇がいたのではない。上も下も、大きいも小さいも、強いも弱いも、ぜんぶそのままでおたがいうまくやってゆくために、天皇という存在が必要だったのだ。なぜなら大和盆地の集落は、最初から日本列島のあらゆる地域からやってきた種種雑多な人たちで構成されていたのであり、しかも、その後もずっとあらゆる地域からやってきていたから、「差異」を平準化してゆく余裕なんかなかったのです。
言い換えれば、天皇を担ぎ上げても、豪族どうしの利害関係を平準化する合意なんか得られないのです。いちばん上に超越的な天皇がいるのだから、権力闘争に勝った豪族が好き勝手していいのです。天皇の超越性に比べたら、少々の独裁や横暴なんかたいしたことじゃない。だから、その後の歴史において、飛鳥時代蘇我氏、奈良・平安時代藤原氏、そして、平氏、源氏、さらには太平洋戦争の軍部独裁から、最近の小泉政権独裁と、この国では、複数の権力者どうしの合意の上に成り立った政権などないのです。それが天皇制の本質的な構造であり、最初のときだけは、地方の豪族どうしでうまくやったなんて、そんな歴史解釈は、のうてんきな研究者の絵に描いた餅にすぎない。
古代の大和盆地の人々は、政治的平和的合理的に合意しあっていたのではない。相手の言うことをまるごと受け入れ合っていたから、寄り集まって暮らしてゆけたのだ。良くも悪くも、「差異」をまるごと受け入れるのが、天皇制なのです。だからこそ、へたしたら、どんな独裁もまるごと受け入れてしまうし、そこからやっかいな差別も生まれてきたりするのでしょう。
・・・・・・・・・・
大和盆地では、どんなに雑多な人々がどんなにたくさん寄り集まってもまるごと受け入れてしまう文化が、他の地域に比べて圧倒的に発達洗練していた。だから大きな共同体になっていったのであり、政治的な合意の上に成り立った暮らしからは、「古事記」の物語はぜったいに生まれてこない。彼らはもともと、四方をたおやかな姿をした山なみに囲まれているという大和盆地の景観に魅せられ、その住みにくい湿地帯の住みにくさをまるごと受け入れて住み着いていった人たちだったのです。
彼らは、「未来」の住みやすさを追求していたのではない、「現在」の住みにくさを受け入れ、住みにくさを克服しようとしていっただけだ。この違いは、たしかにある。ここに、現代人と古代人、大陸的な観念と日本列島的な心性との違いがある。
大陸の歴史は、地平線の向こう(=未来)との関係として始まった。いっぽう日本列島の歴史は、水平線の向こうに行くことを断念し、水平線の向こうなどないのだと思い定め、今ここの日本列島を世界のすべてだと認識するところから始まっている。そして四方をたおやかな山なみに囲まれた大和盆地こそ、もっとも「今ここが世界のすべてだ」という感慨とともに生きてゆける地だった。大和盆地の人々は、そういう感慨ですべての人々を受け入れ、寄り集まって生きてゆこうとしていたのであって、いい暮らしをするための政治的合意をつくっていったのではない。
住みやすさを追及すれば、現在の住みにくさは排除しなければならない。人々の中にそういう意識がある集落では、かならず出奔する者が出てくる。住み着いてゆけば、やがて「今ここが世界のすべてだ」と思えない心のすきが生まれてくる。人との関係が鬱陶しくなってくる。
もともと人の生まれ持った気質は千差万別だが、それを平準化して政治的な合意をつくろうとすれば、かならず裏切る者や逃げ出す者が生まれてくる。大和盆地の人々は、そういう歴史の流れに掉さすように、千差万別であることを受け入れあうような文化を育ててゆき、その社会性(共同性ではない)によって一気に国家レベルの共同体になるまで発展していった。世界史的に見れば、ほんらい、文字を持たなければ国家のレベルまではたどり着けないのです。しかし大和盆地では、文字なしにそこまだたどり着いてしまった。それは、政治的な合意よりも、もっと高度で本質的な人間関係の文化を身につけていたからだ。
・・・・・・・・・・・
大和朝廷の政治力や軍事力や生産力や文化は、長い歴史の時間をかけて列島中から集まってきた民衆の知恵(=社会性)が結集されてつくられていった。「日本」という歴史は、まずそこから始まったのだ。古代の歴史は、豪族などという連中の権力欲・支配欲が好き勝手にいじくりまわしてつくったのではない。誰がどうこうしたのではない、人間という存在の生態から生まれてくるどうしようもない歴史の流れというものがある。それを言いたくて僕は、ここまで「漂泊論」を書き継いできた。
ネアンデルタールのことにせよ、まったく、研究者やジャーナリストという人種は、どうしてこうも愚劣なことばかり考えたがるのだろう。僕はもう、あなたたちの言うことにうんざりしている。