現在の古代史観Ⅴ

3世紀はじめ(卑弥呼の時代)の大和盆地最初の都市であろうといわれている纏向(まきむく)遺跡には、防御のための壁も溝もなかった。それは、大和朝廷がまわりを平定して攻撃される心配がなくなったからだ、と研究者はいう。冗談じゃない。彼らのいうようにそれまで戦乱の世だったのなら、なおさら堅固な壁や溝をつくろうとするでしょう。各地を侵略して平定した者だからこそ、今度は自分が攻撃される番かもしれないというおそれは、とうぜん募らせるはずです。そういう壁や溝をつくらなかったということは、それまでの「環濠集落」の環濠だって、べつに侵略者にたいする防御のためにつくられたのではなく、高地の場合は「水道」、平地の場合は集落が水に浸からないための「濠」だった、ということを意味するはずです。
そのころまでの歴史に侵略だの国盗りゲームだのということはなかったから、都市だろうと天皇の宮廷だろうと、防御のための壁も溝もつくらなかったのだ。
ただ纏向遺跡の場合は、住居の跡も宮廷の跡もないのだとか。とすればそこは、祭祀の行事をしたり、いったんそこに物資を集めてやってくる人に配るとか交易するとか、そうやって人が集まってきて、あちこちに散在する集落どうしの交流の場だったのでしょう。もちろん、列島中からさすらってきた人々も、とりあえずそこを訪ねたにちがいない。
纏向遺跡からは、地方の土器がたくさん出土している。研究者は、その土器が地方から運搬されてきたものだ、といいます。どうやって運んだのでしょう。リヤカーで運んだのでしょうか。そのころ車を通せるような道は、ほとんどなかったのです。けもの道のようなでこぼこの細い山道ばかりだったのです。古代の日本列島では、そういう道を人が往来していたのです。人が担ぐといったって、大きな甕ならひとつしか担げないし、土器なんて、かんたんに割れてしまうものです。研究者たちは、奴隷のように、奴婢に土器を担がせている図を思い描いて、舌なめずりしているのでしょうか。担がせるなら、もっとほかのものがあるはずです。その土器は、その地方でしかつくれないものだったのでしょうか。古代人にとって土器が、そこまでしなければならないほどの貴重品だったのでしょうか。そんなはずがない。それらは、各地からやってきた人が、大和盆地の暮らしに参加してゆくための手土産として、そこでつくって見せたのでしょう。土器を運搬する必要なんか何もない。人が来てつくればいいだけです。
纏向遺跡に、防御のための壁も溝もなかった。おそらく日本中の集落が、人が自由に出たり入ったりできる構造になっていたのだろうと思えます。豪族(支配者)が意図的にあれこれいじくりまわして、そのころの日本列島の歴史を動かしていたわけではないのだ。
海水浴場で砂のお城をつくっているようなレベルで古代史を語ってもらっては困ります。
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騎馬民族征服王朝説の信者は、いまだに後を絶たない。近畿地方に九州と同じような地名が数多くあるのは、古墳時代に九州にいた騎馬民族がそこを制圧していったからだ、という。なんと短絡的で愚劣な思考であることか。
九州からさすらってきた人々がそこに住み着いた、というだけのことでしょう。人口が現在の1パーセントにも満たない古代の日本列島が、現在と同じようにどこもかしこも人が住む土地だったはずがないのです。名前のついてない空き地は、いくらでもあったのであり、そこに住み着いて故郷の名をつけた、それだけのことでしょう。
制圧者がやってきて、勝手に名前をつけ変えて去ってゆく、なんてことがあるはずがない。だいいち、そんなことをする必要がない。ヒットラーは、制圧した土地の名前を、かたっぱしからドイツの地名に変えていったのか。征服者は「大和朝廷」という名前はそのままにして、地方の小さな集落の名前を変えることばかりにこだわったのか。征服者がいたのなら、「大和朝廷」なんて名前はとっくに消えてなくなっていますよ。まったく、この研究者の頭はどうかしている。そしてこんな愚劣な説を「ロマン」だという信者の頭も、そうとうに変だ。
そのころ、九州を捨てて大和盆地の文化圏を目指す人がたくさんいた。それは、九州における共同体の維持や運営にほころびが出てきて、出奔する者がたくさん生まれてきたからだ。畿内に九州の地名が散在するのは、そういうことを意味しているのであって、九州の勢力が拡張していったことではないはずです。流れとしては、むしろ弱体化して大和の勢力圏に組み込まれてゆく現象だったのだろうと思えます。
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九州に「山門=やまと」という地名があり、そこが邪馬台国だったのだという説があります。字から類推すれば、はじめは「やまかど」だったのでしょう。つまり、山の入り口。それにたいして大和盆地の「やまと」は、「やまびと」からきているといわれています。卑弥呼以前の時代における大和盆地の周辺の山で暮らしていた人々がそこを「やまと=やまびと」といっていたのでしょう。
どちらが邪馬台国だったかはともかく、「大和」は、一部の研究者が言うように、邪馬台国以後に九州の「山門」からやってきた人が制圧してはじめてその名になったのではないはずです。また、そんな遠い九州の一地方からやってきた人が、列島中から人が集まってくる大和盆地の住民の大勢を占めるなどということもありえない。山門の住民全員が移住していってもまだ足りないし、そんなことがあるはずもない。「大和」と「山門」は無関係なのだ、と思えます。
現在の大和盆地の状況からすれば、列島中からそこに人が集まってくることなど考えにくいかもしれないが、古代においては山道を人が往来していたのであり、すべての山道は大和盆地に通じていたのです。