無常と漂泊

日本人の漂白の心性を問おうとするなら、やはり「無常感(観)」の問題は避けて通れないように思えます。
仏教では、それは、観念であり思想であり哲学であるわけだが、日本列島では、もっとプリミティブで身体的な心模様としてある。
「無常」ということがさかんに言われるようになってくるのは、中世になってからだが、もともと日本列島の歴史は、無常感の上に始まっているのだと思えます。
すなわちそれは、縄文人の心性でもあるのだ、と。
中世は、歴史上もっとも国情が乱れていた時代だといわれています。戦乱は絶えなかったし、強盗や裏切りも日常茶飯事だった。人生なんてあっという間だ、どうせみなすぐ死んでしまうのだ、という認識。しかしそれは、観念的な思想です。そんなことは、仏教でも言われている。
諸行無常 是正滅法 生滅滅己 寂滅為楽」・・・・・・日本人は、「涅槃経」のこのフレーズを訳して、「いろはにほへと・・・・・・」というアルファベットにした。それほどにこの世界観に親しみをおぼえ、それほどに無常感が体に染み込んでいた。
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人類で最初に「ゼロ」を発見したのはインド人らしいのだが、氷河期が明けて日本列島が大陸から切り離されたとき、縄文人が、海を眺めながら水平線の向こうは何もないのだという感慨を抱いたことも、ひとつの「ゼロ」の発見であったはずです。
ただ「ない」というのではない。「あるでもない、ないでもない」という茫漠とした「ない」です。大陸的な「ない」は、「ある」を証明するための「ない」だが、それじたい独立した根源的な「ない」という認識、あるいは感慨、そういうものがわれわれの中にある。それはたぶん、縄文人が眺めた水平線の向こうのことだ。そこはもう、「ある」ことも「ない」ことも確かめようがない。そういう「ない」です。
大陸では、「ある」にたいする反措定として「ない」を発見したが、日本列島の歴史は、「ない」から始まっている。
自分が今生きてあることは、確かなことか。よくよく考えてみれば、そんなことはわからないのだ。そうであるようでもあるし、ないようでもある。もしかしたらこの世界なんて、ないのかもしれない。この世界も自分の存在も、ただの幻のようなものかもしれない。考えれば考えるほど、わからなくなってくる。
それは、ただもう「信じる」という観念のはたらきの上でしか成り立たない。この世界や自分が存在しているかどうかということはわからないない、存在していると信じているだけのことだ。信じて、われわれは生きている。もしかしたら、死ぬことも生きることも同じことかもしれないというのに。
道元は、こういうことを「生死即涅槃」といった。それは、確かに実存に関する哲学であり、形而上学であるのかもしれない。しかしその認識は、すでに縄文以来の民衆の中にあった。哲学者のどんなに高邁な認識も、民衆の中の認識、すなわち「歴史」を超えることはできない。
われわれ日本列島の人間は、縄文時代に、「あるのかないのかわからない」という心的な体験をしてしまった。日本列島の無常感は、そこから始まっている。
いきなり中世から始まったのではない。国が乱れて明日の命も定かでない時代になったから無常感が生まれてきたのではなく、もともと日本列島で暮らす人間の誰のなかにも無常感があったから、そういう時代が生まれてきたのかもしれない。
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「無常」がさかんにいわれる前の時代、平安王朝期の文学では、「あはれ」とか「はかなし」という言葉がさかんに使われていた。
「あはれ」とは、長く息をする心と体の状態を表現する言葉なのだとか。「ああ・・・」とか「はあ・・・」とか、そういう嘆きの息が、「あはれ」という言葉になった。とくに「は」は、息そのものの音韻です。つまり「はかない」ものにたいする感慨が「あはれ」という長い息をもたらした。
では、何が「はかない」のか。すべてです。人の心も、生きてあることも、時間の移ろいも、この世界のすべてが「はかなし」と嘆くほかない対象だった。「はかなし」と嘆くことが、生きてあることの証しであり、ひとつのカタルシスだった。
「はか」とは、もともと「ひとはか、ふたはか」と、仕事の量や時間とか土地の広さをはかる単位だった。縄文人弥生人は、たとえば1メートルとか1時間といった不変の単位をつくらなかった。そのときそのときの状況で、「ひとはか」の時間や量や長さや面積を決めていたらしい。彼らにとって「はか」は、固定した単位ではなかった。つまり、世界そのものが仮のものだった、ということです。だから、「か」という確かな存在にたいする感慨を表現する音韻の上に、「は」というたよりなさを表す音韻をかぶせた。
「はか」という言葉じたいが、すでに「はかない」というニュアンスの上に成り立っていた。だからこそ、死というはかなさの象徴である「墓」という言葉にも転じていった。
その「はか」が、固定した単位=世界を表す言葉になっていったのは、おそらく仏教という大陸の世界観が移入されてからのことでしょう。
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死ねば極楽浄土にいけるという仏教の世界観は、日本列島で生きてきた人々の、死後の世界はあるでもないないでもない黄泉のくにであるという世界観とは、相反するものです。それでも彼らは、「まれびとの文化」で、在来の神道とは根本的に異質な宗教をもろ手を上げて受け入れていった。その矛盾のあらわれとして、「はかなし」という言葉が生まれ、平安王朝期にはさかんに使われるようになっていったのではないでしょうか。
「はかがゆく」とか「はかどる」といえば、もともとは、煩わしいことが片付いてさっぱりする、という意味だったはずです。それが、仏教伝来以後、世界を獲得してゆくような意味合いに変わってきた。つまり、その先がない死のイメージだったのが、極楽浄土にたどり着くイメージに変わってきた。
「はかなし」とは、つまるところ、死ねばもうそこで命は終わりなのだ、という感慨とともにある言葉だと思えます。死ねばもうそこで命が終わりであれば、生きてあることも定かでないと認識することは、ひとつの救いになる。日本列島で暮らす人間の意識は、いつだってそういう無常感に傾斜してゆく。
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「あはれ」や「はかなし」も、すでに無常感の上に成り立った言葉だった。たぶんこれは、平安時代の狭い王朝世界だけで流通していた気分ではないと思う。一般庶民も含めた、いわば時代の気分だったのではないでしょうか。既成の仏教にたいする違和感があらわになってきて、縄文・弥生時代以来の伝統的な世界観がよみがえってきた時代だったのだろうと思えます。
あるいは、仏教は支配階級には定着したが、庶民のあいだにはそれほど深く浸透していなかったのかもしれない。庶民の多くは、いぜんとして神道的な無常感に浸されていた。けっきょくそういう気分が日本列島を覆っていたから、王朝内でも仏教的世界観にたいする違和感をぬぐえなかったのではないか。王朝であろうとあるまいと、人の心的な傾向は「時代(社会の構造)」に支配されているのであり、女はとくに時代に敏感な面がある。
古事記が編纂されたのは、仏教が伝来して150年以上経ってからのことだが、その民間伝承にはほとんど仏教的世界観の影響はない。そしてそれから3、4百年後の王朝女流文学隆盛のころにはもう、仏教はすでに形骸化し、一部の階級の男たちの教養でしかない状況なっていた。つまり、王朝の女と庶民は、仏教的世界観に縛られていなかった。
そのとき王朝の女たちは、王朝の暮らしを日記や物語として書き綴ったが、そこに表現された気分は、仏教的世界観に執着する王朝の男たちと同じものではなく、あくまで縄文的無常感に回帰してゆく時代の気分だった。
で、このあと、庶民の中に入っていった空也の登場を皮切りに、浄土門念仏宗教をはじめ、日本的にアレンジされた鎌倉新仏教が続々あらわれてくることになり、そこではじめて庶民のあいだにも広がっていった。
「無常」は、もちろん仏教からきた言葉だが、日本列島で暮らす者の無常感は、縄文時代にすでに決定されていたのだ。