さらに、現在の古代史観

弥生時代後期から古墳時代にかけて、大和盆地ほど人が寄り集まって住み着いてゆく文化が高度に発達した地域は、どこにもなかった。大和盆地には、発達するべき条件が備わっていた。
九州の吉野ケ里遺跡がどうのといっても、あそこまでなのです。纏向遺跡のレベルではない。纏向遺跡に住居跡がないということは、大げさに言えば、丸の内のビジネス街か新宿の歓楽街みたいなものだった、ということになります。それほどに高度な都市だった。
飲み屋のママは、わがままなお客のいうことを「はいそうですか」とぜんぶ聞いてあげる。その代わりお客も、コンビニで買えば2百円のビールを千円で売りつけられることを受け入れる。古事記の物語から類推できる大和盆地の人と人の関係も、まあこんなようなものだった。人と人の関係は、高度で文化的になればなるほど、理不尽で不合理なものになってゆく。
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古代の九州地方は、気候がよく、大陸の新しい文化なども入ってきて、おそらく大和盆地よりずっと住みやすい土地柄だった。住みやすいのなら、無理にかたまる必要もない。生活のレベルが上がれば、そのぶん気持ちがわがままになるし、利害関係も生まれてきて、人々は、それらを収拾する政治的合理的な合意で人と人の関係をつくろうとするようになってゆく。しかし政治的合理的の合意で共同体をつくろうとすれば、その合意の能力以上の規模にはならない。だから、そのころの九州は大和盆地ほど大きな共同体を持つことができなかったし、人々が集落から出奔してゆく流れを止めることもできなかった。で、最後には大和朝廷にしてやられた。
なぜなら大和盆地は、政治的合理的な合意などなくても人と人の関係が成り立ってゆくような、つまり飲み屋のママと客の関係のような文化を持っていたからです。だからこそそこでは、九州よりずっと種々雑多な人々が九州よりずっとたくさん集まっていっても、共同体として成り立ってゆくことができたのです。大和盆地の人々は、そのために天皇を必要としたのであり、そういう心性で古事記の物語を語り継いでいったのだ。
天皇が神だなんて、まったく理不尽で不合理です。しかしそういうことをしんそこ信じられる心性を持っていれば、いきなり隣に鹿児島の人が引っ越してきても、それを受け入れることができるでしょう。人間と神との絶対的な差異に比べれば、奈良育ちと鹿児島育ちの違いなど、そうたいしたことじゃない。神と人間が一緒に暮らしている地域の人々なんだもの、人間どうしがどんなに違ってもどんなにたくさんいても暮らせないはずがない。
九州のほうが住みやすくて文化が進んでいるのだから、とうぜん大和盆地より大きい共同体が生まれるだろうとか、歴史というのは、そんな単純な論理では片付かない。
弥生時代において、人がたくさんやってくる条件と、人が寄り集まって住み着いてゆく文化をもっとも高度に備えているのは大和盆地だったのであり、そういう地域でなければ大きな共同体はつくれなかったのだ。
弥生時代はまだ、住みやすければ勝手に人口は増えてゆく、というような状況ではなかった。自然増加、などということは、ほとんどなかった。日本列島で本格的に人が増え始めるのは、奈良時代以降のことです。
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研究者が言うように、各地の豪族が大和盆地に連立政権をつくって、それぞれが相応の数の人を送り込む、などということはありえない。そんなことをしたら、地元の生産力が落ちて弱体化してしまうだけです。
稲作農耕とともに人が集まってきて本格的に共同体をつくり始めていた弥生時代後期においては、どの地域においても、みずからの共同体をいかに維持し充実させてゆくかということが、何をさておいてもの課題であったはずです。余剰の土地はいくらでもあったし、人が多くなっていろいろややこしい利害関係も生まれてくるし、そういう問題がすべて解決されたときにはじめて、日本列島をどうするかというような発想が生まれてくる。そしてそういう問題を解決していたのは大和盆地だけであり、だから、地方からはどうしても出奔してゆく人が出てしまうし、大和盆地にはそうした人びとが続々集まってきた。
たとえば、列島中の集落で毎年ひとりかふたりの出奔者を出して、そのほとんどが大和盆地に流れ込んでゆけば、大和盆地の人口はもう倍倍ゲームで増えてゆく。そのぶんふるさとに帰って行く人がたくさん出ても、それでも増えてゆく。帰った人が大和盆地の話をして、ますます大和盆地を目指す人が出てくるからです。そうやって列島中の文化が大和盆地に集まってきたのだし、また、そうやって大和盆地の文化が列島中に拡散していったのだ。
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大和朝廷は、豪族がつくったのではない。弥生時代後期の日本列島における人の動きと、人が寄り集まって住み着いてゆくことを強いる大和盆地の地勢から、自然に不可避的に生まれてきたのだ。
奈良に行ってみればわかります。古い家はみな、集落としてある。時代がすすんで人々の生活のレベルが上がれば、それぞれ好き勝手なところに家を建て始める。仕事のためにも自分の所有権を守るためにも、自分の耕作地のそばに建てるのがいちばんつごうがいい。しかし大和盆地においては、梅雨や台風の時期も水に浸からないでもすむ土地はかぎられていたから、そんな勝手なことはできなかった。つねに寄り集まって暮らし、寄り集まって暮らしてゆける文化を育んでいったのです。そしてより集まって暮らしてゆける文化を育んでいったから、やってくるよそ者を受け入れ、大きな共同体になってゆことができた。
「まれびと」の文化は、さすらう旅人を受け入れる大和盆地で育った。地方の豪族たちが占拠して初期の大和朝廷をつくったのなら、そんな文化が生まれてくるはずがないでしょう。